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ヤマダヒフミ自選評論集

芥川・太宰・漱石

 芥川龍之介は、文学と共に殉死したと言っていいだろう。太宰治も同様だ。この殉死の過程は、彼らは優れた作家なので、全部書いてくれている。作家というのは人間研究には好都合なようにできている。


 私は芥川の最高傑作は死ぬ前の「歯車」だと思っている。しかし、「歯車」はなんとも辛い、痛々しい作品だ。作家の本来の伸び伸びとした筆は見られない。痛ましく辛い作品だが、そこに芥川が賭けたもの何であるのかが垣間見える。


 太宰の晩年の作品も芥川と同じく、痛ましい様相を呈している。二人の作家は、最後には自伝的な方向を取りつつ(元々、太宰は自伝的だつたが)、自壊していった。正確には、自壊していく過程を描いて文学作品とした。


 彼らは自殺したわけだが、私は、何もしない人間が、彼らを指して「彼らは〇〇が問題だったから自殺したんだ」というのを好まない。自殺した天才と、寿命をまっとうした凡人、どちらかを選べと言われたら、私は自殺した天才の方を取る。死に際はその人の価値を決めるわけではない。キリストは当時の最低の刑罰、磔にされて殺された。死に際が人の価値を決めるのであれば、キリストは未だ人類最低の存在でなければならない。


 ただ、私は、太宰も芥川も辛かったろうな、と思う。彼らは自壊していく際に、その自壊に「意味」を見いだせなかったからだ。…ここで、漱石の話を持ち出したい。


 漱石は、太宰や芥川よりも優れた作家と言える。時系列的には逆だが、太宰や芥川よりも先に進んだと見る事ができる。


 どうして漱石は先に進んだか。それはシンプルに、漱石は長編小説が書けたからだ。それでは長編小説とは何か。それは主体の客観化である。


 漱石が自身の作風を完全につかんだ作品は「それから」だ。この作品で、漱石は漱石となった。「それから」の主人公は代助という人物だ。「それから」は代助の物語だ。


 漱石は代助を俯瞰して描いている。この人物の心理や焦りを描きながら、この人物が社会の中でどういう風に破滅していくのかを冷静に描いている。太宰や芥川が得られなかったのは、この視点だ。


 芥川の晩年の自伝的小説では、作者と主人公が非常に接近している。芥川は、自壊を限りなく見つめようとしたが、作者自身が自壊している最中に、自壊の過程を余すところなく描くのは難しい。だから「歯車」は苦しい死の予感で終わり、実際、そのすぐ後に作者は自殺してしまう。ここでは、作者は主人公と極めて接近している。

 

 これは太宰治も同じ事で、晩年の太宰はかなり苦しい作品となっている。たしかに「人間失格」は極めて優れた作品だが、その底には苦い味わいがある。だがこの苦い味わいは「黄金風景」のような、柔らかく、温かい作品の反動である。「黄金風景」のような温かさは、太宰の暗さの中にぽつんと浮かんだ光だった。


 芥川もまったく同じで、「蜜柑」と「黄金風景」はほぼ同一の作品と言っていい。両作品とも、作者=主人公のインテリが、知的には主人公に劣る一般民衆に敗北する物語である。だが、その敗北そのものに爽やかさがあり、希望がある。そこに彼らの目指す芸術・文学というものの立ち位置があった。


 芥川と太宰は二人共、自分らの作るフィクションの強度があまり強いものではないと知っていたはずだ。だからこそ、彼らは刻苦勉励、勉強と努力を重ね、あのような作品を作った。しかし、彼らの予感は結局は現実となり、彼らは作品と一致するような形で自壊していった。この自壊は必然的なものだった。


 一方で、漱石はどうして自壊せずに済んだのか? この問いは難しい。…漱石の最後の作品は「明暗」だ。「明暗」には、驚くべき事だが、死の影がない。むしろ、明鏡止水とでもいった心境が見られる。


 どうして漱石は一人でそんな道を歩めたのだろう? これはまだ思考中の問題であるが、私は、漱石の頃、つまり漱石の世代にはまだ明治的な精神が色濃く残っていたからだと思う。


