「第三話 あらしの日」
通された客室で「朝までごゆっくりおくつろぎ下さい」とシェリーが置いていった軽食にも手をつけず、ベッドに腰掛ける。
客室は壁際にベッドと机が備えられているだけの、ひどく殺風景な部屋だった。白い壁には子どもの落書きが殴り描かれ、床には蝋燭でも落としたのか、焦げ痕が残っている。
シェリーによると、子どもが逃げた部屋というのが、この客室らしい。
外は相変わらず豪雨が降りしきり、雷鳴もひっきりなしだった。たまに近くにでも雷が落ちるのか、ずずん、と、二階の床が縦に揺れる。完全に逃げ場はどこにも見当たらなかった。
「やぁれ。とんでもない所へ来てしまったな」
思わずため息を吐く。ずぶぬれになった鞄から小瓶を取り出し、中に入っていた水を部屋の四隅へ振りかける。我流のおまじないだ。初めて泊まる部屋では必ずやる習慣だった。
さて、朝まで何をして過ごそうか。どうも寝る気にはなれそうにない。聖書でも読んでいようか。あれこれとまとまらない思考に、両手を組み直す。暇潰しがてら館内を散策しようかとも思ったが、森の中を歩き回ったお陰であまり体力は残ってない。
「……寝る前にお祈りでもしようか」
普段ならあまりしない祈りをしても、やぶさかではないなと思った矢先。ある異臭が鼻をついた。
どこからか、鉄のような臭いがする。
「あぁ……あんな話を聞いたからかねぇ」
正直もう部屋で休みたかったが、気になってしまえば、仕方がない。原因が分からなければ、当分は眠りたくとも眠れやしないだろう。
やれやれと重い腰をあげ、静かに扉を開ける。客室と廊下を隔てる扉は、ぎいいと重々しい音を立てて開いた。
扉を開けた途端。漂ってくる臭いに、思わず顔を顰める。
「この臭い、まさか……!!」
正面の階下から、鉄の臭いが充満し、館中に漂っていた。こんな嵐の夜に、いったい何事だろうか。階下から漂うむっとした鉄の臭いの中に、誰かの悲鳴、鈍い音、銃声、子どもの泣き叫ぶ声と様々な音が入り交じり、不協和音を奏でている。
まさか。まさか、まさか。あの話のように、こんな古めかしい館に雨宿りをしに来た強盗が、雨宿りついでに入ってきたのだろうか。だとすれば、シェリーが危ない。いや、もう既に危険な目に遭っているかもしれない。いくら人気のない館とはいえ、暗がりから襲われでもすれば、いくら館内を熟知している彼女とて、ひとたまりもないだろう。
「シェリー!!」
慌てて正面の階段を駆け下り、鉄の臭いの中を手探りで進む。壁伝いに進んでいくと、廊下の先にあるという食堂に行き着く。異臭の濃さから考えて、どうもこの部屋が原因のようだ。
「シェリー! シェリー、大丈夫か?!」
焦る気持ちのまま食堂の大きな扉に体当たりをして中に入る。すると、目の前に広がる光景に唖然とした。
血。血。血。
辺り一面が血の海で、扉の手前には立派なスーツを身に纏った男性が、血を流して倒れ伏している。そこから少し離れた場所では、恐怖にひきつった顔のまま絶命したメイドが、未だに腹部からどす黒い血を流して転がっていた。既に手遅れであることは、誰の目にも明らかだ。
「うぅっ……!」
むわっと立ちこめた悪臭に、咄嗟に腕で口元を押さえ、食台の向こう側へ視線を移す。
部屋の中央に置かれた長い食台には、大きなバースデーケーキが無惨にも雪崩のように形を崩し、赤い蝋燭が白いテーブルシーツを汚していた。その赤に足すように、台に顔を伏せた女性から流れる血が、台からぽたぽたと落ちていく。乱れた髪の隙間は赤黒く染まっていた。
ふと、部屋の片隅から低い声が辺りに響く。
「ハッピバースディ、トゥうユうぅ」
声のする方へ顔を向けると、男性が部屋の片隅にある暗がりに対峙していた。
食台の向こう側に立っている男性が、小銃を構えて発砲する。しかし、向かってくる黒い影は素早い身のこなしで銃弾を避け、挑発するように高笑いを食堂に響かせた。
げらげらと下品な声は耳に纏わりつき、声の主は鉈を軽々と振り下ろす。誕生日席に座っていた子どもは鉈が振り下ろされる度に悲鳴を上げ、男性の背後へ逃げ回った。
がん、と乱暴な音を立てて、鉈が台の上に突っ伏す女性に振り下ろされる。ぐちゃ、と、挽き肉を捏ねる音によく似た音が鼓膜を震わせ、背中がぞっとした。
「ハッピバースデぃ、とぅぅゆうう」
顔面蒼白の男性から銃弾を打ち込まれ、一瞬だけ身体を仰け反らせる。しかし、にちゃにちゃと口の端から涎をこぼしながら、頬を緩ませて笑う顔が、次第に近寄ってくる。耳を覆いたくなる程の高い笑い声が耳に反響し、脳裏にこびりついた。
銃弾が続けて発砲されるが、銃弾が頭を掠めても、腕を撃ち抜かれても、その歩みを止めることはない。
「はっぴばぁすでぇえい、でぃいあぁあ……」
鉈が、どすんと男性に振り下ろされる。腹の奥底を震わせる音がして、男性の頭が半分に割れた。それでも、鉈の切れ味が悪かったのか、何度も繰り返し振り下ろされる。振り下ろされる度にぐちゃぐちゃと厭な音を立てる鉈は、漸く刃先が男性の口まで沈み込む。
