プロローグ-前編-
陽が西に傾き、夕闇がつい先刻まで青かった空に舞い降りると、酒場は雑踏に包まれる。
アルコールがもたらす快楽を求めて、人々が集う。ある者は、過酷な現実を一時だけでも忘れようと。またある者は、淡々とした生活に刺激を加えようと。
人々はテーブルを囲んで仲間とグラスを交わし、夢のような気分に浸りながら、愉快に語らっていた。ここのような小さな酒場も、例外ではない。
(あたしもお酒を飲めば、辛いことや苦しいこと、忘れられるかしら…)
白いエプロンをつけて、忙しくあちこちのテーブルに酒を運びながら、ふとローラは思った。陽気に笑う客たちが、正直羨ましい。だがローラには、一杯のワインを買う余裕すらない。
ここで働いて得られる給料では、慎ましやかな食事を確保するので精一杯だ。酒など買おうものなら、その日一日は絶食しなければならなくなる。そんな状況だから、ここ数ヶ月、ローラは新しい服など買っていない。普通の十六歳の少女が味わうような楽しさと、ローラは無縁だった。毎日この小さな酒場で、目まぐるしく酒を運ぶだけの生活だった。
もうこんな生活は嫌だ。心の中の本当のローラは、いつもそう訴えている。しかし、生きるためには仕方のないことだった。働かなければ、食料を買うだけの金銭が得られないのである。
物質的な豊かさを求めるあまり、福祉制度が未だ発展途上にあるこの国では、両親を失った少女を保護救済してくれるような施設はない。そういう子供が生きてゆくには、自分で稼ぐしかないのである。
ローラは生きるためだと自分に言い聞かせて、働き続けた。でも、こんな自分が生きていて、一体どうなるというのだろう? こんなふうに身が粉になるまで働いて、働いて、それで一生を終えてしまうのだろうか?
それでは、あまりにひどすぎる。生きている意味がないではないか。だったら、死ぬ? それもできない。ローラの両親は、いつも言っていた。命を粗末にしてはいけない。せっかくこの世に生まれてきたのだから、どんなに辛いことがあろうとも、死ぬことを考えてはいけない、と。
だから、今は働いて、生きる。いつかこの苦境から解放される、その日のために。ローラは暗く沈みかけた気持ちを振り払って、仕事を続けた。
すでにかなり酔いが回っている中年たちのテーブルに追加の酒を運び、新しく入って来た客に注文を聞く。そしてカウンターに戻り、注文を伝えると同時に新しい酒を受け取る。これの繰り返しであり、休息の暇もない。だがローラは、弱音も吐かずにそれを実行していた。
そんな時、一人の少年が、両開きの扉を押し開けて酒場に入ってきた。年の頃はローラと同じくらいだろうか。栗色の髪に、青い瞳をしている。軽い笑みを浮かべているが、その眼光はどこか鋭く、粗野な感じがした。
(あの人も、お酒を飲むのかしら…?)
この国では、酒を飲むのに年齢の制限はない。だがやはり、酒は大人の飲み物という風潮がある。酒場のテーブルにつく少年というのは、どうも場違いな感じだ。
ローラは何となく気になって、その少年がついたテーブルに足を向けた。
ローラに気づくと、その少年はローラと視線を合わせた。暖かい眼差しとはいえなかったものの、少なくとも敵意は感じられなかった。
「いらっしゃいませ」
「ああ」
少年は、笑みをたたえた。安堵感に満ちたというか、まるで酒場が安住の地だと言わんばかりの微笑だ。ローラはその笑みに、なぜか好感を持った。
「あの、ご注文は…?」
「そうだな…とりあえず、ビールでいいや。ジョッキいっぱいに。辛いのを頼むよ」
「かしこまりました」
ローラが少年に一礼して、カウンターに戻るために身体の向きを反転させると、少年がその背中に声をかけた。
「ねえ、君」
「は…はい?」
ローラはなぜか胸騒ぎを覚えながら、少年を振り返った。少年は、軽く微笑んでいる。
「君、ここで働いてるの?」
「あ…はい」
「へえ…その年で、大変だな」
少年の言葉に、ローラは激しい憤りを覚えた。無責任な同情。自己満足のための同情。言葉だけで、心の中では哀れな少女に同情した自分に酔っている。ローラは、それが大嫌いなのだ。
「…平気です!」
ローラはそう言い捨てて、踵を返した。
少女の後ろ姿が遠ざかるのを見つめながら、少年は渋い顔をしていた。
「失敗したな…」
そう呟いて、舌を打つ。少女の気持ちに今さらながらに気づいて、後悔した。
それにしても、と少年は思った。
(綺麗な娘だな…)