 ※

 それでは明治的な精神とは何か。それは「公」というものを強烈に信頼するという精神である。森鴎外にもこれがある。鴎外はむしろ「公」の方に強烈に傾いたので、傾きすぎたので、文学者としての彼は副業的な存在になってしまった。だが、常識的に見れば鴎外の方が正しかったのだろう。


 あの頃は、文学というものでは食っていけなかったのだろう。北村透谷も自殺しているし、芥川も金の事でいつもくよくよしていた。結局、文学というものは何にもならない、どうにもならない高等遊民のやるものだったのだ。志賀直哉のような大金持ちなら良かったが、葛西善蔵のような田舎から出てきた貧乏人は、文学を抱いてそのまま死ぬしかなかった。


 もっとも文学が偉大だった時期は、文学が何の社会的地位を得ていない時代だった、というのは私には一つの含蓄ある答えであるように思われる。


 漱石の頃には「公」の精神は強烈に生きていた。だが、同時に、西欧から入ってきた近代化の中には「個」を大切にする思想があった。その二つは強烈に矛盾しており、この矛盾を解くのが、日本近代作家の最初の仕事となった。


 私が考えるのは乃木希典の自死だ。乃木希典は戦争の際の不手際の責任を取る形で、明治天皇が亡くなった後を追って自死した。乃木希典の妻もその時に自死している。


 乃木希典の自死は現代の我々からすると不可解だが、「公」というものが絶対的にそびえ立っているという精神からすると、不思議ではない。ついでだが、乃木の妻も自死しているのも、昔の日本人というものがどういうものだったかを思わせる好材料だ。今であれば、「死ぬ必要はない」「奥さんまで死ぬ事はない」と人々は止めて入るだろうし、その方が『常識的』な意見という事になるだろう。


 乃木希典の死は武士道的な、模範的な死だった。それゆえに、倫理的にあまりに硬直した死に際だったと言えるかもしれない。ただ、私が考えるのは、乃木希典の死は「自壊」という言葉は使えない、という事だ。


 芥川や太宰が自壊していく過程は辛かっただろう、と私は書いた。それは、自殺するにしても、その自殺にはっきりした意味を与えられない為だった。「ぼんやりした不安」で芥川は死んだが、それは日本人が「公」をなくした空白に現れた幽霊のようなもので、芥川以降の全ての人間の背中にも取り憑いている。我々は「ぼんやりした不安」で死ぬのであって、乃木希典のようなきっぱりした死に方をするのではない。


 乃木希典は、死ぬにしても、不安や焦燥を感じなかったはずだ。恐怖はあったかもしれないが、太宰や芥川のような、死に追い立てられていく恐怖ではない。


 それはこんな風にも言い換えられるだろう。おそらく、乃木の中には、太宰や芥川のような精神の自由はなかった。彼は「死ななければならない」とずっと念じていて、その念に疑いを抱く事などなかった。彼は死ぬにしても、その決意には絶対の自信を持っていた。


 一方で、太宰にしろ、芥川にしろ、我々にしろ、「よし、自殺しよう」と思っても「いや、やめた方がいいかな」と考える権利がある。死ぬにしろ生きるにしろ、自分の意志とか自由で決めなければならない。そこに不安が生じる。精神の自由、意思決定の自由からぼんやりした不安が生じてくる。そうしてその自由が嫌だからこそ、かえってすっぱり死んでしまうという倒錯的な現象も起こってくる。


 乃木希典はそうした恐怖を感じずには済んだ。というのは、彼は個人の自由といったものを全然認めていない人間であり、だから、ある義務があるとそれに従ってきっぱりと死んだ。逆に言えば、これだけ「公」の精神が強いと、そこからはみ出る「私」の部分は放埒になる可能性がある。乃木希典は若い頃、ずいぶん放蕩したそうだが、それは「公」を重んじる精神とは矛盾していないだろう。「私」は個人の自由とか責任という風に感じられたのではなく、単に「公」の剰余部分として見えていたのではないか。


 ※

 漱石の話に戻る。漱石は、芥川や太宰と違って、長編小説を書く事ができた。それは「主体を客観化できていた」という事である。


 主体を客観化できたその理由は何かと言えば、それは、先程から言っている「公」の概念の為だ。封建社会の歴史でできあがったこの古い観念が、個人や主体を俯瞰的に見下ろす視点を、漱石という作家に与えたのではないか。


