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それは現のイストリア  作者: 御乃咲 司
二章 GOD-巡逢のヴェンデッタ
28/55

24.Observer - Integrated point -

 

『――愛しさの種が罪花(罪過)を咲かす、その前に……』


『――最後に選んだその道に、どうか救いの贖罪を……』



 昼間だというのに夜空が覆い、月輪と星々の光が灯っている。

 夜中だというのに蒼空が広がり、太陽が煌々と照らしている。

 熱を感じない灼熱の砂漠、触れることの叶わない深緑。

 潮の香りを感じられない白波、溶けることの無い純白の雪原。

 それらすべてが幻想的であり神秘的でもある、泡沫の中の夢景色。

 現の幻……其処に在って其処には無い、しかし確かに刻まれた記憶。

 

 見果てぬ荒野に想いを馳せる一人の男は、この奇妙であり不可思議でもある、総てが集約している空間を揺蕩っていた。

 月夜の如き漆黒を纏う男の名はロウ……ロウ・ユーフィリア。

 多くの者たちからは神殺しなどと呼ばれ、外界から姿を消し、内界にて新たな生活を営んでいたが、再び外界の地へと足を踏み入れた彼を待ち受けていたのは、数々の試練ともいうべき困難だった。


 彼はついに、その道の先に辿り着いたのだろうか。

 彼はついぞ、その道の先に辿り着けなかったのか。

 彼が此処にいる、その意味するものはなんなのか。


 


『認めない。私はまだ負けてない。だから忘れないで……目覚めた後、私は必ず貴方に辿り着く。最後に勝つのは、この私よ』

 

 悔し気に愚者札(ジョーカー)を握り締め、それでも琥珀の双眸は強き輝きを宿したまま、少女は凍てつく世界の中で黒き男を睨みつけていた。




『おばちゃん、チョコレート味一つお願い』


 小さな町でチュロスを頼む一人の少女。

 薄い金髪の少女の浮かべた微笑みの下に見える小さな焦燥に、誰も気付くことはない。琥珀の瞳に映っているのは、その景色ではなく待ち受けている絶望だ。




『これがもしバロン級以上の降魔だったら今ごろは……。そうよね、やっぱり……私は――』


 気を失っている男を前に、少女は悲痛な面持ちで震えていた。

 闇夜の中でただ一人。その姿はまるで、迷子のように小さく見えた。



 

『助けなんて求めてなかったのに、どうして来たの!?』


 嘆きを内包した怒号が響く。

 それでも、男はただ微笑んだ。

 助けてと口にしなくても、たとえ涙を流していなくても、傷ついた心の声や涙に気付かないふりなど、最初からできるはずもなかったのだから。




 目まぐるしく変化する情景は浮かんでは消え、迫って来ては過ぎて去って行く。

 時間や場所が様々なそれらは、誰が見てきたものなのか、自分の見てきたものなのかの判別がつかないほどに、ロウの意識に入り込んでは抜け落ちていた。

 無限に続く本棚。無数に並べられている書物に囲まれているような感覚。

 いや、生きとし生けるものすべての記憶の走馬灯というべきか。

 揺蕩う情景は真実なのか虚構なのか……移ろい行く夢景色。


 その中でも、たった一つだけ不変なものがあった。

 ロウに向けられた視線。いや、意識といった方が正しいのかもしれない。

 それは動くことなく留まり続け、ロウという一個人を認識していた。

 揺蕩うソレは現なのか幻なのか……ただただそこに在る何か。


「…………」


 しかし、いつの間にかロウの側に居たそれは、人の形を成していた。

 そう、あくまでロウがそれから感じ取った雰囲気のみで、実際には顔も身体も、身につけている物は何一つとしてわからない影人形(ひとかた)

