美麗が次に迷い込んださきは
六
翼には美麗の叫びが聞こえていないのか、背中を向けたきり進んでいく。
美麗にはいまの状態は、なにがどうなっているのかわかっていなかった。だが、本能的に、翼が行こうとしているその先は、行ったら最後戻ってこられない場所だと思った。
美麗は声を振り絞って、くり返し叫んだ。
「翼! 待って! 行っちゃダメ! そっちはダメなのよ。危険なのよ!」
肺が潰れるほど声を出した。
「止まるのよ!」
すると翼の足が止まった。
声が届いたのだ。翼が振り向いた。
翼の肌の色は土気色をしており、激しくいきり立っていた。美麗をねめつけると、次にこれが最後だといわんばかりに背を向けた。
ああっ――!
美麗は絶望感にとらわれた。
背中を向けた翼はずんずん前へと進んでいく。
ここまでだと思った。もう、決して美麗の声は届かないのだと――。
翼は取り返しのつかない危険な世界へと足を踏み入れるのだ。
その後ろ姿は小さなものになっていった。
小さくなった翼は、足を止めると、天を仰ぎ見た。そしてその天に向かって、両手をゆっくりと上げた。
美麗は、遠く離れた薄暗い空間のなかで、彫像のように動きを止めた翼を見た。
これまでのことで、美麗の体力も限界だった。膝ががくがくとすると、その場にしゃがみこんだ。
遠くで見える翼は、神に雨乞いするかのように天を見上げたままだ。
天に向かった翼は固まったようにピクリとも動かない。
美麗の眼には、泣き疲れて、いったんやんでいた涙がふたたびあふれてきた。
滲んだ眼で、翼の仰ぎ見た先にある、真っ黒な空間が割れるのを見た。
パックリと裂けた暗闇から、赤い血の色のような炎が浮かんだ。最初は小さな炎だったが、しだいに火勢を増し、妙なかたちになってきた。
炎の形が人のもののように変わってきた。片腕が伸びたかと思うと、もういっぽうの腕がのび、両足も同じようにくねくねと伸びた。
決して蝋燭のような明るい色ではない。炎にしてはどす黒くて、生臭い血の色をしていた。
炎は翼の身体よりひと回り大きい人の形となった。
美麗はしゃがみこんだまま、泣いてその様子を見た。
「翼。ダメなのよ。そっちへ行っちゃダメなのよ」
すでに力つきた美麗のか細い声だった。
天で人影となった炎は揺れる。そして、地上で両手を挙げて立つ、翼の身体を包みこみにかかった。
炎は翼の両手、頭、そして胸部と、順に全身を血の色で包み込んでいく。まるで、赤い炎が我が子を愛しみ、抱き寄せるかのようだ。
――翼は炎に包まれていってしまう……。
美麗の意識が遠のいていった。
どれほどの時がたったのだろう。
気がつくと美麗は夜の街を歩いていた。周りにはビジネス用のビルが建ち並んでおり、街灯が足元を照らしていた。
見たところ客を呼ぶ店舗らしきものはないようだ。
きっと昼間の通行人も、この界隈では喫茶や食事などで足を止めることはなく、流れていくだけなのだろう。
美麗も立ち止まることもなく、流されるように歩いた。
いきなり、美麗のこれまでの日常が戻った。では、さきほどまでの薄暗い空間はどこだったのだろう? 理解できないことが起こり過ぎている。
美麗はこれまで起こった出来事をもう一度、順に思い出してみた。先ほども、同じように振り返ってみた……。
翼と初めてふたりで出かけることになって、ポートタワーのエレベーターに乗った。
火星の見物客で満員のかごに乗って、ガラス張りの壁から火星を見ていた。
そこまではなんら変わったところがなかった。
その次からだ。
エレベーターの上昇にもかかわらずに、美麗の身体だけが沈んでいったのだ。
焦って、翼や周りの乗客に助けを求めた。
だが、美麗の声は翼にもその他の乗客にも届かずに、美麗は深く暗い空間に落下していった。
まるでそこは地の底だった。
見回す限り薄暗く、先が見えなかった。
恐くて泣き叫んでいると、エレベーターで昇って、展望台へ行ったはずの翼の姿があった。
美麗が呼んでも、翼は知らんふりでどこかへ行ってしまう。
美麗は、なんだか翼が、とてつもなく危険な場所へ行ってしまいそうに思えた。
翼が行くのをなんとかして止めたかった。
が、無駄だった。美麗の制止などきかずに、翼は上空から舞い降りてきた赤い炎に手を伸ばし、その炎に包まれてしまった。
そこで美麗の意識が遠のいていった。
気がついてみると、今度は、見覚えのあるような夜のビル街の中を歩いていた。
前にも来たことのある、友達とショッピングにでも来たことのある街だ。だが、実際は、美麗が立ち寄った店はなく、ビジネス用のビルが建ち並ぶばかりだった。
いったいここはどこなのだろう? そこまで考えて、美麗は、スマホを持っているのを思い出した。ポケットから取り出し、操作してみたが、まったく電波が届いていない。
一縷の期待をこめたスマホも当て外れだった。これじゃあ、誰にも連絡をとれない。
スマホはあきらめて、自分の足を頼り、前に進むしかなかった。どこかで、今の自分を救ってくれる何かが現れないかと考えた。
以前、来たことのある街であったのなら、道に迷うこともないだろう。
このまま進んでみよう。
美麗の記憶によると、このビル街の目の前にある通りを曲がると、デパートとかお店が建ち並んでいるはずだった。
人も普通に歩いている。すれ違う人の顔を覗いてみた。
もちろん、高校生の美麗が、都市のビル街で、知り合いにあうなんてことはない。大人ばかりで、当然のことながら翼もいない。
すると、美麗の頭にいきなり『火星』のことが浮かんだ。
「火星……、そうだ火星だ」
火星のことをすっかり忘れていた。もとはといえば火星が事の始まりだった。この日、美麗がエレベーターから落下して、こうして街中で歩いているのも、もとは火星のせいだった。
美麗は足を止めて空を見上げた。
都会のネオンやら照明が幕をつくっているようで、夜空は水彩画の絵の具でぼかしたような色をしていた。
星などひとつとして見えない。
すると美麗を呼び止める、男の人の声がした。しわがれていて、若い人のものではない。
「そこのオジョウサン」
声の主のほうを見ると、ビルの壁に背をくっつけるようにして、椅子に座る人影があった。
足元には行灯が置かれていて、『人相』という文字が浮かび上がっていた。
どうやら辻占い師らしい。
「オジョウサン。誰かを探しているノデスカ?」
( 続く )