もうひとりの美麗
三
美麗は思わず叫びそうになって、とっさに口を押えた。
みなを乗せたかごは、展望台へと昇っている。それなにの、事もあろうに、自分の身体だけが逆に、下へ、下へと降りていっているのだ。
どうしたの?
美麗は見回した。
隣には変わりなく、翼がいる。いっしょにエレベーターに乗り込んだ乗客たちもいる。皆がみな、火星を見るのに夢中だ。
それなにの、美麗だけが沈んでいっている。今、翼の横で頭ひとつぶん低くなった。
「助けて、わたし、おかしいの!」
不安を隠しきれず、隣の翼に向かって叫んだ。
翼は知らん顔で火星のほうを見上げたままだ。美麗の声が聞こえていないのだ。
翼の腕をつかみ、揺すぶった。
「どうしたの? 翼! なにかこたえてよ」
反応がない。翼は、美麗の声にも、美麗の手が腕を引っ張っているのにも気がつかない。
それどころか美麗が隣にいることさえ、頭にないのだ。
そのうちにもエレベーターに乗っている美麗の身体は下降していく。
「翼、聞いてよ!」
翼の肩を両手の拳で叩いた。それでも反応がない。
火星を見上げたまま、翼は蝋のように固まっている。隣にいる美麗のことなど気にもとめずに、美麗とはまったく別の世界へいっている。
「おかしい。おかしいって、翼……」
そう叫びながら、美麗は泣きそうになった。
これまで翼の肩の横にあった自分の頭が、腰のところまで下がっていた。
美麗は後ろに身体をひねり、乗客の一人の、野球帽をかぶった優しそうな男の人に助けを求めた。年のころは二十歳半ばといったところ。
「わたし、おかしいの! このエレベーターとともに落下していっているのです。これって、わたしだけですか? 助けてください!」
声を張り上げて、男の人に訴えた。
男の人は美麗のほうを見もしなかった。
ひたすら火星を目で追っている。
ダメだ。この人はと見切りをつけると、今度は別の大きな帽子をかぶった女の人に訴えようとした。しかし、この人も同じだ。美麗のことなど眼に入らない。
美麗が大声を出して、助けを求めているのに、誰もなんの反応も示さない。
身体が沈んだと思ったら、今度は、胸の中で火星のエネルギー膨れ上がったり萎んだりする。苦しい……。
ほんとに、ほんとに、自分の身体はおかしいし、周りの人たちはどうして、こうも反応がないのだろうか?
突然、恐ろしい考えが浮かんだ。
もしや、周りの人には、美麗が助けを求める姿は見えていない。その上、叫ぶ声も聞こえていないのでは?
不安が次から次へと襲いかかってきて、狂ってしまいそうだった。
美麗は大声で叫んだ。
「助けて! 助けて! 誰かわたしを助けて! わたしはこのまま沈んでしまう!」
周りの人には美麗の必死の叫びが聞こえない。何度叫んでも同じだった。
そのうち美麗は次なる恐怖に突き落とされた。
エレベーターにいる人たちは、美麗を無視することで協定を結んでいるのではないのか、という考えだ。
自分一人が、故意に周囲から見捨てられている。
それは翼も同じだ! 翼も周り人たちとグルなのだ。
誰かが反応してくれないか。
美麗はさらにくり返し叫んだ。
無駄だった。ついには声が枯れた。
その後のことだった。今度は、これまでには想像もつかなかった、とんでもない考えが頭に浮かんだ。
それは、周りの人には、こうしてあがく美麗の姿が、目に映っていないのではないかということだ。 美麗の叫ぶ声も、このエレベーターのなかでは声になってはいない?
美麗が必死に叫んだつもりになっていても、周りの乗客に映る美麗は、エレベーターに静かに乗って火星を見上げている姿のままなのではないのだろうか?
今でも美麗は、翼や他の人たちと一緒に、火星を見学する客の中の一人のままなのだ。
火星に見入る美麗とは別に、もうひとりの美麗が分身となって存在している。もう一人の美麗が沈んでゆき、泣き叫んでいる。
そう考えると、ここまでの不可解な現象がまだしも納得できる。
分身となった美麗のことは、誰にも見えない。
そうとしか考えられない。そう考えるしかこの状況を理解できない。
いま、二人いる中の、片一方の美麗は、悲しいことに、周りの乗客とは切り離されて、落下していっている。
――こんなことって!
落下していく美麗はわたしだ。
先の見えない洞穴に落ちてゆく恐怖で叫んでいる。
「怖い! 助けて!」
美麗は大声で泣き叫んだ。周りの誰にも美麗の声は聞こえない。
ああっ、沈んでいく……、怖い、死ぬほど怖い…
( 続く)