翼の次の獲物
十
美麗は走った。肩で息をして、肺がつぶれそうだ。脚ももつれている。もとより運動系の部活動をしていない。体力に自信がなかった。
大通りに出た。さきほどと光景は何も変わっていない。人々が、林立するビルのすそ野を、舗道に沿って歩く。
美麗は人の流れにのって、二区画ほど歩く。ちょうどビジネスホテルを過ぎたあたりだ。その角で、老人の指示が出た。路地裏へと入った。
『急ぐノデス。今度は、翼君は本気で邪眼を使うつもりデス』
路地裏に入るのは、初めてではない。前ほど暗さに苦労することはない。
「わかっている。何度もいわないで! わたしだって一生懸命なのよ!
思わずいいかえした。
路地裏の自動販売機の前を過ぎたところで、美麗はぴたりと足を止めた。前方を睨みつけた。
翼だ。
距離にして十メートルほどさきに背中を向けて立っている。
それと、立っているのは翼ひとりじゃなかった。背を向けた翼と向かい合うように、ふたりの男が立っている。
ふたりともデブッとして大柄な体をしている。こちらに顔を向けている。
路地裏のため、薄暗いが、見覚えのある顔だった。
思い出すためにしばらくの間があった。
――ああっ! あれは! こんなことって。
大柄なふたりは美麗の同級生だった。クラスが違い、廊下ですれ違うぐらいだが、顔を覚えている。
放課後、いつも道着を背中にかついで道場へ向かう。柔道部のふたりだった。
――こんな夜にあのふたりはこの街でなにをしているの!
同じ学校の生徒に夜の繁華街の路地裏で会うことが、美麗信じられなかった。それも、暗い路地裏で翼と睨み合っている。
美麗はその場にいすくんだ。この先、起こることが恐い。
老人が叫んだ。
『止めるノデス! 早く止めるノデス!』
「止めるって? まさか、翼と柔道部のふたりが睨み合って、これから喧嘩をしようとしているの? そんなぁ、非力な翼では喧嘩にならない! 翼が大けがをするわ」
『早く、止めるのデス! 翼くんに殺人をさせてはいけません! ここで争いになれば、翼くんは相手のふたりを殺してしまいマス!』
「馬鹿なこといわないで!」
美麗は即座にかぶりをふった。
翼はやせっぽちで力なんてないわ。人と争うことなんて見たことないわ! 喧嘩することなんてないわ。しかも、あんなゴリラみたいな柔道部のふたりと喧嘩するなんて絶対ない。もし、喧嘩したのなら、腕の骨を折られるだけではすまないわ」
老人の声がヒステリックになる。
『翼くんは、あなたが知っている翼くんではないのです。考えることはあとにして、早く、早く。翼君のほうを止めるノデス!』
「わかった! 翼! 危ない!」
美麗は叫びながら、翼の背中めがけて駆けよった。
それまで薄暗くてはっきりしなかったが、柔道部のふたりの顔の表情は、うっすらと照明を浴びたように明るくなっていた。残忍な笑みを浮かべている。翼を痛めつけるのを楽しみにしている。
「待って、やめて! 翼を許して」
美麗は、翼の一歩後ろに立った。
柔道部のふたりが襲ってきたら、美麗は翼とふたりの間に入るつもりだ。
武骨くてでかいふたりの顔がますます明るく照らしだされてきた。それも、赤々と――。
『危険デス! オジョウサン。翼君の眼を閉じさせるノデス。ふたりが殺されてしまう』
「なにいっているの? お爺さん」
美麗には老人のいっている意味がわからなかった。どう見ても、翼のほうが危ない。すぐにも柔道部のふたりに叩きのめされそうだ。
今度は怒鳴るように、美麗は老人に聞いた。
「どうして、殺されるのが翼じゃなくて、ふたりなの!」
『邪眼デス。中世のヨーロッパでは、邪眼を持つものを、魔物として捕まえて、何人も眼をつぶしタリ、処刑マシタ。危険だからデス。邪眼を持つものは、憎い相手を睨みつけるだけで、相手の命を奪い取ってしまうノデス。翼くんは邪眼を持っていマス。危険デス! 命がかかっていマス!』
美麗は泣き喚くようにいいかえした。
「なにいっているの? わからないわ。翼がどうして邪眼の力を得るの! 翼は優しい人よ」
柔道部のふたりだけでなく、老人からも圧力を加えられている。あっちからもこっちからも美麗をいじめる。
『翼君は、力が欲しかったのでしょう。力を持つものに憎しみを抱く心があった。それだからこそ、火星の赤い炎に巻かれるように、悪魔に魂を売ったノデス。いまの翼君はオジョウサンの知る翼君ではアリマセン』
大きく首を振って、美麗は否定した。
「翼が柔道部のふたりにいじめられて、憎しみを抱いていたというの? 憎しみのあまり、翼は邪眼という力を得て、ふたりを殺そうというの! そんなことあり得ない!」
美麗が手をのばせば、届きそうなところに、翼と柔道部のふたりが立っていた。
だが、男子三人は美麗の姿など眼中にない。ひたすら睨み合っている。
そして翼。翼の眼は――。
横顔の眉毛に下に光る翼の眼は赤々としている。
恐ろしいほどの赤さだ。まるで血の赤さだ。そうだ。凶器だ! その赤く鋭い眼光は、凶器とあらわすのがふさわしい。
気がつくと、柔道部のふたりの眼の周りも異変をきたしていた。
周りが、こちらも燃えるように赤い炎の色で覆いつくされてきた。
老人の言葉を借りれば、翼の邪眼に射抜かれたためか――。
ふたりの頬がぴくぴくと震えてきた。痙攣を起こしているのだ。それでもふたりは柔道のときのように、両手をあげて、翼に飛びかかろうとする。
だが、そこまでだった。
ふたりは両手を大きくあげたまま静止した。
氷の彫像、それも赤い照明で照らされた、ようになって固まった。
『イケマセン! 翼君の邪眼にやられマシタ。このままではふたりは死んでしまイマス!』
老人の切迫した叫び声が路地裏にこだました。
美麗は泣き叫んだ。
「どうしたらいいの!」
『翼君の眼をつぶすノデス! オジョウサンの手で!』
( 続く )