特に化粧をしているわけでもないし、流行の服も着ていないが、少年にはとても魅力的に見えた。
素直な美しさかな、と少年は呟き、それからクックッと喉の奥で笑った。我ながら、似合わないことを呟いたものだと思ったのである。
少年の名は、ロード・ハーン。銀河を股にかけるトレジャー・ハンターである。今日もまた一つの冒険を終え、収穫をこの星で換金したところであった。
ロードの腰袋の中には、超高層ビルが一軒立つくらいの金貨が入っている。この星では最高の価値を持つ、レスフル金貨だ。これ一枚で、最高級のレストランでフルコースを三回おかわりできる。ロードはその腰袋をポンと叩いて、中身を確認した。
今の時代、金銭の取引はほとんどカードで行われる中、ロードはいつも現金で受け取る。もちろん最終的には銀行に預けることになるが、自分の稼ぎが通帳の数字の変化だけに留まってしまっては、あまりに味気ない。こうして現金を手にしてこそ、稼いだ、という実感が湧くものである。ロードはそう考えているのだ。
金貨と金貨がぶつかり合う、心地好い音が耳に響く。ロードは満足して、祝杯を待った。できれば、先刻の少女が持ってきてくれることを願いながら。
しかし期待に反して、注文したビールを持ってきたのは、黒髪を腰まで伸ばした、化粧の濃い女性だった。あの金髪の少女とは正反対だ。ロードは、愛想よく笑ってジョッキを置くその女性に、思わず、あの少女はどうしたのかと尋ねていた。
「あの女の子って…ローラのことかしら?」
妖艶な、しかし意地の悪そうな笑みを浮かべて、女は言った。わざとらしく人差し指を顎の先に当てて、考える素振りを見せる。
「ローラ…? あの娘、ローラって言うのか」
「そうよ、坊や。あの娘が気に入ったのかしら?」
女は色っぽい視線を向けてくる。ロードは思わず目を逸らした。こういう女はタイプじゃない。親父は好きだったみたいだけどな…。
「と、とにかく、あの娘はどうしたんだ? 店の中にも見当たらないけど」
ロードは店内を見渡した。小さな酒場だから、あの少女がいれば、すぐに見つかるはずだ。だが、あの少女の姿は店の中にも、カウンターにもない。
「もう少し待っていらして、坊や。ローラなら、もうすぐ来るから」
女は目を細めて、嘲笑的に笑った。そして、ロードにウィンクをしてから、テーブルを離れていった。
「…どうしたんだ…?」
ロードは今の女の笑いを不審に感じながら、ビールを一口、喉に流し込んだ。
その時、ロードの耳に、酒場の喧騒とは明らかに異質な音が飛び込んできた。他の人たちには聞こえないらしいが、五感の鋭いロードにははっきりと聞こえる。
耳を澄ますと、それはカウンターの奥の扉の向こうから聞こえてくるようだった。乾いたその音は、間違いなく鞭の音だ。それと同時に、掠れたトーンの高い声が聞こえる。それがあの少女、ローラのものだとわかるのに、時間はかからなかった。
ロードは迷わず席を立ち、カウンターのほうへ歩いていった。そこにはバーテンが一人いたが、構わない。ロードはカウンターの中に入り、バーテンの制止を振り切って扉を開いた。
そこは厨房のようだった。狭い室内にはあの少女と、腹のたるんだ中年の男。それと、酒の匂いを全身から発散させているかのような、赤ら顔の大男がいた。太った中年は、服装からしてこの店の主人だろう。もう一人の男は、客だろうか。
ローラは何度も鞭打たれたらしく、厨房の床に蹲っていた。服の背中の部分に、細い切れ目がいくつも見える。
突然の侵入者に、三人の視線がロードに集中した。
「あ…あなたは…」
少女のか細い声に、太った主人のダミ声が重なった。
「何だ、お前は。ここは客の来るところじゃないぞ」
主人の目は、明らかに怒っていた。その右手に握られた鞭を見て、ロードは少なからず怒りを覚えた。
「客の入れないところでは、あんたは女の子に鞭を振るうのか?」
「これは罰だ。お前にどうこう言われる筋合いはない」
主人も負けじと言い返す。
「罰?」
「そうさ。この小娘め、寄りによってお得意さんの服に酒をこぼしやがったんだ。これは、その罰なんだよ」
お得意と聞いて、ロードは酔った大男に目を向けた。その者はニヤニヤと笑いながら、ローラを見下ろしている。
「違います!」
ローラが声を上げた。
「あたしがこぼしたんじゃありません! お酒を運んでいたら、この人がわざと足を出して、あたしの足を引っかけたんです!」
「何だと! 俺のせいだってのか!」
