美麗の役割
十一
美麗の目の真ん前に立つ柔道部のふたりの、そのこめかみには、まるでミミズのように、赤く太い血管が浮き出ていた。いつ破れてもおかしくないほど膨れあがっている。
そのうえ、ふたりの眼は、眼球がいつ飛び出してもおかしくないほどに、まぶたが見開かれていた。
身体のなかで、沸騰した血液が暴れ、そこいらじゅうの血管を膨張させ、破ろうとしているのか――。
『オジョウサン! 翼君を殺人者にするつもりデスカ。早く止めナサイ!』
切羽つまった老人の声が、美麗の鼓膜を揺るがせた。
「やめるのよ、翼!」
美麗は翼の腰にしがみついた。
なんとしてでも、ふたりの同級生の血管を破裂させるのを止めなければならない。
翼は腰にぶら下がった美麗などに、一瞥もくれない。ゆっくりした動きだが、クレーンのような剛力で、軽々と美麗を振り払った。
凄い力だった。
美術部で絵筆を握っている、優しく非力な翼でない。
五メートルは弾き飛ばされた。
美麗は路面を滑りながら、隅に置かれた、ごみのポリバケツにぶつかった。
美麗の脳は揺らいだ。バケツが転がり、中のごみが散らかった。
美麗はバケツと並んで、尻餅をついた。
『ワァー! オジョウサン! 大丈夫デスカ!』
耳に飛び込んでくる老人の声も、悲鳴になっていた。
「だいじょうぶ……」
背中の痛みをこらえながら、身体を起すと、美麗は立膝の姿勢になった。
あらためて翼を見る。
死人のような横顔なのに、眼だけがギラついている。
赤い光を放ち、オカルト映画そのものだった。凶暴な殺人鬼だ。
「わたしの目の前にいる翼は、同級生で、同じ美術部の、わたしが知っている翼じゃないのね……」
周りには、ポリバケツから吐き出されたゴミが散らかっている。
美麗は手を伸ばして、ゴミをまさぐった。
――なにか凶器となるものはないの? お爺さんがいう通り、わたしの手で、翼の眼をふさがなくては……。
「……! 」
美麗の指先に、馴染のものが触れた。いつも父親が使っている、使い捨てライターだ。
使い捨てのライターはたいてい、ガスが少しは残ったまま捨てられている。
美麗は手にとると、親指で、点火装置を動かしてみた。
シュッ、シュッーー。
二度、三度、こすり合わせると、ポッと火がついた。
美麗はいったんライターの火を消すと、今度はあふれ出たごみのなかから、紙くずを拾い集めた。使えそうなものを選んで、細長い棒状に丸めた。
――これしかないわ……。
美麗はいま、この場で出来る最後の手段に縋ることにした。
ライターの火を棒状の紙に火をつけた。
ボウッという音とともに火がつき、丸めた紙は小さなたいまつ状になった。
棒状の紙を持つ美麗の手が、明るく灯された。
火を持って、美麗はあらためて、翼とふたりの同級生のほうを見た。
ふたりは立っているというより、翼の前に立たされているといった状態だ。カチカチに硬直して、息をしているのかどうかもわからない。すでに命のタイムリミットが迫っていた。
いっぽうの翼は、薄ら笑いを浮かべている。ひと仕事やり終えようというような満足感が見える。
美麗は、手にたいまつ状の火を持って、
「えいっ!」
まさに翼と心中する思いで、翼へとぶつかっていった。
翼の、その眼に、たいまつの火をぶつけようとしたその瞬間、美麗は思わず腰が引けて、のばした腕を引いた。
「だめ、だめよ。お爺さん出来ない! 翼の眼を焼くなんて!」
たいまつをもったまま、美麗は翼の足元にしゃがみこんだ。
すぐさま老人の、ひきつったような甲高い叫び声が、美麗の頭の中を貫いた。
『勇気を持ちナサイ! その男の子は翼君ではアリマセン! 悪魔ナノデス! さあ、立ち上がって! 悪魔の眼に、手にした炎をたたきつけなさい!』
「そうね。そうだわ」
美麗は自らにいい聞かすと、泣きながら立ち上がった。
こんなに泣きじゃくって、苦しんでいるのに、翼は、美麗のことなど見ようとしない。赤々と燃える翼の目には美麗など映っていないのだ。
美麗は最後の力をふりしぼった。
「許して! 翼!」
たいまつの炎を、美麗は、翼の赤い瞳のなかに突き刺した。
炎が翼の眼に入るその瞬間、美麗の頭によぎったのは、ポートタワーでの長い列に、翼とふたりで並んでいたことだ。隣に立つ翼に、おでこのニキビが見られないように、うつむいていた。
美麗のたいまつは翼の眼をとらえた。ボォゥという炎が眼を中心に顔全体に燃え上がった。
ギャアアアーツ―。
翼は、眼を両手でおおい、路上にもんどりうった。
ギャアアアーツ―。
何度も叫ぶ。
その声は翼のものではなかった。
眼だけを光らせる、地獄からの、陰湿な悪魔のものだった。断末魔の叫び声をあげた。
( 続く)