火星にとらわれた美麗
二
エレベーターは、展望台までの半分以上の高度へと昇っていた。三方がガラス張りのエレベーターのかごは、港と一体となり、海上の夜空に舞う気球のようだ。
通常なら興奮する場面でも、美麗の心は沈んだままだった。
ニキビが出来たことの負い目もあった。翼とふたりきりで会うことの緊張で、うまく会話をつなげられないこともあった。ことごとく、うまくいかず、自分は駄目なのだと思う。
ぎっしり詰まった乗客たちの沈黙すら、異様な空気となって、風船のように膨れ上がって、背中からの重圧となってくる。
翼との間には会話がなくなっている。
ほんの短い間かもしれないが、その沈黙が美麗には、気が遠くなるほどの長さに感じられた。
自分といるのが退屈だろう、とかたわらに立つ翼の横顔を見る。
とそのとき、沈黙を破り、乗客の一人が声をあげた。
「火星だ! あれが火星だ!」
いっせいにエレベーターのかごの中がざわつく。
「ほんとだ!」「あれよ!」と声が続いた。
背後で、みなが背伸びして夜空を見ようとしている。
声が重なり合って、そこからは、雪崩を打ったように歓声一色で沸いた。
それまで黙り込んでいた翼も、
「すごい!」
と喜びを全身に表して、ガラスに顔をくっつけた。
暗黒色の夜空のスクリーンにくっきりと浮かんだ赤い星!
それでも、美麗だけが素直に感動をあらわせない。エレベーターのかごの中の客すべてが喜んでいるのに、美麗だけが蚊帳の外だった。
ひとり落ち込んで、そこから抜け出せない。
「大きく見えるね」
いきなり翼が美麗に返事を求めた。
美麗はぐじぐじとこたえた。
「うん、ほんと……」
沈み込む美麗とは対照的に、翼は饒舌になっていた。
「火星の色は赤色といおうか……いや、黄色と赤の中間の色かな。オレンジ色に近いかな。ほんと、拳のように大きい。地球でこんなに大きく見えるのは何万年ぶりかなんだって?」
美麗はぽつりとこたえた。
「五万七千年ぶりよ」
ひととおり火星のことは調べていた。
翼が、いきなり美麗のほうに顏を向けた。すぶさま、美麗はニキビを前髪で隠すように、顔を伏せた。
「そうだった。よく知っているね」
翼は感心したふうを見せたが、つぎには火星のほうに眼をむけていた。
火星以外のものは眼に入らない。
エレベーターはさらに高度を上げていく。
しばらくして翼がぽつりとつぶやいた。
先ほどまでと翼のようすが違っていた。
言葉が暗くなった。
「火星って妙な色をしている……」
ほんのつい先ほどまでは、火星に驚き、はしゃいでいたのが、一転してなにかを考えこんでいる。
「え……。どんなふうに?」
美麗はそんな翼に聞き返した。
「あぁっ……、色が変わってきた……。オレンジ色から真っ赤に見えてきた」
いわれれば、その通りだ。
美麗の目にも、火星の色が変わっているように映った。そのうえ、大きさを増し、より鮮明になってきた。どこか毒毒しい。
これまで拳大の火星が、まるで大きな真っ赤なバランスボールのように見えてきた。
火星がぐっと迫って来る。
美麗は尻込みした。眼を離したかったが、なぜか火星に吸いつけられたように、眼を離すことができない。
息苦しくなって、口を開けた。
ついには視界が真っ赤に覆われた。
すると、いきなり口からなにかが飛び込んできた。
そんな気がした。
口に入ったのは、なにかはわからない。わからないなりに考えた。妙な答えが返ってきた。
火星から放出された光のようなものが、口から入った。それって、火星が放ったエネルギー?
――こんなことって、あるのかしら? 火星からのエネルギーを飲み込んでしまうことなんて……。
いぶかしがりながらも、いま、胸の中で、その、あり得ないエネルギーがうごめき出した。
少し眩暈をおぼえる。ふらふらする。どうなっているの?
これは現実なのだろうか?
そのうちに翼が言葉をかけてきた。
確かに、話しかけてきているのに、その言葉が聞き取れない。
まるで壁の向こう側から話しかけているかのようだ。
「えっ? なんていったの?」
美麗は翼に聞き返した。
いっぽうの翼は、これまで見たことのない無機質なものになっている。表情がない。まるでマネキンのようだ。
翼も火星に影響を受けているのか? 火星のほうを見上げたまま固まっている。
気をとりなおして、もう一度聞いた。
「もっとはっきりいってよ」
そういいながら、美麗ははぁはぁと大きく息をした。言葉を発することが苦しかった。
横顔を見せたままの、マネキンとなった翼が、口をゆっくりと動かす。
今度も聞き取ることは出来なかった。
美麗は自分のほうに疑いをもった。まさか、聴覚が異常をきたしたのではないのか?
耳たぶを指先で引っ張る。もどれ、もどれ、聞こえるようになれと――。
すると、ボソリボソリと、遠くからのように小さな声で、翼の言葉が耳に入ってきた。
それも途切れ途切れに。
「ち…、真っ赤」
ようやく聞き取れた。でも、今度は聞き間違いかと思った。
「翼。いま、ち……、血っていったの?」
翼は夜空に浮かぶ火星を見上げたまま固まっている。魂を奪われたマネキンのままだ。
ぎこちない動きの唇からさらに言葉が発せられる。
「火星の色は真っ赤な血に見える。飢えた人間たちが流す鮮血……」
なんて気味の悪いことをいうの……、おかしいわよ。美麗は口に出して、翼にそういいたかったが、ぐっとこらえた。
エレベーターは昇る。夜空に浮かぶ火星に近づいていく。
かごに乗っている乗客のすべてが、早く展望台へと、大きな火星を見たい、そう思っているのに美麗だけが違った。
胸の中が、火星のエネルギーで支配された感じで、不安ばかりが増す。
今すぐにも、翼とも離れて、引き返したかった。透明なガラス壁を蹴破って、エレベーターの中から飛び出したかった。
息苦しさと眩暈がひどくなってきた。美麗は、立っていられないほど疲れてきた。
眼の前は依然として、大スクリーンに映し出されたもののように、火星が巨大化している。赤い光を放ち、まるで笑っているようだ。
目をそむけようとしても、火星のエネルギーのせいか、それもさせてくれない。
――どうしたの? これは!
その瞬間、美麗の身体が傾いた。いや、沈んだ。
( 続く )