大男は、ただでさえ赤い顔をいっそう赤くして怒鳴った。主人が慌てて頭を下げ、へりくだった言葉で詫びた後、再び鞭を振り上げた。
「この悪党め! 自分の失敗を、お客になすりつけようってのか!」
「ち、違います! 本当に…!」
ローラが言い終わらないうちに、主人の鞭がローラの頬を打っていた。ローラは痛みに呻き、頬を押さえて蹲る。
「まだ言い張るか! いい加減にしろ!」
そう言って、主人はまた鞭を振り上げる。その空を裂くような音に、ローラは身を縮こませた。
「この役立たずめが! グレゴリーさんの服のクリーニング代は、お前の給金から差し引いておくからな!」
この言葉を聞いて、ロードの怒りはさらに募った。どちらが悪いのかはともかく、弁償させるなら、それだけで済ませればいいのだ。弁償させたうえに鞭打つなど、もう罰の域を越えている。ただの虐待だ。
「待て!」
ロードはローラの前に立ち、左腕で鞭を受け止めた。行き場を失った鞭は、ロードの左手首に巻き付く。
驚く主人の顔を睨みつけながら、ロードは腰袋を外し、厨房の中央にあるテーブルの上に投げた。ジャラッという音と共に、袋の口から金貨がはみ出す。主人と大男は、それを見て目を丸くした。
「こ、こりゃあ…」
「代金だよ。そこのおっさんのクリーニング代と、俺の飲み代だ」
ローラが驚いて顔を上げる。ロードは肩越しにローラを見て、片目をつむってみせた。ローラの頬が、なぜか熱くなる。
「充分足りるはずだ。それで手を打ってくれ」
すでにロードの声は、主人の耳に届いていなかった。レスフル金貨の眩い輝きに、心を奪われているようだった。
「あ、あんた、この金…」
「足りるんだろ?」
ロードが言うと、主人と大男は、一緒になって何度も頷いた。金貨の魔力で酔いも吹き飛んだのか、大男の顔は白かった。
「た、足りるなんてもんじゃない。こんなにあったら、こっちのほうから何かあげなきゃならないところだよ」
主人の態度が、掌を返したように変わった。相手が金を持っているとわかるや否や、媚びた態度を見せる。ロードは内心、この男に唾をかけたい気分になった。
「ほ、本当に、こんなに頂けるのかい?」
興奮しているのか、息を切らして主人が尋ねる。その目は金貨に反射して、貪欲に輝いていた。
「ああ、やるよ。ただし、余った分でもう一つ、買いたいものがある」
「いいとも、いいとも。この店にある酒だったら、何でも売ってあげるよ。どれがいいんだい?」
「いや、酒じゃないんだ」
「じゃあ、何だね?」
「その娘だ」
ロードがあまりにさらりと言ったので、主人も、ローラ自身も、ロードが何を言ったのか、初めは理解できなかった。
「な…何だって…?」
「その娘を買いたいって言ったんだ。文句はないな?」
「え…?」
ローラは、驚愕の表情をあらわにした。戸惑いの目をロードに向けるが、ロードはローラのほうを見てはいなかった。
「ローラを…だって?」
「そうだ。それだけありゃ、文句はねえだろ」
主人は呆気に取られたようだったが、すぐに我に返り、二つ返事で了承した。これだけの金があれば、いくらでも人が雇える。主人にとっては、損のない取引だった。
「わかった、わかりました。ローラを売りましょう」
「マ、マスター!」
「良い子にするんだぞ、ローラ」
主人はローラ自身の意思などまったく無視して、にこやかに言う。ローラは困惑した。いきなり見知らぬ男に売られてしまったのだから、無理もない。
「ま、待って下さい、マスター!」
ローラが叫ぶが、主人の耳には届いていない。主人の関心は、もうテーブルの上の金貨に引きつけられたままだ。
「もう私をマスターと呼ぶ必要もないんだよ、ローラ。私はもう、お前の雇い主じゃないんだから」
そう言うと、主人は袋の中身を開け、大男と一緒に金貨の数を数え始めた。
「さ、行こうぜ」
呆然と立ち尽くすローラの肩に手を乗せて、ロードは厨房の外へとローラを導いた。主人はそれを見て、ロードの背中に声をかけた。
「楽しんで下さいよ!」
その瞬間、ローラの背筋に寒気が走り、これから自分が辿る運命を想像して、肩を震わせた。
と同時に、ロードの小さな呟きが、ローラの耳に入った。
「…下衆が!」
ローラが戸惑いながら顔を上げると、ロードの表情は厳しかった。
(この人、何に怒ってるんだろう…?)
ローラはふと、そう疑問に思った。
ロードはローラの肩に腕を回したまま、酒場を出る。ローラは、不安が心に渦巻くのを感じた。