「第二話 あらしの話」
予想以上に館内は広かった。正面玄関から居間に通され、更にそこから2階へ登る階段は廊下の突き当たりにあるとシェリーが説明する。
「お手元が暗くなっていますので、きちんと後を着いてきて下さい」
「助かります。その前に、ご主人様や奥様にご挨拶をしたいのですが、どちらに?」
「……旦那様は出張で不在にしております。奥様はご気分が優れないとのことでしたので、夕食から早々にお休みになられています。挨拶は明日にして欲しいとのことでした」
「そう、ですか」
外の暗さとは対照的に明るい筈の館内は、廊下に設置している間接照明のおかげで、館の隅やところどころに影を落としている。
耳が痛いほどの静寂が、私とシェリーを取り囲んでいた。まるで館には誰も住んでいないかのような静けさだ。館内にある柱時計が時を刻む音、私たちの話声、足音。それ以外に館から聞こえる音はなかった。
この不気味さが、この館にあるという「噂」の正体なのかもしれないな。不意に先程の子どもの言葉を思い出し、はっきりと聞いてみることにした。
「あぁ、そういえば。この館には、噂があるそうですね」
「……ど、どうしてそうお思いに?」
「先程お子様にも同じようなことを聞かれたので」
そう言うと、シェリーは観念したような表情を浮かべて「あぁ」とだけ声を漏らした。どうもこの女性より、あの子どもの方が立場的に強いらしい。シェリーは「ニックが言ったなら、仕方がありませんね」と眉を下げた困り顔で笑いかけ、すっと声を潜めた。
「実は……ニック達、アドミール家が住む前の話です」
静寂な館内で、さらに声を細めて話し始める彼女の声に耳を傾けた、その時。
「きゃあああっ!!」
突然廊下の先にある暗闇で、がしゃんとガラスが割れる音が館中に響き、絹を裂くような悲鳴が上がった。
「うわっ。え。……あ、あ、あれは?」
「あぁ。……気にしないで下さい。いつもですから」
「……いつも、というと」
「昔話をしようとすると、いつも音がするんです」
驚いてシェリーの顔を見たが、彼女は怖がるどころか、うんざりとした顔をしている。今までにこの館を訪れる人が居て、かつ昔話をしようとしたことがあるのだろう。
シェリーは嫌な顔を隠そうともしないで、仄暗い廊下の奥へ歩を進めた。昔話をしようとしただけで悲鳴が聞こえることに、彼女は今や恐怖よりも煩わしさを感じているようだった。
それよりも、あの並ならぬ悲鳴を「いつものこと」と流すシェリーの方が、今は少し怖い。
音はまだ気にしないようにできるが、悲鳴はどうにも気になって仕方がなかった。だが、彼女が話しはこれで終わりと前へ歩き出してしまったため、追究は断念する。
「話を、続けますね」
「あっ、はい。……よろしくお願いします」
そういえば、シェリーは燭台や灯りになる類のものを手にしていないが、館内は把握しているのだろうか。廊下は一直線ではなく、何度か左右に分かれている場所があったが、彼女の足は正確で、止まることはない。彼女は、いったい何時からこの館にいるのだろう。聞こうと思ったが、彼女の言葉に口を噤んでしまった。
「実は、数年前この館で殺人事件がありました」
シェリーがそう話を切り出すと、急に辺りの空気が一気にピンと張りつめた。まるで見えないものたちが私たちの周りを取り囲み、じっと耳を澄ませているような気配だ。途端に緊張の糸が周囲に張り巡らされたように感じられ、ぐっと息を呑む。一体ここには、何が居るというのか。
次第に外の激しい雷雨さえどこか遠くのことのように思えるほど音が遠ざかり、聞こえなくなっていく。かちこちと、柱時計の音がゆっくりと、大きくなっているような錯覚に陥った。足下がぐらりと揺らぐ感触がして、ごくりと生唾を飲み込む。気のせいか、息苦しく、冷えた汗が背筋を伝った。
シェリーは淀みなく、淡々と話し続ける。
「ある四人家族と多くの執事やメイドが、子どもの13歳の誕生日を祝っていると、突然外から人がやってきて、その場に居た全員を殺し始めました」
シェリーの語る声を掻き消そうと、かちこちという柱時計の針の音が、こつこつという靴音が音を立てる。窓の外では、瞬時に視界を白く染め上げる稲光が、音もなく無慈悲に天地を切り裂いた。窓を叩いている筈の雨音は、まるでこの館だけ別世界に切り取られたかのように、すっかり消え失せてしまっている。
