03.在在所所の大晦日
星暦七七四年――虹華節十五日
昨日までであれば、朝食を終えて出掛ける支度をしていたり、広間でゆったりと過ごしているような時間なのだが……
「今朝、アタシの言ったことを覚えているかい?」
魔女は苛立ちを微塵も隠すことなく、目の前で俯いたまま正座している者たちに問いかけた。
空気は澄んでいて、見上げれば視界に広がる雲一つない青空。
軒から伸びた氷柱が水滴を落とし、日陰の草花には霜がちらほらと残っている。
つまり、とても寒いのである。
「も、もちろんじゃないですか。そうですよね、シラユキ?」
「忘れてなんていない、かな。モミジはどう思うかな?」
「と、と―ぜん覚えてるっす。ツキノも覚えてるっすよね?」
はっきりと聞き取りやすい音ではあるが、どこか取り繕っているようにもとれるツキノの声。シラユキはいつも通り冷静に見えるが、その視線がブリジットの方へは向いていない。屋敷のお調子者たるモミジも、冷えきった空気の中ですら汗が止まらないでいた。
ここまでくると、誰の目から見てもこの状況を理解することはできるだろう。
絶賛、お叱り中である。
「……まったく、アンタたちは」
小さく息を吐くとブリジットは呆れたような、そしてどことなく昔を懐かしむ声を漏らすと、もう一人の問題児へと視線を向けた。
その者の両翼は本来であれば空を見上げるしかない人間の憧れであり、その見目麗しい姿に誰もが目を奪われるはず……であった。
だが今は、その翼も可能な限り小さく畳まれ、その身も魔女の迫力にあてられて縮こまり、決して不満気な表情を見られまいと顔を俯けている。
「天使のわたくしが、どうして大掃除をしなければならないのですか……」
耳を澄ませていないと聞こえていなかったであろうその小さな呟きも、全神経を目の前で正座している者たちへのみ注いでいたブリジットの鼓膜を、当然のように振動させていた。
「アンタが居候で、今日が屋敷の大掃除だからだよ! この駄天使!」
屋敷どころか辺り一帯に響いたのではないかというほどの怒鳴り声を発したブリジットは、肩で息をしながら厳しい眼差しをシエルに集中させた。
ミコトやイズナですら部屋の掃除を済ませ、今は広い玄関を掃除してくれているというのに、どうして自分だけが免れると思ったのか……甘すぎる。
シエルを含めた四人は、鼓膜を突き抜けて脳にまで響いた怒声に一段と体を小さく丸めながらその怒りが少しでも収まるのを願ったが、そのような甘い願いが叶うことはなく、むしろ非情な宣告を受けることとなる。
「アンタたち、掃除が終わるまで何も食べれないと思いなッ!」
自分たちに振り当てられた掃除の進捗が芳しくない彼女たちは昼食どころか、場合によっては夕食すら食べることを許されない。
そんな魔女の死宣告を回避するためにも、四人はすぐさま立ち上がり、自分たちの持ち場へと全速力で向かって行った。
「ブリジット。リンの部屋は終わったんだけど、次は何をしたらいいの?」
ツキノたちと入れ替わるようにやって来たのは、普段の細剣を床雑巾に持ち替えたシンカだった。
何故彼女がリンの部屋を掃除していたのかといえば、降魔や魔門は年末年始などこちらの都合に構わず現れるのだから、月の使徒である以上国を守るという務めを果たさなければならないからである。
ツキノたち三人はかなり前から事前申請をしていたために免れたようだ。そういうところだけはちゃっかりしているというか、抜け目がない。
ともあれ、辟易としたブリジットの姿に苦笑しつつも、シンカはこの大掃除を乗り越えるための次の指示を、総司令求めてきたのだった。
「お疲れさん、シンカ。本当にお前さんはよく働いてくれるよ」
「これくらい全然平気よ」
朝早くから動いているのはブリジット、シンカ、そしてロウだ。
自分の部屋以外にも台所に広間、風呂場や倉庫といった場所を三人で掃除しているのだから、先のブリジットのお叱りも仕方ない。せめて自分たちの部屋くらい掃除するのは当然であり、むしろそれ以外を求めないブリジットも、なんだかんだといって甘いところがある。
「きっと将来、いいお嫁さんになるだろうね」
「――っ、お、およッ」
突然の褒め言葉に、シンカは顔を真っ赤にしながら目を見開いた。もし仮に音が目視できるのであれば、シンカの頭部から”ぼんっ”という音が見えたことだろう。
