大興帝国の興隆 ①
のちに大興の太祖と呼ばれるようになるアルバクは、869年(※以下年号は西暦)に部族を統一し、国号を「大興」と定めた。この国号選定には、幕下に華人の幕僚がいたことと、アルバク自身が中華に深い憧憬の念を抱いていたことが影響している。
大興が興ったのは、広大な草原の中でもやや東方に寄っている。草原の中央、シェンガイ山嶺に発する大ズイエ河は、中流でズイエ、カオロンの二流に分かれる。そのうちズイエ河はさらに東方で二手に分かれる。北を行く流れはやはりズイエと称され、南の流れは名を更えてガムール河となる。大興はこのガムールとズイエに挟まれた平原で勃興した。
のちに草原の主人となるジュレンやジョルチが生粋の遊牧民族であったのとは異なり、大興を建てた部族はどちらかと云えば狩猟を主な生業としていたようだ。かつて燕の太祖を叡山に囲んで強盛を誇った狛奴系の部族であると考えられる。
アルバク以前の草原はカフカス帝国の崩壊以降、長きに亘って強力な部族が現れず、数多の小部族が分立していた。アルバクは族長となるや、瞬く間にそれら小部族を吸収して強大な勢力を築き上げた。
太祖アルバクが即位したころ、長城の南は李氏の陳朝が統治していた。当初中華文明に憧れた彼は、陳朝の冊封下に入って王号を得ようと考えたが、即位翌年の870年、陳朝で大規模な農民叛乱が起こり、使者を送ることができなくなった。史上有名な「呉魁・林桂冲の乱」である。
陳朝は討伐軍を送ったが各地で連敗、天下にその惰弱ぶりを曝けだした。当時、朝廷では外戚が専権を振るい、官僚の腐敗は著しく、地方には大権を与えられた節度使が軍閥化して割拠している有様で、統一政権としてはまったく機能していなかった。呉魁・林桂冲の乱によって、その情勢にますます拍車が掛かり、叛乱が相次いだ。これを見た地方の軍閥は、叛乱勢力と結託して露骨に独立の勢を示した。
やがて山東宣撫使の任にあった朱黎が、大軍を率いて首都永安を制圧、幼帝に迫って皇帝の位を奪った。陳朝の滅亡、そして後斉の成立である(872年)。だが後斉を建てた朱黎にも混乱を収める力はなく、中華は約120年にも及ぶ長い分裂時代に入る。この間、中原に六つの王朝、周辺に十の国が興亡したことから「六朝十国時代」と称される。
さて、アルバクはこの混乱に乗じて中原を制さんという野望を抱いた。大興をして真の中華帝国たらしめんとする大望である。しかしやみくもに兵を動かして乱世に介入する愚は犯さなかった。詳細に情報を集めて、冷静に分析することから始めたのである。
結果、アルバクは中山節度使の胡峰と河東節度使の関達に目を付けた。彼らは後斉の正統を認めず、これと激しく争っていた。アルバクは軍事援助を持ちかけて、巧みに彼らに接近する。苦戦していた両者はおおいに喜び、874年盟約が成った。アルバクは胡峰、関達に導かれて堂々と長城を越えると、各地に転戦して後斉軍を撃ち破った。
折しも朱黎が病没すると、関達は永安に入って後燕を建てた(876年)。それもアルバクの示唆による。関達はここで盟約の履行を迫られた。というのは先の盟約において、ことが成ったときには報償としてアルバクに十州を割くことを約していたからである。
ところが関達はいざ帝位に登ると、盟約の履行を渋りはじめた。アルバクはことさらに怒ると、関達即位に不満を抱いていた胡峰を唆してこれを攻めさせた。胡峰はアルバクに十二州の割譲を約して、猛然と後燕に襲いかかる。後燕はもともと地盤が脆弱な上に、大興の支援によって辛うじて立っていたに過ぎなかったので、ひとたまりもなく崩壊、代わって胡峰が永安の主となった(877年)。
胡峰は早速即位すると、国号を晋と定めた。後晋の高祖である。アルバクは高祖にも盟約の履行を迫った。関達の失策を目の当たりにしていた胡峰は、関達の旧領の一部を割いて献じた。すなわち遼州以下十二州である。
アルバクは遼州に赴くや、積極的に四隣を攻めて、一年の間に併せて二十四州を手中に収めた。高祖胡峰の及び腰の抗議は当然黙殺される。