あいうえお
辺りに立ち込める濃い霧が、歩むべき道を閉ざしている。
行く先が見えないまま、ただ歩を進めていくことに鬱々とした感情が込み上げては消えていく。
迂闊に視軸を逸らせば、甘き誘惑が手を招き、喚き散らす怒号が何かを囃し立てては煽っていた。
笑みを浮かべることすら、すでに滅入ってしまった衰弱した心は、盛夏から秋へと向かう枯れる葉に、良く似ていた。
追うこともなかった過ぎ去った日々を、どうしてか今、追いかけようと足掻いているのは、何故なのだろうか?
叶いもしない過去に戻ることはできずに、ただ次の朝を待つ。
聞こえてくる悲喜こもごもに、耳を塞ぎたくなる。
苦しいと叫んでみても、声を拾う者を見つけることができない。
倦怠に苛まれる時間だけが常に付き纏った。
子供達の無垢な声が、何かを悟ったように戸惑っている。
錆びついた鉄から立ち込める血の匂いがこびり付く。
信じて歩き続けても、まだ、そこに辿り着くことができない。
巣の中でじっと春を待ちわびた動物達は、まだ夢の旅路から帰ってこない。
蝉が泣き喚く夏はまだ遠く、彼らは土の中でうだる暑さを心待ちにしている。
染められた色に文句を口にしても、そこには見知らぬ他人ばかり。
堪らずに走り出し、目を閉じたまま息が続く限り足を前に出した。
ちょっとだけ遠くに来たと思い立ち止まれば、変わらぬ霧が囲む白い闇の中。
罪が少しずつ背を上って、身体を動かそうとしている。
手には汗ばむほどの潤いはなく、渇いた砂を握っているようだった。
止めどなく流れる声と人の波が、目の前を通り過ぎては叫んでいた。
鳴くことを忘れた鳥は、さようならも言わずに何処かへ飛んでしまった。
似たような声が集まり、それが群れになった。
温もりを求めて彷徨う魂の鼓動が聞こえ、また歩き出した。
眠ることで迫る闇を恐れて、瞼を閉じることができなくなった。
能弁がまた五月蠅くて、誰かが泣いていた。
葉に隠れた虫たちは、誰にも盗られないようにと多くの物を持って巣へと戻った。
陽がようやく霧を晴らしたが、道の先にはまだ何も見えてこない。
不慣れな足取りで踊る人達を、手で大きな音を立てながら笑っている人達がいた。
平静を装った化物が、涎を垂らしながら近づいてくる。
他でもない、私を食べようとそいつは真っ直ぐにこちらに向かってきた。
周りに助けを求めても、誰も彼も私を救ってくれる人などいなかった。
道をただひたすらに逃げ続けた。
無理がたたり、躓いた私に怪物が覆いかぶさった。
目は真っ赤に血走り、吐き出される息は血の匂いがした。
燃え上がる欲望を剥き出しにした狂気の牙が、私の肉を引き千切った。
やっと、そこで目が覚めた。
夢の中で私を食べた怪物の顔。
よく思い出すことができない。
乱暴に食べ尽くされた私を骨まで味わったあの怪物。
両腕を鎖で繋がれ、薄汚い布を纏ったあの怪物。
流布し尽くされ、誰もが知るあの怪物。
恋情した相手が如く、私を食い尽くした憎いあの怪物。
蝋燭のように溶けだした汗を流そうとした私はふと歩を停め、鏡に映った顔を見た。
私の顔は、私を食べた怪物だった。
いつも見ている私の顔。
奪うことしかしてこなかった醜い顔。
絵にも描かれるほどの角を生やした畏怖すべき存在。
をかしいと笑い転げた私の顔は、鬼面嚇人。