再び姿を消す翼
八
美麗はブツブツ文句をいいながら、さらに夜の街を歩いた。
――どうして翼が、悪魔に魂を売ったファウストにならなきゃいけないの? 魂と引き替えになんの能力を得たというの? 美大にいきたて絵の才能が欲しいのかもしれないけど、それと関係があるの? 火星に魂を売って、もらい受けた赤い眼ですばらしい油絵でも描くというの? 馬鹿バカしい! 赤い眼じゃあ、凶器というよりウサギの眼よ。でも……。
美麗は立ち止まった。
美麗がこの街でこうして歩く前のこと、翼は、薄暗い空間で、美麗の止めるのも聞かずに赤い炎のなかに包まれていった。
もしかして、あのときが悪魔との契約だったのだろうか?
目の前に、高層ビルが見えてきた。
その一階に、光り輝くショールームがあった。硝子を通して、新型車がずらりと並んでいる。老人がいっていたとおりだ。
ならば、この先を曲がったところに翼がいるのだろうか?
美麗は、ショールームの前を通り過ぎると、恐る恐る、ビルの裏側を通る路地の入口に立った。
――こんな暗いところに女の子一人で入って、大丈夫かしら?
都会の中でも、とりわけ路地裏には街灯が少ない。これまで美麗が歩いてきた舗道とは照度が違うし、人が歩いているようすもない。
路地裏を進みながら、恐くて擦れる声で、翼の名前を呼んでみた。
「つ……、翼……。つばさ~」
そろりそろりと進むうちに路地裏の暗さにも徐々に目が慣れてきた。
都会の裏側特有の匂いがする。壁際にはいくつものゴミのポリバケツが並んでいる。
「誰もいないわよね~。いたら返事して」
美麗は恐る恐る進んだ。
こんなところに女の子一人で入りこむなんて――。
これでは、まるで暴漢に襲ってくれといわんばかりだ。
ガタンーー。
前方でなにか音がした。
震えが全身に走る。二歩三歩、後ずさりしながら、それでも眼を凝らした。
「誰? 誰かいるの?」
ガサッという音がした。美麗は慄いて飛び上がった。
なにか小さな動物のようなものがポリバケツの間を走り抜けた。すばやく闇のなかに消えていった。
どうやら猫だったようだ。ポリバケツの中に潜り込んで食糧を漁っていたのだろう。
腰が引けた美麗は、すでにこの先に進むことができなかった。
「驚かさないでよ。やっぱり翼はいないじゃない」
引き返すつもりで、そういったあとだった。
闇のなかを、ガサリと、またしても暗い影が動いた。今度は猫よりもずっと大きい。
人の姿をしている。人がいるのだ。
「翼? 翼なの?」
美麗は影に向かって問いかけた。
翼であってほしいという一縷の望みで、逃げだしたい気持ちと闘いながら、美麗は一歩一歩、人影に近づいた。
近づくに連れて、闇の中でも、どんな人物かを識別できてきた。人影は若い男の後姿のようだ。
肩にかかりそうな長めの髪にも服装にも見覚えがある。ジーンズに半そでのポロシャツ。 翼のものだ。
「翼!」
闇の中で、美麗は翼の名前を呼んだ。
後ろ姿の若い男は美麗の声に反応して、ピクリと背中を動かした。翼に違いない。
「翼。翼。どこに行っていたの!」
美麗は駆けよっていった。
若い男はゆっくりと美麗のほうに振り向いた。翼の顔だった。
翼のことは、街灯のない闇の中でも間違えるはずはない。まがいなく翼だった。
ところが、あれほど捜していた翼を前にして、美麗の足は、ぴたりと止まった。
地面に釘付けされたように、足は一歩たりとも動かない。
光っている。光っているのだ。翼の眼が光っているのだ。それも、赤い光を放っている。血の色のように赤い。
本能的に美麗は眼をふせた。赤く光る眼を見てはいけない。そう思ったのだ。
翼はふたたび背を向けた。
美麗のことに気づかないでいるのか、気づいても無視しようとしているのか、それはわからない。
翼は背を向けると、足音も立てずに闇の中へと消えていった。
それは、なにかに導かれているようだった。
「翼……、行ってしまうのね……」
美麗は泣き言をもらした。
ひとり残されて、濡れねずみのようになさけない思いで立ちすくんだ。なんだか、これですべてが終わったような気になった。
すると、そのとき、
『オジョウサン。友達の翼君に会エマシタネ』
突然だった。
あの老人の声がした。老人は美麗のことをつけてきていたのだ。老人を許せず、美麗は怒りをこめて振り向いた。
「なによ! わたしをつけてきてどういうつもり!」
だが、振り向いた先には、人っ子一人見当たらなかった。すでに暗さに目がなれているから、人がいるかぐらいならわかる。
どこにも人が立っていない。
猫の子でもあるまいし、ごみのポリバケツの陰に隠れていることもない。
美麗はこの場に存在しない人物の声を聞いたことで、身震いした。
「お爺さん、いないの……。今のって、わたしの空耳?」
またしても、恐くなって震えた。美麗は震えっぱなしだった。
すると、再び老人の声が美麗の耳に飛び込んできた。
( 続く )