ふと、暗闇に包まれた廊下の曲がり角から、手に抱えるほどの大きさの花瓶が勢いよく投げつけられ、シェリーの顔の横を過ぎ去っていった。
「うわっ、危ない……!」
慌てる私を尻目に、がしゃんと花瓶は壁にぶつかり、音を立てて割れる。辺りには小さな破片が散らばり、花瓶の中に入っていた水がじわりと床に敷かれた絨毯に染みを作っていく。
なぜ花瓶がこちらに飛んできたのだろうか。こんな静かな館内だ。誰かいれば、足音ぐらい聞こえる筈なのに。
「あの……シェリーさん、大丈夫ですか?」
しかし、彼女は私の問いかけにも耳を貸さず、話し続ける。
「犯人は、鉈を、持っていました。部屋に入って扉のすぐ傍にいた執事を殴り殺しました。それから、近くで叫んだメイドの腹に鉈を刺し、足で蹴りつけました」
シェリーの声とは別に、耳元でわんわんと騒がしい程の耳鳴りがする。柱時計の針の音と歩く靴音と話し声に混じって、廊下の先の暗がりから小さな悲鳴が聞こえてきた。どうやら女の悲鳴のようだ。断続的に聞こえる悲鳴に被せるように、何かの呼び声も聞こえてくる気がする。誰か、居るのだろうか。あの暗闇に。
慌ててシェリーから顔を逸らして音のした方へ顔を向けたが、どこから聞こえたのかまるで見当がつかなかった。しかし、前を歩くシェリーの様子に変化はない。気が付いていないようだ。
シェリーは前を向いたまま、訥々(とつとつ)と話し続けた。
「真っ赤になったメイドが転がりました。口を大きく開けて引き攣った顔をしたメイドを蹴った強盗は、笑いながら机を回り込んできました。母の髪を引っ掴んで、鉈で頭を切りつけました」
シェリーには、目の前にその光景が見えているのだろうか。廊下の先にある暗闇から、次第に悲鳴の数が増え、それがまた耳鳴りを大きくしていた。彼女は廊下の一点だけをただ見つめ、ぼんやりとした闇へ身を沈めようとする。手を伸ばせば触れられる距離にあるというのに、私には彼女を触る勇気が一つも出てこない。
シェリーは瞬きもせず、話し続けた。
「父の頭にも、鉈が何度も何度も何度も振り下ろされました。果物を切り分けるように、鉈が、何度も。何度も。そのうち子どもは、泣いて逃げました」
くねくねと曲がり角の多い廊下の先が、少し明るくなった。もうすぐ階段があるのだろうか。左右に分かれた廊下の右側が、薄ぼんやりと明るかった。出来ることなら早く灯りの元に行って、ほっと一息吐きたい。シェリーの後ろを焦れた足取りで廊下を進み、先を急ぐ。
その時。灯りの中に、小さな人影が廊下の先へ走っていく姿が影として見えた。
先ほど会った子どもにしては、やけに背が低い。何より、影が走っていたにもかかわらず、走り去る足音はしなかった。
「あ、れは……?」
シェリーは、やはり私の問いかけに答えず、廊下の先を滑るように曲がって行く。曲がった先には、真っ暗な二階へ誘うような階段が、壁側にある燭台の灯りに照らされてぼんやりとした影を、壁にゆらゆらと漂わせていた。
彼女の足が、階段の一段目に下ろされる。その後をついて私も一段目に足を下ろした瞬間。
「……っ!!」
右脇を見えない何かがすっと通り過ぎ、生暖かくも、つんとした鼻をつく異臭が鼻先を掠めた。まるで老人の口臭のようだ。何が、通り抜けたのか。
シェリーは、気にせず階段の先を凝視して、話し続けた。
「やがて犯人は館に火をつけ、去りました」
シェリーが最後の段を昇りきると、背後の私へと振り返る。階段の先にも壁際に設けられた燭台のお蔭で真っ暗闇ではなかったが、彼女の表情を隠すほどの闇ではあった。
燭台の灯りの逆光で、シェリーがどんな表情をしているのか、まるで想像がつかない。やがて、シェリーの背後でばたばたと走り回る子どもの足音が耳に入った。ニックだろうか。
その音にシェリーはゆっくりと振り向き、横を向いたまま呟く。
「その時に逃げのびた子どもが、ニックです」
ばたばたとした足音が、シェリーの言葉を聞いてぴたりと止む。まるで暗闇からシェリーの様子を窺っているような空気を肌で感じて、私は最後の段から二階に上がれなかった。