 わかるのは、目の前にそれが居るということだけだ。すると――


「しっかし、あれだねぇ。こんな何もない所に来られる物好きがいるなんてね~。ロウちゃんは莫迦なのかい? いや、みなまで言わなくても私は理解しているよ。迷子になった街の名前も、ビンタをされた回数も、二週間前のお昼ご飯に何を食べたか、一口目すらもその全部をね。君の最後の晩餐は蜜の味だろう? いやぁ、そうでもないか。死神の口づけの味はどうだった? あ、そうだ。せっかく来たんだから、少しお茶でも飲んで休んでいくといい」


 突然に人の形をしていただけのそれの姿が、人であると完全に認識できるようになったかと思えば、堰を切ったかのように次々と言葉が飛び出してくる。

 快活な口調に面を食らっていたロウではあったが、目の前の人物の言葉に違和感を覚えたことによって、逆に冷静な思考を取り戻した。


「此処は何処なんだ? どうして俺の名を……なにより、あなたは一体……」

「そうだね、確かにその質問や疑問はもっともだ。それを私から聞く前に、さっきまで自分自身が何をしていたのかを思い出してみるといい。そのあとでゆっくりと話そうじゃないか~」


 先程と変わらぬ明るい声には、有無を言わせない圧が内包されていた。

 故に、ロウ自身が感じていた疑念を見ぬき指摘してきたこと。

 眼前(そこ)にいる筈なのに、どうにもその存在を視覚外の情報で感じる事ができないこと。

 これらを踏まえた上で、ロウはその存在の言うとおりに記憶の中を探った。


「……俺は確か、確……か?」


 ここで意識を取り戻す前、何か大切な―――


『――――――――――』


 だが、いくら思い出そうと試みても、自分がここに来る以前のことその一切を、ロウは思い出すことができなかった。


 自らの人生、自らを慕う者たちのこと、自らが掲げていた信条……

 それら全てが、彼には分からなくなっていたのだ。

 思い出そうとすればするほどに誰かの記憶、何処かの情景が流れ込み、まともな思考をし続けることは困難だった。


 ――激しくも優しい焔が揺れる街。

 愛するただ一人のために戦い続けた。

 そして、大切な皆のために戦い続けた。


 ――黒が舞う混沌の戦場。

 全てを切り捨てた孤高の男。

 そして、手を取り合うことを選んだ男。


 ――新たな命の誕生に歓喜する者たち。

 守るべき小さな芽から眼を背けた。

 そして、守られるべき小さな芽を護りたいと願った。


 ――今は亡き家族の為に魂を賭した男。

 彼らの犠牲を無駄にはできないと歩み続けた。

 そして、彼らの愛を忘れぬために戦い続けた。


 知らない出来事。知っている出来事。

 知らないはずの出来事。知っているはずの出来事。

 そのどちらも真実であり虚構であり、真であり嘘であり、現であり夢でもある。

 それらの境は蜃気楼のように揺れ動き、自身の意思も願いも感情さえもわからないまま、時代や場所すら異なるそれら全てが、まるで実体験であるかのように鮮明に脳裏に焼き付いているように感じられる。

 そんな矛盾した現象が今のロウに起こっていたが、彼はそれの答えに見当がつかず、先程の存在に問い掛けようと辺りを見渡した。


「すまないが、どうにも思い出せな……え?」


 気が付けば、暗転した世界にいたのはいつの間にかロウ一人だけとなっていた。

 声、音、景色、光などは失われており、視界に映っているのは一面の漆黒。

 いや、両眼を閉じているのか開いているのか、その漆黒が視界に映っているものなのかどうかさえ判別できないほどの深き闇だ。


 自身と世界の境界が曖昧になり、解けていく。

 解けた意識は溶け合い、混ざり、広がっていく。

 自己の認識はまだ失われていないが、いずれ彼らと同じになるのだろう。


「俺、は……知らない。だが、知っている。見たことはないが、見たことは……ある、のか? これは……」


 そうして、情報が通り抜けていく間に、辺りの景色は白一色となっていた。

 ロウは今まで感じたことのない感覚、未知の体験に困惑していたが、どうしてか警戒する必要は無いのだと、心の奥から訴える何かが迫り上がる。

 それと同時に、広がっていた自分という存在(もの)が、再び一個体(自分)に戻ってくように感じられた。


 確認する。


 ――名はロウ


 確認する。


 ――世界を救うために戦っていた


 確認する。


 ――此処は世界の集積点


 確認する。

 