家事において最強と名高い万能魔女。
怒ると怖いが、なんだかんだと甘くて優しい皆のお母さん。
そんな彼女から貰った言葉だ。嬉しくないはずがない。はずがないのだが、シンカにとってお嫁さんという言葉は少し不意打ちすぎたようだ。
そんな赤面した彼女を前に、ブリジットは可笑しそうに微笑むと、
「それじゃあ、この店にひとっ走り行ってきてくれるかい?」
そう言って、ブリジットはシンカに目的地の名称を書いた手書きの地図と貨幣が入っている革袋を渡した。その地図に書かれていたのは、いまだ記憶に新しい元祖・八木餅屋までの道程だった。
「淡雪羹でも買ってくればいいのかしら?」
ロウが買ってきてくれた淡雪羹は絶品だった。
思い出しただけであの優しい甘さが口の中に蘇るようだ。
「残念だけど今回は違うものだよ。このメモを渡せば店員が揃えてくれるから、頼んだよ」
渡された小紙に視線を落としたシンカは、そこに書かれている品物がどういった物に変貌するのかを想像すると頬が緩むのを堪えることができないでいた。
すでに背を向けて歩き出しているブリジットの表情と胸の内は確認できないが、おそらくシンカの考えている通りなのだろう。
今日の虹華節十五日が終われば、明日は新たな年の始まりである煌照節一日。となれば、その日の食卓に並ぶものは決まっている。
シンカはブリジットが腕に縒りを掛けて作るそれを楽しみにしながら、屋敷の外へと足を向けた。
「さて、次はフォル坊たちの部屋だね」
毎日とまではいかないが、屋敷内の掃除は頻繁に行っているので清潔さは保たれている。そのお陰で、大掃除とはいえそれほど労力を必要とはしない。
にもかかわらず、フォルティスとロザリーの部屋は放っておくとすぐに散らかってしまうのだ。
普段は大目に見ているが、今日くらいはきっちりと綺麗にしてもらわなくては。
「何も片付けてなかったら……しばらくの間、おやつの量を減らしてやろうかね」
今年こそはという僅かな期待と、やはり今年もという確かな不安を抱えながら、ブリジットは掃除道具を手にして上の階へと歩んでいった。
―――天国チエロレステ神都ウラノス
建物の外に出ると外気の冷たさに少しばかり身を震わせはするものの、澄んだ空の色とこの時期特有の街の雰囲気が相まって、だんだんと心地よく感じてくる。
石畳の街を往くブーツは規則的に小気味良い音を響かせながら、男はこの日独特の空気を肌で感じていた。
尖晶石の瞳に映るのは市場に並ぶ品々、前が見えない程の荷物を抱えた少女、見覚えのある挙動不審な禿頭の男、等々。
それらに微笑みを浮かべながら、七深裂の花冠が一ひら、ベンヌはお気に入りの場所へと向っているところであった。
「こんなにも忙しいんだ。少しくらいは羽を伸ばさないとなぁ~」
立場上、責務は果たさなければならないが、気怠げな見た目とは裏腹に彼は少し仕事をやりすぎるところがある。少しでも自由な時間を作るために要領良く動き、今日もうっかりすべてを片付けてしまうところだった。優秀な部下がいるのならば、その者の教育の一環として仕事を任せるのもまた必要なことだ。
そう思いながら、彼は普段なら一人でこなしていた仕事を部下へと任せ、城の外に出てこの雰囲気を味わっていた。
「安くて新鮮なのは今日だけ! 今日だけだよ!」
「焼きたて、揚げたてのパンはいかがですか~」
「今晩、広場で宵越しの集いを行いま~す! 参加される方は当店で申し込みを~!」
新たなる一年を迎えるための支度で活気に満ちたその風景に、べンヌは満足気に独り頷きながら熱気と寒気に包まれた街を歩いていく。
「この時期の街の雰囲気はいつもいいねぇ。さて、ファロ様への土産は何にしようか」
天空城クロノスの端にある一つの塔を見つめつつ、ベンヌは彼女の喜びそうな物の候補を脳裏に思い描いていく。
そして、きっとなんでも喜ぶのだろうという結論に達し、その光景を想像しつつベンヌは軽く微笑みながら再び足を動かした。
ベンヌが城に戻ったとき、すべての仕事を片付けた、疲れ切った様子の部下たちが長座椅子を寝台代わりにして、屍のように横になっていたというのはまた別のお話。
―――陽国ソールアウラ神都ヘメラ
