「第一話 あらしの館」
ひどい嵐だった。用事を済ませようと足を早めた瞬間。まるで森を覆うような白い霧とともに、地を激しく叩きつける雨が降り始めた。森の奥では空気を震わせる程の雷鳴と稲光が曇天を引き裂き、その刹那世界から色彩を奪ってしまう。ぐるりと周囲を見回せど、白い霧の中では僅かな光さえも曇らせた。
「やぁれ。参ったな、こりゃ……」
黒いつばの広い帽子から滴る雨に目を細めて、ぼやく。発した声さえも雷雨に掻き消されてしまう。このままでは教会に戻るどころか、知らずと教会から遠ざかってしまっているかもしれない。どこかで雨宿りが出来ないものだろうか。
「……ん?」
ふと、視界の端で妙なものが映り込んだ。咄嗟に顔を向けるが、何も居ない。人形のような影が、この大雨の中の木々の隙間を縫うように駆け抜けた気がした。
雨で重量を増した黒い帽子のつばを指で押し上げる。しかし、帽子のつばから頻りに雨垂れが滴り、地を叩きつける雨の勢いに目を細めるだけに留まった。
「何だ。気のせいか……」
鬱蒼と生い茂った木々の向こうに、何度目かになる雷が落ちる。その時、少し離れた場所に一軒の大きな館が見えた。見間違いかと思いきや、連続した雷光のおかげでその姿がはっきりと見える。
「あぁ、助かった。これぞ、神のお導きやもしれんな」
残像のように見えた館の方へ足を向け、帽子を目深に被り直す。それから、雨に濡れてすっかり重くなった黒い革鞄を胸に抱え直し、館があると思しき方角へ駆け出した。
手探りで木々を確認しながら、白い霧の中を無我夢中で走り抜ける。すると、そこだけぽっかりと切り取られたような空間に、古びた洋館が姿を現した。
「これはまた……まるで、廃墟だな」
赤錆びて今にも崩れそうな鉄門の向こう側。この風雨に晒され、ぬかるんだ土が館を取り囲み、足の長い茂みが館へ伸びている。長い間全く手入れもされなくなり、荒れ果てた姿に成り果てた庭が、奥に聳え立つ館の佇まいをひっそりとさせていた。
館の壁は、元は白い壁だったのだろうが、今では蔦に絡まれ、すっかり色褪せてしまっている。正面玄関は奥まった箇所に扉があり、来るものを拒むような柱の二本が頭上のバルコニーを支えていた。
慌てて屋根の下に入り込み、黒のカソックの裾を絞る。止め処なく雫が滴り落ち、思わず苦笑いを浮かべると。
「……どなたでしょうか?」
背後から女性の声がした。驚いて振り返ると、正面玄関の扉が僅かに開いている。その隙間から、くすんだ長い金髪を首の後ろで一つにまとめ、右目から顎にかけて火傷の痕が縦に入った少女が、おずおずといった様子でこちらを見ていた。どうやら館の住人らしい。見たところ、身体つきは大人だが顔つきは幼い。恐らく、雇われメイドといったところだろうか。
「これは失礼致しました。私、この先にある村の神父をしております、ブラック・マイアーと申します」
「あたしは、シェリー。……シェリー・ヴィランです。この館のメイドとして働いています」
「これはご親切に。……実は、とある用事でこの森を通り掛かったのですが、ご覧の通り雨に降られてしまいまして。もし宜しければ、今晩だけでも泊めさせて頂けませんか?」
「……すみません。奥様に伺ってみます」
終始困り顔で受け答えをしたシェリーは、扉を少し開けたまま館の奥へと小走りで去っていく。
その間に少しでも水滴を落そうと背を向けて裾を絞った。ぼたぼたと容赦なく落ちる滴に、自然と短いため息が零れる。まったく、本当にひどい雨だ。一張羅は、この服しか持っていないというのに。天気ももう少し雨足を弱めるといった気遣いをしてくれれば、もっと万人に好かれると思うんだがな。
つらつらと頭の中で思いつくままに愚痴を雫す。これこそ長年経っても治らない癖だった。治さなくては、と思うが、口にしたところでこの嵐だ。誰にも聞かれないだろう。だからこそ、もしもここで雨宿りをさせて貰えなければ、愚痴を溢すだけでは済まなくなる。やや緊迫感が胸の内に広がり、溜息を吐く。
すると、また背後から声が掛かった。
「……おじさん、誰?」
振り返ると、いつの間に居たのか、短い金髪の可愛らしい男の子が、訝しそうな眼でじとりと見上げている。見たところ五歳頃だろう。端正な顔立ちが今は胡散臭いものでも見るように歪められていた。ついでに口もへの字に歪んでいる。
さらに視線を下げると、子どもの手の中には、精巧に作られた人形が握られていた。ところどころに焦げた痕があり、右の顔には顎にかけて一筋の黒い線が入っている。変わった人形だ。やや損傷が激しいようだが、それほどお気に入りなのだろう。
子どもを話しやすいように腰を落して、帽子を取って挨拶をする。
「こんばんは」
「……こんばんは」
「私は村の教会の神父で、ブラック・マイアーと申します。少し、雨宿りをさせて欲しいのですが」
「ここの噂を聞いて、来たの?」
「噂というと?」
「ふぅん。そう……」
男の子はあからさまに落胆した表情を浮かべ、館の奥へと走り去ってしまった。あの男の子はこの館の住人だろうか。見たところ少し顔色が悪かったようだが、病気がちなのかもしれない。すると、入れ違いになるように今度はシェリーが戻ってきた。
「どうも、お待たせしました」
「あぁ、いえ。とんでもない。……それで、奥様は何と?」
「今夜だけなら構わないとのことでしたので、どうぞ」
「あぁ、それはありがたい。……感謝します」
「どうぞ」とシェリーが館へと誘い、軽く頭を下げる。どうやら今夜だけでも雨には降られずに済みそうだ。シェリーから手渡されたタオルで雨に濡れた顔を拭い、館へと一歩だけ足を踏み入れる。
「……おや?」
すると、きんと高い音の耳鳴りがして、不意に耳元で囁き声がした。
「次は、あなたの番」
幼い声に、はっとして隣に立つシェリーを見る。声は、シェリーの方から聞こえたような気がしたが、シェリーは「どうかしましたか?」と怪訝そうな顔を浮かべていた。あまりの疲れのせいからか、どうやら幻聴まで聞こえてしまっているらしい。
「……いえ、すみません。お気になさらず」
軽く頭を振り、館内を案内するシェリーの後ろをついて回った。
「ここが居間になります。ここから行った先が食堂です。……今日は既に夕飯が済みましたので、後で軽い食事をお部屋にお持ちしますね」
「えぇ、ありがとうございます」
「あ、あの、神父様は、……本当に通りがかっただけですか?」
「通りがかっただけ、とは?」
先ほど似たようなことを子どもから聞かれ、小首を傾げて聞き返すと、シェリーは慌てた様子で「いえ、何でもないんです」と顔を逸らしてしまった。子どもの話に出た「噂」が関係しているらしい。
「……お部屋はこの廊下の突き当たりの階段から上がって正面にございます。ご案内しますね」
シェリーはそう言って、薄暗い館内にもかかわらず、迷いのない足取りで廊下の先へと歩き始めた。