 ――自分はすでに………………



「此処は世界の総てが集う場所。次に貴方が目覚めた時には、此処での事を覚えてはいないでしょう。本来この場所には、何人も立ち入ることなどできる筈もないのですから。……ただ一人、宿業を結ぶ貴方以外には」


 色の無い世界に顕れた人物の姿は陽炎のように揺れ、靄に包まれているようにも見えたが、その人物は信用に足る者であるとロウは思っていた。

 なぜなら、此の不可思議な空間の中、幾多にも及ぶ情報から個人としての存在を確立したからだろうか。先程の口調よりも偉ぶっているようだが、眼前で揺れる虚ろなる存在の正体を、視覚以外で感じ取ることができたからだ。

 身姿は朧気で、声すら変質していても、彼のよく知る人物であることは、おおよそ間違いのないところだろう。


「ますます訳がわからないんだが……」


 未知であり、既知の事象が交錯する。

 しかし、存在するのは過去と暗闇に続く道程のみ。


「そろそろ説明してもらえないか? ――ムネモシュネ」


 白き世界で言葉を発する漆黒の男が名を呼び、虚ろなる存在を彼の者と認識した途端、影人形(ひとかた)の揺らぎは一段と大きく揺れ動き、一人の女性へとその姿を変えた。

 神名はムネモシュネ……記憶を神格化した存在ともいえる女神だ。

 その穏やかな表情と清廉で気品溢れる立ち姿を前にすれば、邪な思いを抱く者も善行に励むことだろう。そう思わせるほど、女神と呼ぶに相応しい風情だ。

 ただし、開口せず、その姿だけであればの話ではあるが。


「あ~ぁ、もう少しくらい此処について戸惑うなり、驚くなりして欲しかったな~。相変わらず可愛げがないというか、揶揄い甲斐がなんというかだね」


 呆れたようにわざとらしく両肩を竦め、彼女は小さな溜息を吐いた。


「これでも、随分驚いてはいるんだけどな。……また、貴女と言葉を交わすことができるとは思わなかったから」

「さっきも言ったけど、これは泡沫の夢にも満たない瞬きの時間、総てが融けた世界さ。此処から離れれば無かったことになるよ」


 口を開いた途端に気品は霧散し、彼女の表情はお気に入りの玩具を手にした幼子のような無邪気さを見せていたが、それでいて隙を見せない理性的な雰囲気はイズナや審秤神サラに近いものか、それ以上にも思える。

 この場所が一体なんなのか、ムネモシュネが何故存在()るのか……などと、疑問は多々あるが、ロウが何よりも気になっているのは――


「……どうして俺は此処に居るんだ?」


 自分で足を運んだ記憶は無い。ならば、第三者が此処へ連れてきたのか。それとも、ムネモシュネが此処へ招いたのか……それは当然の疑問だろう。

 しかし、その言葉を受けてなお、特に表情を変えることなくムネモシュネは一歩ロウに近づいて艶やかな唇を開いた。


「自分で考えるように、と言ったはずなんだけどね~。私は決して、万能や絶対ではないんだから」

「なら、どうして貴女は存在しているんだ? ……いや、待てよ」


 自身の思考が莫迦莫迦しいと思いながらも、脳裏を過ぎった一つの空想(可能性)

 戦場をただ駆けていただけでは考えもしなかったそれを考えられるようになったのは、自分の事を大切だと言ってくれる愉快な仲間たちの影響なのだろう。

 そんな中、ロウの思考をぶった切る声が響く。


「よし! それじゃあ、少しお茶でも飲んでゆっくりしようか。君が疲れているかどうかは問題じゃない。私が休みたいんだ。付き合ってくれてもいいだろう?」

「……あぁ、わかった」


 ロウとの会話を一度切り上げて小休止を提案し、準備を始めるムネモシュネを見つめながら、彼はそれ以上の言葉をかけることなく準備が整うのをその場で待っていた。何処から取り出したのか、丸机(テーブル)と椅子が置かれると、茶器やお菓子などが次々と並べられていく。