足元から漂う冷気と凍えそうなほどに冷え切った指先の感覚、それに反して熱く汗が止まらない身体に頭がどうにかなってしまいそうになる。
普段の明るく振る舞っている雰囲気は微塵もなく、日長石の双眸で黒き侵略者を睨み付けるアトラスは、たった独りでそれと相対していた。
この戦いが始まってから半刻も経っていないというのに自身が追いつめられている状況に、七深裂の花冠が一ひらであるアトラスは、黒き侵略者の強大さに嫌気が差し始めていた。
だが、物言わぬ侵略者が消耗しているのも確かな事実であり、彼にとってはここが正念場であるともいえる。
「さて、そろそろ決着つけよか……」
手にした得物を落とさぬように握り直し、呼吸を繰り返しながらこの戦いを終わらせるための方法を反芻する。
腕は上手く動かすこともままならず、増援もくることはないであろうこの状況。
されど黒き侵略者との決別の為に残る力を振り絞り……そして―――
「これで! お前らの! 存在を! 全部! 全部! 洗い流したるっ!」
部屋中に響くアトラスの咆哮と、力強く擦る掃除刷毛の音。
彼は今、紅炎殿ヒュペリオン内にある大浴場の清掃を行っている最中で、最後の仕上げとして隅に幾度となく姿を現す真菌を様々な道具等を駆使して取り除いているところだった。
「俺如きに敗北するんやったら、最初から現れんなやこのボケカスがっ!」
すでに菌除去剤は撒かれ、雌雄を決するこの勝負に最早敗北の二文字はない。
後はただ己の筋力を信じ、攻撃の手を緩めることなくひたすらに駆逐するのみ。
そして開戦から半刻と少し……
「よっしゃー! やっと終わったでぇー!」
暫くの間、清潔さを完全に取り戻した大浴場にはアトラスの高笑いが響きわたり、彼は例年最後の大仕事を終えるのであった。
――海国エデルメーア神都ポントス
周囲が忙しそうに奔走する最中、水晶宮オケアノスの縁側の空気だけは少しばかり違っていた。
「毎年思うけど、一日ですべてを終わらせる必要はないんじゃないかしら」
縁側から外を見れば多くの海の流人が掃除道具を手にしていたり、埃にまみれたよくわからない物、廃棄物などを運んだりしている。
海神ヴィアベルにも勝るとも劣らない実力を有しているとされる、瑠璃石の麗人メロウ。毎年のことながら、彼女は周りの物音や指示を出す声を気にすることなく、自らの時間を優雅に過ごしていた。
しかし、七深裂の花冠が一ひらである彼女に不満の声を漏らす者など一人としていはしない。
「……それに、もうあのときのような重労働はごめんね」
いつのことだっただろうか。
彼女は親しい者に頼み込まれて一度だけ大掃除を手伝ったことがあるのだが、それは休むことが許されないほどに過酷であり、されどとても思い出深いもので、今でも彼女の中で色褪せることなく輝き残っている。
「でも、頼まれたら断れない。そんな気もするわ」
冷たく突き放すような態度をみせることの多い彼女ではあるが、彼女をよく知る者たちからしてみれば、優しく気遣いの上手い者なのだ。
「今年の恨み辛みは水に流し、恩こそ魂に刻み込め。私は忘れない……どれだけの時が巡っても、幾度生まれ変わっても……決して、忘れはしないわ」
そのまま彼女は思い出に浸り、戦友に勧められた紅茶の味と香りに満足しながら、新たなる年の幕開けを優雅に待つのだった。
――冥国オスクロイア神都エレボス
聳え立つ摩天楼レトーの一室。
暖炉で朱く染まりながら役目を果たしている薪の時折爆ぜる音を背に受けながら、男性であればその姿に釘付けになり、女性であれば憧れる体型をもつ艶女リリスは、間延びした声を漏らしながら暇を持て余していた。
「節目を迎えるっていうのに、この国は退屈ねぇ」
その衣服の上からでも存在感を示す豊満過ぎる胸部を持ち上げるように腕を組み、いつも以上に吹雪いている暗く白い世界を窓から眺めている。
「あの子たちの女子会に、サプライズで参加するのもいいかもしれないわねぇ」
冥国が誇る精鋭、冥の幽衆の中でも数多くの功績を残し、周囲の人間からの評価が高いセンシアのことを思い浮かべながら、リリスは妖艶でありつつも無邪気な笑みを漏らした。
とはいえ、それなりの立場にいる自身がそんな場に足を運べば、彼女たちのプライベートを邪魔してしまいかねないので実行はしないのだが。