 「それから」の主人公、代助は、親友の妻を奪う。三角関係になる。それによって、彼は自分が所属していた貴族的な社会から締め出されてしまう。

 

 代助を動かすのは個人的意志である。個人的意志、精神の自由というものが欧米からやってきて、そういうものがあると知らされた。ハイカラな代助は、それを試してみる。親友の妻を奪う。「恋愛」というやつだ。


 代助は自分の意志を試し、それによって悲劇に陥る。だが、彼はその悲劇を抱きしめる。悲劇は、公と私との差異、その距離によって現れる。公というもの、社会の強制力が強烈だった時、それと矛盾する力もまた増大する。悲劇は世界と主体とのズレによって起こる。


 太宰や芥川の自壊は、当人らにとっては「自己責任」に感じられた。彼らは、漱石ほどに「公」を信じる事ができなかった。だから、彼らは自分自身を外部から見る目を失い、自壊していく自分を自分の内部から描いていく事になった。


 考えてみれば、安定した文豪に見える漱石だって、壊れていった人間と見えない事もない。彼が精神を病んでいたのは有名だし大学教授の職を捨てて、当時蔑まれていた新聞社に務めるというのも、かなり悲劇的な、自壊的な行為だ。


 だが、漱石はそうした自分を世界との対比の中で見る視座を心得ており、それ故に、日本近代文学の中で、最も形而上的な立体性に富む作品を書く事になった。私が色々考えた末、辿り着いた結論はそのようなものだ。


 太宰や芥川が文学に、芸術にかける精神は、漱石に比べても負けない、本物のものだったのかもしれない。きっと、そうだったのだろう。だが、それら自壊的な主体が、世界との対比の中でなんであったかを問うのは難しくなっていた。もう既に、世界の方が壊れていたのである。強烈な倫理観を叩き込まれた縦型の社会ではなく、個人の自由とか意志とかが大きくなっていた。それ故に彼らは、彼らの死を、世界との関係で意味づける事ができず、孤独に死んでいった。

 

 この孤独は現代の我々においては一層強くなっている。我々はもはや、自分自身の死に何らの公の意味を見出す事ができない。我々はただ死ぬだけだ。世界にくるまれて死ぬのではなく、世界の外側で勝手に死んでいく。


 我々はそんな風に死んでいく。その死を、太宰や芥川は先取りしていた。彼らは自らの崩壊そのものを、自らの責任と受け止める他なかった。個人を強烈に支配してた価値観は消えていたので、自らの苦しみを自らで受け止める他なかった。そうした死の過程は、現代の我々とは全く変わっていない。


 こうした主体には、本当の意味での「長編小説」「悲劇」を書くのは難しい。全てが自己責任に置き換わってしまえば、誰かが挫折して死んでも「そいつがダメだっただけ」で、それ以上の意味は持ち得ないからだ。ドラマというのは、個人が世界に敗北していく様の描写なのだが、世界そのものが崩壊しており、存在するのは個人でしかないなら、各々勝手な蠢動しかない。


 我々はみんな「ぼんやりした不安」を心に抱えている。我々の行く先には過去の人同様、死が運命として用意されているが、我々はもはやそれにどんな意味も見いだせない。世界が壊れ、全ては自己責任となった。我々は自分自身に巻き付いてそこから離れられず、誰にも訴えられない寂寥を抱いて死ぬ以外に道はない。



 ※ 日本で言う「公」が西洋の「神」にあたる、と考えれば、何故日本に「近代文学」が生まれたのかが納得できる。



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― 新着の感想 ―
[良い点]  自分の中にあるもやもやとした感情に名を付けられたようで、非常に感銘を受けました。ありがとうございます。
[良い点]  「公」と「私」の観点から近代文学について論じられていらっしゃるところ [一言]  面白いことに作者様と真逆のようで似通ったことを書いているのが丸山眞男なのですよね。  彼の「超国家主義…
[良い点] こんばんは! すごい分析ですね・・・圧倒され、グウの根も出ませんでした。 私は、自分自身が「死にたい」と思った時期が、一度や二度ではなかった人間なので、自殺する人、自ら死に人を、「バカ…
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