 



『こんな手じゃ、誰かを守ることなんぞ……できんわ、な』


 多くの犠牲を払い、己が命を賭して戦禍を収束させた菖蒲の紋を背負いし男は、傷だらけになった掌を見つめた後、国の未来を憂いつつ静かに瞼を下ろした。

 



 白紙の(ページ)、物語無き絵本……この場所(セカイ)はこんなにも白いというのに、幾つかの情景が時折ロウの意識の中へと入り込んでは過ぎ去っていく。

 しかし、ロウのこれまでの軌跡ともいえるもの以外にも、彼の知らない土地や人々に関係するものも少なくはなかった。

 誰かに聞いたわけでもなく、記録石で観たわけでもない景色、出来事、生活。

 すると、次第に思考が微睡みに沈むように鈍くなり、再び個人としての存在が融け消えそうになっていく中……

 

「いつまで突っ立っている気だい? 早くしないと、折角のお茶がさめてしまうよ?」

「……そう、だな」


 通り過ぎた多くものに埋もれそうになっていたロウの意識は、どこか気の抜けた、それでいて心安らぐ明るい声によって引き戻された。

 短く言葉を返すロウではあるが全身は強張っており、その表情も険しく、醒めない悪夢に囚われているようにもみえる。




『少し、やりすぎじゃない? 貴女のそれは、もはや訓練と呼べるものではないわ』

『……わかっている』


 双月の密談……その話の中心の男は、彼女らの前で気を失っていた。

 身体中が酷く傷つき、呼吸は浅く、魔力は枯渇し、その姿は圧倒的な力でねじ伏せられた敗者のそれだ。

 たとえこのまま死んだとしても、なんら不思議ではないほどにさえ思える。

 だが、そんな彼を見下ろす片月の表情に陰りはなく、何かを断ち切らんとするほどに鋭利な眼光が、死体に鞭を打つかの如く煌々と輝いていた。




「…………」

「…………」


 二人の間に会話というものはなかった。

 だが、気まずさのようなものが充満しているわけではなく、ただただ穏やかすぎる時間がゆっくりと流れているだけだ。

 口に含んだ紅茶の香りはとても懐かしいもので、自身が好んで飲んでいる珈琲とは異なる安らぎをロウは感じていた。

 彼の向かいに座り、優雅に紅茶の香りを愉しんでいるムネモシュネからは、先程までの快活さがなくなっている。




『永遠に続くものなんてないのよ。あるとすれば、それはあたしのような不死の力なんかじゃない。それは再起する心の在り方。朽ちようが砕けようが、何度だって立ち上がるその姿こそが、永遠にみえるの……あの子のようにね』


 美しい容貌をした男の言葉は、どこか誇らしげに感じられた。

 だからこそ、未来を託すことができるのだと、その命を捧げることに迷いはないのだと、そういわんばかりに。




「…………」

「…………」


 二人が何を想い、何を考えているのか。それは両名にしかわからないことだ。

 不安定にして不可思議。規則性を持たず、それでいて規律に縛られているようなこの空間の中で、二人は無かったことになる僅かな時間を共に過ごす。

 だが、それが無意味なものかと問われれば、少なくとも彼女にとっては決して無意味なものではなく、むしろ……


「さて、このまま黙って居なくなる気なのかな? 君という男は、もう少し貪欲だった気がするんだけどね」

「なら、聞くが……今までどうしていたんだ? そもそも、貴女は本当に俺の知るムネモシュネなのか?」

「あぁ、もちろんだとも」


 手に持っていた紅茶杯(カップ)を一度置き、口を開いたムネモシュネの表情はどこかお道化ていたが、それに言葉を返したロウの声音は硬く何かを堪えているようにも感じられた。