「はぁ~……寂しいし寒いし……あの人の肌が恋しいわぁ~」
そう言いつつも、彼女が纏っているのはこの国では考えられないような、いや、この国でなくともこの時期では考えられないほどに薄着ではあるのだが。
それが意味するところは極めて魔力の扱いに長けているということであり、平然とした顔で日常から薄い魔力の膜で自身を覆っているということは、それだけで彼女の実力の高さが窺えるというものだ。
「あら?」
ふと、紅水晶の瞳に時計が映り込んだ。
あと一刻もしないうちに長針と短針が重なることだろう。
瞬間的に何かが劇的に変わるわけでもないが、確かに時代は変わっていくのだ。
「この一年を頑張った自分へのご褒美に、腹黒糸目が大切にしてる葡萄酒たちでも空けましょうか、ふふっ」
この国の神であるアルバの所有物を、無断で自らのものとして扱うその精神の強さは何処から来るのだろうか。
七深裂の花冠が一ひらであるリリスは妖艶な笑みを零しながら、軽快な足取りで酒蔵へと向けて歩き出すのだった。
――月国フェガリアル神都ニュクス
「ごちそうさま。まさか、夜間待機をここまで贅沢に過ごせるなんてね」
「まったくだ。アフティがいなかったら、せっかくの年越しが台無しだったぜ」
「それはよかったです。俺としても情緒などは大事にしたいですから」
「食べるたびに美味しくなってるよね~」
月光殿セレネ内にある月の使徒の訓練場、そこにある食堂でリン、スキア、アフティ、オトネの四人は夜間待機中にアフティの作った夜食で身も心も満たしながら過ごしていた。
本来であれば、今晩の緊急出動用待機兼巡回は別の部隊がすることになっていたのだが、その部隊の者が揃いも揃って体調を崩したため、急遽リンたちに役目が回ってきたのである。
屋敷で皆と過ごすはずだったのが、とんだ貧乏くじを引いたものだ。
「それじゃ、俺はこれを片付けてきますので三人は先に戻っててください」
「わかったわ。ありがとう、アフティ」
「んじゃ、明日の式典もあるし、俺は会場のほうをちょっと見てくるぜ」
「アフティちゃん、ホットミルク作って~」
皆がそれぞれに動き始めると、夜間待機者用の部屋へと戻りながらリンは一人、いまだに絡まった糸を解けないでいた。
これは自分自身の問題なのだからと、そう誰にも相談することなく一人で向き合ってきたつもりではあるが、それは夜が明けるように容易なものではなく、誰かが解答を用意して持ってきてくれるわけでもないのだ。
「大丈夫、来年こそ必ず見つけてみせる」
大切な薔薇の髪飾りに温かさを求めるように指先で触れながら、リンは確かな決意と共に小さく呟いた。
一方、同じ敷地内にある白い建物の地下では、二人の男がくつろいでいた。
二人は日頃世話になっているこの建物の掃除を済ませ……といっても、ほとんどが地下の訓練場に籠り、部屋は寝るためだけに使っているので、それほど大掛かりな掃除は必要なかったのだが。その後、アフティが差し入れしてくれた夕餉を取り、白く何もないこの場所で今年の終わりを待っているのだ。
「にしても、ここに住んでもう三ヶ月以上経つんだなぁ」
「あぁ、思えば本当に遠くまで来たものだ」
内界のミソロギア軍に所属していたセリスとリアンの二人からすればここ数ヶ月、驚愕という言葉では足りないほどの大きな変化の連続だった。
降魔、魔憑、外界、亜人……数ヶ月前の自分に今の状況を届けることができたとしても、何を馬鹿なと鼻で笑われることだろう。
「ロウたちが今の俺らを見たら驚くんじゃねぇか?」
「阿呆が。俺たちは確かに強くなった。だが、ロウは俺たちより遙かに強くなり続けている」
胡座をかきながら悪戯な笑みを浮かべるセリスに対し、リアンの言葉は冷めたものだった。
「弱い者が強くなるのは簡単だ……が、強き者がさらに強くなるのは難しい。今まさに、俺たちがその壁にぶつかっているようにな。ロウはその壁すらものともしないが、俺たちはそうじゃない。少しでも気を緩めれば、あっという間にあいつは遠くへ行ってしまうぞ」
「確かに……っ、はぁ~! …………リアン」
ぐっと両腕を伸ばしながら仰向けに寝転がると、セリスは小さな声で呟いた。
「今年は駄目だったけどよ……できるだけ早く、ロウたちの力になろうぜ」
「無論だ」
