元興の治 ①
首尾よく開治の乱を収めた竇徳だったが、彼は即座に帝位に登ろうとはしなかった。例の韜晦癖を出して、まず最初に義子耶律全冉を皇帝に立てようと群臣に諮る。王之参をはじめ李聞、諸葛嬰らは挙って苦言を呈したが顧みず、関中に使者を送る。しかし全冉は恐懼して丁重にこれを断り、むしろ竇徳の即位を促す。
全冉の意志が固いと見るや今度は武宗の遺子、旧の趙王耶律海参を推す。海参は九歳の少年である。幼少だったために、乱が起こるや宿将拓羅玄郁の手で隠され、守られていた。これも群臣は揃って反対する。特に御史小丞馬建は、若く将来を嘱望されていた英才だったが、死を賭して書を奉った。
「大乱の傷はいまだ癒えておらず、天下は英邁な主君を求めています。幼帝などは以ての外です」
さらに武都留守袁朗、宿将衛靖らも竇徳に即位を求める書を上表する。それでも竇徳は渋り続けたが、登極を勧める書が中書行台(※竇徳の官はいまだ中書令である)に山を成すに及んで、ようやく心を動かす。が、それでもまだ承諾しない。
地方の太守からは名君の登場を表す吉祥、瑞祥の報告が陸続として至る。すなわち鳳凰が現れた、ついぞ咲かなかった蓮の花が開いた、神代文字の書かれた石盤が発掘されたといった類である。
今や天下で竇徳の即位を望まぬものはなかった。独りあるとすれば、竇徳自身であるかのようであった。だがそれは果たして演技でしかない。竇徳とてほかに皇帝に相応しいものがあるとは思っていなかった。得意の謙譲の美徳を宣伝する手である。しかし今度ばかりは度が過ぎているようにも思われる。
実際、当時の士大夫で奇行をもって知られた杜如白などは、
「謙かな、謙かな、薊兄は。恭かな、恭かな、薊兄は。ついに仙境に至る。その名を問わん。それ逡巡か、あるいは狐疑かと」
と放吟して竇徳の躊躇を諷した。杜如白の知友だった劉慎はあわててその口を塞いだが、廻り廻ってそれが本人の耳に入る。みなどうなることかとおおいに恐れたが、竇徳は呵々大笑して何も言わなかった。
こうしたさまざまなことがあってようやく竇徳は即位に応じる。926年十一月のことである。すなわち大興4代高宗である。興京において帝位に登り、元興と改元した。開治の乱における功臣はそれぞれ勲功に応じて顕官となった。
袁朗が丞相となり、李聞は中書令に、諸葛嬰は尚書僕射に、馬建が御史大夫となった。誰もが認める最大の功臣たる軍師劉慎は、鄂国公に封ぜられたが中央の官職を固辞して受けなかった。先に竇徳を諷諫した杜如白は、召されて直々に諫議大夫に任命された。平伏する杜如白に笑って言うには、
「賢弟よ、これからは言いたいことがあれば直に朕に述べよ」
さすがの杜如白も恐懼のあまり口が利けなかった。本来なら死罪になってもしかたないところを恕されたのみならず、にわかに重職に抜擢されたのである。また天下の皇帝から「賢弟」と呼びかけられる栄にまで浴した。杜如白が竇徳を指して「薊兄」と称したことに応えたのである。
以後、杜如白は相変わらず奔放に振る舞ったが、忠臣としておおいに職責を果たした。高宗も彼を信頼して、どのような厳しい諫言をされても必ず耳を傾けた。
かくして数多の名臣名将に支えられた高宗の治世、世に云う「元興の治」が始まった。開治の乱で疲弊した国力はみるみる恢復し、大興は全盛期を迎える。宰相についても袁朗のあと、李聞、諸葛嬰、王班、尉遅子淵と有能なものがうち続いた。高宗のもっとも優れた点を挙げるとすれば、薊王時代から家臣の才能を見抜いて活用する術に長けていたことである。抜擢された家臣は発奮して信頼によく応えた。
高宗の時代はまた中華史上もっとも高官の汚職が少なかった時代でもある。汚職収賄で罷免された高官はほぼ皆無であり、これは中華においては特筆すべきことである。梁代に編まれた『興史』でも、彼ら名臣の潔癖は手放しで称えられている。