展望台にて
十二
ガタンという音とともに身体が、どこかに着地した。
なんだが、身体が軽くなって、すっきりしている。いきなり、美麗の腕を誰かが引っぱる。
――ここはどこ?
美麗は見回した。
「みんなが出ていくよ。さあ」
翼が隣にいて、美麗の腕を握引っぱっている。
エレベーターの中だった。
展望台に着いて、エレベーターの小部屋に閉じこまれていた人々が、いっせいに出るところだった。
美麗だけがぼんやりしていて、突っ立ったままだったので、翼が腕を引っぱって、いっしょに出ようとしていたのだ。
展望台に降り立つと、翼は、美麗の腕をつないだまま、一面ガラス張りで見晴らしが利くところまで、連れていってくれた。
美麗はいきなり現実に戻されて、逆にいまを、急には受け入れられない。
――いったいどうしていたのだろう? 路地裏で翼の眼を焼いたはずよ。そのあと、急に意識が途切れて、気がつくと、翼が手を引いてくれている。
「夜空がきれいに見える」
翼がガラス越しの夜空の星々に感嘆の声をあげた。
いわれるままに、美麗も星たちのほうを見る。しだいに、現実に戻される。
――そうだった。わたしは、翼と火星を見ようと港のポートタワーの展望台へのエレベーターに乗っていたのだ。
すると、わたしだけが、どこか別の暗い世界に落ち込んでいき、そこの暗い路地裏で、悪魔のような翼に会った。
あの暗い世界での翼は、邪眼をもって、恨みのある人間を焼き殺していた。
でも、いま隣にいる翼は、いつも学校で会っている優しい翼――。暗い世界で逢った、恐ろしい翼ではない。
夢を見ていたのだろうか? 美麗は、夢中で夜空を見上げる翼の背中を、こっそり見た。
ほっそりしていて、優しげだった。人を殺すこととなどとは、まったく縁がなさそうだ。
「あるある。火星だ」
翼が指を指した。その先に赤く光る火星……。
――待ってよ。
美麗は翼の背中を手で軽く叩いた。
「ねぇ、翼君。ちょっと、わたしのほう向いて」
「えっ、どうしたの?」
翼が振り向いた。
美麗の頭の隅を、家を出るとき気になっていた、おでこのニキビのことがかすめた。 でも、そんなことより、いま、眼の前にいる翼に確かめたかった。
ほんものの翼なの? 美麗が学校で知り合って、憧れを抱いていた翼なの?
すると、そのとき翼の背後にいる、夜景を楽しむ人の群れに混じって、見覚えのある姿が映った。
後ろ姿でわかる。美麗は息をのんだ。
あの夢の中で、占ってくれたカーネルおじさんに似た白髪の老人だ。
――夢じゃなかったの?
その老人は、窓ガラスを通して他の客と同様に、夜景を楽しんでいる。
――そういえば、ここまで来るエレベーターに、ひとり、背の高い外国人が乗っていた。
美麗は思い出した。
――すると、その外国人が夢のなかで、占い師になっていたの?
なるほどと思った。
短い時間だったが、美麗は、翼やエレベーターの乗客を登場人物にして、夢を見ていたのだ。
そのうち、背を向けていた外国人が美麗のほうに顔を向けた。
夢の中の辻占いの老人と同じ、色の濃い眼鏡をしていた。
外国人が、片方の手を軽く上げた。美麗に挨拶する素振りのようにも見えた。
美麗は挨拶に答えてよいのか躊躇した。
老人の挙げた手と反対側の手には白い杖が握られていた。
――目が不自由なのだ。あの外国人のお爺さん。
次に老人はゆっくりと眼鏡をはずした。
美麗は思わず、飛び上がりそうになった。眼鏡をはずした老人の目は真赤に焼きただれていたのだ。眼が明けていられない状態だ。つぶれているのだ。
そのとき、夢の中と同じように老人の声が聞こえた。
『オジョウサン。わたしを見て驚かないでクダサイ。わたしの目はこうして焼かれています。なぜなら邪眼だったカラデス。
若いころ、力を持ちたいがために悪魔に魂を売り、邪眼となりました。そこで数々の邪悪な行為を行ったノデス。そのため、最後には目を焼きつぶされてシマイマシタ。
翼くんも、美麗さんも、こんなことにならないようにシナサイ。自分の持っているものを大切にしなさい。自分の持てるもので精いっぱい生きるコトデス』
その言葉のあと、老人の身体に赤い炎が取り巻くと、老人の姿は炎とともに消えていった。
老人の周りにいる客たちにはなんの変化もない。美麗だけに、老人が見えたのだ。
きっと老人は、火星の大接近によって、自分を見失いそうになっている人のところに、救いの手を差し伸べるために現れたのだろう。
気を取り直すと、
「翼君!」
美麗は、名前をもう一度呼んだ。
額のニキビなど気にせずに、前髪も引くことなく、翼の眼をじっと見つめた。
翼の眼は、男の子にしてはまつげが伸びていてきれいだ。その眼と自分の眼がぶつかる。そして、翼の眼は、決して赤く光ってはいない。
翼は最初、美麗に見つめられ動揺したが、美麗の思いのこもった眼差しに引き込まれるように、翼のほうも見つめてきた。
誠実そうな翼も、老人の言葉を借りれば、邪眼を持ちたかったようだ。
そして美麗自身も……。
周りでは火星を見て、感嘆する客たちの声が沸き起こっている。
翼がどうしても国立の美大に入りたくて、焦っていても、悪魔ととりひきすることはない。
客の誰かが、歓声に混じって口笛を吹いた。みんな、火星に夢中だった。
美麗は確信した。
翼との恋は必ずうまくいく。
これからは、わたしが翼の力になってあげよう。
火星に見守られて、ふたりはいつまでも見つめ合うのだった。
( 完 )