そう言って、二人はここでの訓練の情景を脳裏に呼び起こした。
今日という日くらいは地下訓練場でなくとも、せめて談話室で年を越せばいいのかもしれないが、彼らにとってはここが一番落ち着く場所なのだ。
今日がこの一年を振り返り、新たな年に向けて新たな決意を宿す日だというのであれば、この場所こそが二人にとっては相応しいのだから。
――ユーフィリア家
夕食までの時間をすべて使い、大掃除を無事に終わらせた者たち。
今後の定期的な清掃を条件に、おやつの減量をなんとか免れた者たち。
普段使っている屋敷への感謝の思いと共に、大掃除を完了させた者たち。
今年の終わりが近づいてくる最中、それぞれが疲労感と達成感に包まれながら、過ぎ去ったこの一年のことをしみじみと思い返していた。
そんな中、唐突に話し出したロウの穏やかで静かに響く声が皆の耳に届いた。
「この一年、みんなには色々なことがあったと思う。楽しいこと、辛いこと、嬉しいこと、悲しいこと……そういったものがあったから今のみんなが、俺が在るんだと思ってる」
ロウの言うようにこの一年、特に後半は本当にたくさんのことがあった。
出会いや別れ、近しい者の死や再会……そして、多くの無念と後悔。
「それは今年だけじゃなく、今日までの人生もそういったものの積み重ねでできていて、これから先もずっとそうなんだと思う。今日というこの日もいつかは遠い過去に変わって、そのときの俺たちは今の俺たちと違っているのかもしれない」
この世に生まれ落ちてからの人生は、まるでひとつの物語のようだ。
自分だけの物語を自分で綴り、運命に翻弄されながらも何かを取り、何かを捨て、そういった選択の上に立っているのが今の自分なのだ。
だとしたらこの先、互いに譲れぬ選択もあるだろう。
今の関係も変わってしまう日がくるのかもしれない。
「だが、消えない。たとえ思い出が色褪せてしまっても、誰の身に何が起きても、互いの関係が変わってしまっても……これまでの出来事が消えるわけじゃない。だから忘れないでくれ。この先にどれだけ辛いことが待っていたとしても、こうして笑い合える時も確かにあったんだってことを」
言って、ロウは広間にいるそれぞれの顔を見つめていくと、最後には自分の手元へと視線を落としながら、毅然としたこれまでの声音とはまた違った声で……
「つまり、だな……また明日からもよろしく頼む」
一瞬の静寂の後、なんとも締まらない言葉で締めくくったロウに注目していた皆の表情から思わず笑みが零れていた。
幾人かは大きな声を上げて笑っているが、それを注意する者は誰もいない。
長い人生で見れば本当に刹那の時でしかないこの瞬間も、物語の頁に綴られた確かな一齣なのだ。
たとえこの場の誰もがこの時を忘れてしまっても……
たとえこの一齣が世界にとって他愛ない瞬間でも……この刹那は確かに在った。
二つの針が触れ合う時間まであと僅かだ。
賑やかな声が屋敷に満ちて、とても暖かい雰囲気のままそのときが訪れようとしている。
星歴七七四が終わり、星歴七七五年が始まろうとしていた。
――内界、外界、中界、世界各国
各国、各地域で多くの人は宴を楽しみながら、それぞれにこの一年を思い返して過ごしていた。
善人や悪人、身分や強さに関係なく、生者に等しく訪れる節目。
宴の賑やかさも次第に収まりをみせ始めると世界から音が消え、そして――
「「「ごぉっ!」」」
世界中で始まる新年への秒読み。
響き渡る世界の声は興奮と期待の籠ったものだ。
「「「よんっ!」」」
互いの顔を見つめ合い、或いは天を仰ぎ、そのときが来るのを待ち詫びる。
気分の高揚が抑えられないのは仕方がない。
「「「さんっ!」」」
一つ、また一つ時を刻む毎に、この一年との別れが近づいている。
この瞬間だけは、世界中の者たちの声が重なり合っているだろう。
「「「にっ!」」」
人によって様々な思いを抱えて過ごした今年が終わる。
そして、新しいまっさらな一年に足を踏み出すまであと少し。
「「「いちっ!」」」
訪れたのは刹那の静寂。
誰もが息を飲んで最後の、そして最初の宣言の時に備え――
『――ゼロ』
「「「あけまして、おめでとう!」」」
幕が下り、幕が上がる。
新たに始まる一年がより良いものになるように、祈りの言葉を叫んだ。