 にもかかわらず、そんなロウの機微を知ってか知らずか、彼女の様子は変わる事無く、その胸中はまったく読むことができない。




『行ってくるよ、ブリジット。そんなに怖い顔しなくても、兄貴みたいに無茶はしないさ。魔力すら扱えない自分の弱さは、俺が一番わかってるから』


 朝日に照らされ、戦士としての一歩を踏み出した一人の少年。

 追い着きたい背中の為に、大切な家族に再び笑顔を与える為に、戦場で待ち受ける恐怖さえも呑み込んで、彼は彼にとっての大きな一歩を踏み出した。




「正確に言えば、君たちのよく知る私たち、とったところだけどね」

「どういうことだ?」

「そのままの意味さ。あ、でも、君の場合は”君たち”ではなく”君”なのかもしれないけど」

「…………?」

「ふふっ、まだこの世界に酔っているようだね。だけど、今の君は貴重だ。なぜなら、初めて敗北を知ったのだからね」

 

 意地悪そうに微笑みながら、その瞳に憐憫の色を宿した彼女の言っている言葉の意味を、ロウは理解することができなかった。




『わかってたんです、最初から。私がロウの隣に立てないことなんて。ロウの歩みを止めることができないことも。でも、あんなにも辛そうに戦い続けるロウを……私は応援なんてできない。だからやっぱり、私には傍にいる資格なんてないのかもしれません。本当はずっと思ってたんです』


 ――負けてしまえばいい。

 そうすれば、きっと私のことも頼ってくれるのに……と。

 

 それは眠りゆく少女の懺悔。


『それ以上はあかんよ。言の魂いうてな。一度口から吐いた言葉には魂が宿る。それが言霊や。あの子にとっての不幸は、あまりにも強すぎたことやろうな。でもいつか気付かなあかん。大切な人たちが、誰一人として自分の勝利に喜んどらへんっちゅうことに。今あんたが哀しい(そんな)顔とるってことは、やっぱりあの子の方が間違ってるってことなんやからね』


 それ故に、人に祈られる神は祈る。

 

 ――咲かせ続ける罪過の花を、どうか摘み取って欲しい。

 そうしなければ、見えない景色があるはずだから……と。




「負けた? 俺、が……?」

「そうとも。敗北の意味にもよるけど、完全敗北ってやつだね。いや、勘違いしないでくれよ? 君はいつも最後まで辿り着き、そして負けていた。敵の正体を知ることなく、ただ理不尽に、それが決まった集束点であるかのようにね」

「…………」

「だけど今回ばかりは、辿り着くことなく敗北している。その意味を今の君は理解できないだろうけど、目覚めた後にわかるだろう。だけどサラも馬鹿じゃない。君がいくらその事実を隠しても、必ず気付いているはずさ。それでもサラは望むだろう。君とあの子の宿業が断ち切られ、罪無き種が植えられることを」


 ここでの会話をロウはすべて忘れてしまう。

 何故なら、この刹那の瞬きのような時間はただの遅延時間(タイムラグ)

 時間や空間、世界から隔離された此処にロウが訪れるのは、宿業を結ぶが故の必然でありながら、世界にとっての想定外(イレギュラー)なのだから。

 だが、たとえそうだとしても、その忠告が無意味であると理解していながらも、ムネモシュネはロウに真摯な言葉を投げかけた。

 



『……此の世界にとっての異物が消えるは定め、か。私はいい……私はその宿命を甘んじて受け入れよう。だが……あぁ……どうか……私の愛子たちよ…………いきなさい』


 死の淵で、消え逝く片月は願った。

 地獄を渡り、絶望を踏破して、その最果てまで辿り着け、と。


月の()女神()の寵()愛を()受け()し者()……貴方なら、きっといつの日か……私たちを……殺して(救って)くれると……信じ、て……』


 死の際で、呑まれる片月は願った。

 地獄を越え、絶望も乗り越え、この地を取り戻してくれ。と。




「しかしだね、思っていたよりものんびりできないようで、ほんと~っに残念だよ。伝えたいこと、教えたいこと、聞きたいことだってもっと色々あるけどね。もうすぐ君は此処から消える。幕間の時間も終わりのようだ」