鉈の持ち主も、振り下ろされた本人も、その背に隠れて泣きじゃくる子どもも、皆一様に真っ赤に染まっていた。
べしゃ、と嫌な音が崩れ落ち、子どもの悲鳴が大きくなる。それにつられて、鉈の持ち主の笑い声も一層大きくなった。
「メぇぇエえぇりぃイいい?」
げたげたげた、と顎が外れる程の笑い声が、子どもの目の前に迫る。暗がりからぬるりと姿を見せた鉈の持ち主を見て、思わず声を上げそうになった。
ひゅうと喉が鳴り、目を疑う。
「ハっぴばぁスデぇエい、とぅうゆゥう!!」
燭台の明かりに照らされた顔には、右目から顎にかけて火傷の痕があった。
メリーと呼ばれた女の子は悲鳴を上げ、抱いていた人形で思い切り相手を殴りつける。不意打ちだったのか、相手が一瞬だけ怯んだ隙にその場から駆け出し、階段を上っていった。
「あっははは! みぃんな、もえろぉおお!!」
食堂では火がついたようにげらげらと笑う声と、愉快そうに振り下ろされる鉈の音。蝋燭を蹴って、真っ赤に染まったシーツを燃え上がらせる轟音が周辺に生まれた。どうやら、すぐ傍にマッチ箱があり、それにも引火したらしい。
辺りは一瞬にして火の海と化してしまった。からからと鉈を引き摺って子どもの後を追いかける足音が、嫌でも耳に残る。鉈の持ち主は、逃げた子どもすら許さないようだった。
このままここに居てはいけない。私も慌ててその場から逃げようと食堂を出る。すると、今度は階段を上っていく鉈と入れ違いになるように、見慣れた少女と子どもが廊下の先から私へと一目散に駆け寄ってきた。
シェリーと、ニックだった。
「神父様、一体これは、どういうことですか?!」
酷く混乱した顔のシェリーは、ニックを庇うように近付き、叫ぶ。私も分からないと即座に返すが、彼女は半狂乱になって叫び続けた。
「だって、そんなことあるわけないじゃないですか!」
「シェリー。落ち着いて。さぁ、シェリーが知っていることを話してごらん」
「だって、あたし、知らないんです。こんなの、見たことない。何でいつもいつもあいつばかりがちやほやされて、何であたしは嫌われるの。全部ぜんぶ全部あいつが悪いのに!!」
「シェリー、落ち着いて。……済まなかった。話はいいから、とにかく今はここから出よう」
「だってだってだって! あたしは、悪くない! あいつらが悪いんだ! あいつらが、悪魔だって、あいつに言うから!!」
「シェリー!」
眼をこれでもかと開け、次々と支離滅裂に叫ぶシェリー。息継ぎもろくにせず捲し立てるものだから、口の端には泡が出て来ているが、シェリーは構わず叫び続けた。
その腕の中で、ニックが涙目でシェリーを見上げている。それから、口から次々と謝罪の言葉を溢していた。
「お姉ちゃん、ごめんなさい。ごめんなさい。謝るから。もう怒らないでぇ……!」
背後では火が燃え盛り、正面では泣き喚く少女。二階からは甲高い子どもの悲鳴と、げらげらげらと下卑た笑い声が館中に反響し、わんわんと耳鳴りがする。
まったく状況は掴めないが、やることは既に決まっていた。
「とにかく、逃げるぞ!!」
未だに興奮して泣き叫ぶ少女の腕を掴み、子どもの手を取り、玄関へと走る。扉には鍵がかかっていたのか、体当たりをするだけでは開かなかった。
三度目の体当たりをして、びくともしない扉に痺れを切らした頃。
「僕、開ける!」
べそを掻いていたニックが両腕で涙を拭い、ズボンのポケットから鍵を取り出した。震える手で鍵を穴に差し込む。その間にも食堂から火の手は伸び、背後まで迫ってきていた。背中が焼けるように熱い。
「ニック、頼む!」
「もう、ちょっと……もう少し!」
すると、難しい顔で鍵穴をいじっていたニックの手元で、カチンと小気味の良い音がした。それが、合図だった。
なりふり構わず扉を蹴破ると、轟音とともに扉が開き、外からの光で一瞬だけ目が眩む。眼を閉じる間も惜しみ、私は少女と子どもを前に投げ出すようにして、外へと飛び出した。
躊躇いなく差し込む光に、眼を細めると。
そこは、ひどい嵐だった。雨粒に身体を叩きつけられながら振り返る。目に飛び込んできたものは、赤い火を粉を空へ巻き散らして燃える館と、煙と一緒に棚引く子どもの悲鳴があった。
背後で頻りに「あたしじゃない」という声が聞こえていたが、しばらくするとそれもぴたりと止む。
「……シェリー?」
振り向くと、そこには最初から誰も存在しなかったように、シェリーの姿は忽然と消えてしまっていた。一緒に逃げた筈のニックの姿も見当たらない。あるのは、焦げた男の子の人形だけだった。
「……」
身動ぎ一つせず、じっと人形を見つめる。それから、村で聞いた噂は本当だったと、改めて確信した。
短いため息を一つ溢す。どうやら、嵐の館での夜は過ぎたらしい。ひとまず雨を凌ごうとぐるりと辺りを見回す。それから、背後の焼けた館へと踵を返した。




