内乱の終焉 ③
翌926年になって、ようやく事態は動いた。それは竇徳でも愛舎でもなく、第三者によってもたらされた。江南の臨業に都する東呉の丞相閔宇啓が、十万の兵をもって卒かに斉呉に侵攻したのである。密かにこれに通じていた霈州太守林韜の先導によって、閔宇啓は瞬く間に呉領を席捲した。
ここで初めて竇徳が動く。東呉の非を責め、呉王救援を唱えて兵を発したのである。王之参を筆頭に歴戦の諸将が総じて動員され、劉慎ら謀臣も加わった兵力二十五万という大陣容である。彼らは五路に分かれて斉呉に侵入した。
まず衛靖と李聞が率いる軍団は旧の斉王領の鎮撫に向かった。拓羅崇、諸葛嬰の両将はまっすぐに彰義府を目指し、城外十里芒祿山に布陣した。愛舎には軍使を送ったが、やはり何の返答もない。
残る三軍、すなわち王之参、趙元徳、尉遅会瓊、完顔阿海、劉慎らに率いられた精鋭は東呉軍殲滅に向かう。劉慎の進言に応じて、敵方に寝返った諸城はことごとく無視して、ひたすら閔宇啓の本隊に迫る。
梁軍は萊州の馮翊で対峙した。戦機は熟して大会戦となった。両軍十万を超える大軍である。相当な激戦が予想されたが、実際は決着を見るまで半日とかからなかった。尉遅会瓊、完顔阿海という猛将の活躍は無論のことだが、勝敗を分けたのは劉慎の戦局に応じた見事な采配であった。最終的には敵の側背に廻り込んだ趙元徳軍の突入によって東呉軍は潰走した。
林韜は戦死、閔宇啓は何とか離脱したが、江南に戻るや敗戦の責を負って処刑された。東呉は大興の報復を恐れてすぐに左丞相張新を派遣し、劉慎がこれを接見した。平身低頭謝罪に努める張新に、彼は恫喝をもって相対した。江を渡っての南征すら匂わせたので、張新は肝が縮みあがってしまい、劉慎の示した条件をすべて承知した。
と言ってもそれほど過酷な条件を出されたわけではない。むしろ穏当な内容である。相互不可侵と僅かな賠償のほかは、人質も領土の割譲も要求されなかった。一応、東呉は以後大興を兄として入朝することになったが、それも名目上のことで、実質は対等の友好国として遇されることになった。当初劉慎の態度から、いかなる条件を提示されるのかと恐れていた張新は、大喜びで拝謝して江南に帰った。
東呉軍を追い払った竇徳軍は、そのまま呉領の制圧に臨んだ。四方に軍勢が送られ、諸州は次々に開城した。戦闘はほとんど行なわれず、行く先々で竇徳軍は歓呼をもって迎えられた。
王之参、劉慎らは拓羅崇と合流し、彰義府をひしひしと取り囲む。もはや彼らは呉王に投降を勧めることはなかった。無言で圧力を加えるばかりである。攻囲して二十日目、楼上に白旗が掲げられて静々と門が開いた。降伏の使者は、愛舎からのものではなかった。前夜、下級将校によるクーデターが発生し、愛舎は殺されたのである。
首謀者は宮門警護の任にあった陳恭という男であった。彼は愛舎をはじめ、その周囲の佞臣をことごとく討って降伏した。これまで多くの都城が暗君と命運をともにしたが、彰義府だけは無傷で開城したことになる。入城した劉慎らは陳恭を召して、その功を賞した。
足かけ五年に亘った開治の乱はようやく終息し、中原は再びひとつになった。しかし寧京、開方、代原の三都は灰燼に帰した。また地方の荒廃もひどく、大量の流民が生まれ、盗賊が跋扈し、産業は崩壊していた。竇徳による再建事業は端緒についていたが、天下は何よりも彼に、速やかな登極を望んでいた。