 彼女の気落ちした声音と共に、不意にロウに視界に入ったのは一点の黒い染みだった。それは瞬く間に白い世界を覆いつくすかのように広がっていく。

 全てが黒く塗り替えられた世界で、二人は中空に放り出されたような、それでいて落下や上昇などを感じることもなく、浮遊するような感覚に包まれていた。

 丸机(テーブル)や茶器などもいつの間にか消え、初めから此処には何も無かったようにさえ思えるほどに、ただ黒だけが存在している。


「ムネモシュネ! 貴女は此の世界の最期を知っているのか? 教えてくれ」

「はいはい、そんな大声をださなくても聞こえてるよ。……だが、断る!」


 別れの際、たとえ記憶が残らなくとも、ここでの会話がロウにとって無かったとこになるのだとしても、彼はずっと知りたかったことを問い掛けた。

 しかし、ロウの認識から次第に零れ落ちていく彼女は、甘えるなといわんばかりに弱音を吐いた彼のことを拒絶する。だが――


「ッ……頼む。俺が、俺がしていることは……」


 普段は決して見せない弱みを吐露した彼に応えたのは――




『……無駄ではないさ。なぜなら、世界の総ての事象には意味があると、そう私は信じているのだから』


 それはいつかの、彼の者がロウに残した言葉だった。


『確かに卿の行いは罪深く、決して消えることはないのだろう。忘れることなどできないのだろう。それでも辿り着きたい場所があるはずだ。叶えたい願いがあったはずだ。少なくとも私は知っている。卿が独り、心を殺して哭いていたのを。その意味に現在(いま)気付くことができなくとも、いずれ誰かがそれに気付き、その行いを尊いもだと感じてくれるはずだ。覚えておくといい……卿が思っているよりも、人という生き物は強いのだということを』


 たとえ身体が死んでいても、まだ逝くわけにはいかぬと魂を震わせ、立っていられるはずもない身体で堂々と、彼はその言葉を口にした。

 まるで致命傷など無いかのように、まだ余裕があるかのような笑みを浮かべ、傲岸なまで死に抗いながら言葉を紡ぐその姿は、世界に見せた人の強さ。


『だから、そう……私が絶命()することをそう嘆かないでくれ。親愛なる同志よ。なに案ずるな……卿と結んだ縁が、いずれ再び我らを引き合わせてくれる。……あぁ、根拠などないさ。ただ、私がそう信じているだけだ』


 その言葉を最期に彼は姿を消した。

 その自信に溢れる振舞いと言葉に、幾度救われてきただろうか。




『私も、どこかで何かを選ばなければいけなかった。選んだ末に、届かない貴方の背中をこうやって追い続けてきたの。これが、私が選んだ私の物語』


 どれだけ全力で駆け抜けても、どれだけ引き離そうと試みても……

 たとえ傍に居続けても、常に目の届くところにいたとしても……

 何をどう足掻いても、彼女はいつも必ずその言葉を口にした。

 根拠の無い何かに気付き、心の距離を感じ取り、届かぬ背中に傷だらけの手を伸ばし、震える足を踏みしめて……何度だってその少女は再起した。




 黒い世界の中で声だけが耳に届くそれは、悲し気でいて熱の籠った決意の音。


「――っ、あぁ……そうだ。君は確かに追いついてくれた」


 故に、伝えられた想いを疑うことなく、笑うことなく、真摯に受け止める。


「だがそれはまだ限界じゃない。この敗北で、俺はまた強くなれる」


 故に、託された者はまだ見ぬ先を目指し進むために、自身を奮い立たせた。


 ならばそう、此処で高らかに告げなければならないだろう。

 裏で物語の筆を取り、絶望を書き綴る混沌に。

 物語の最後を綴るのは――お前たちではないのだ、と。


「そういうわけだよ。私は今までの事を知っているだけで、これからの事なんてこれっぽっちも知らないのさ。だから、そうだね……」


”――形はどうあれ、もう一度君と話せて私は本当に果報者だよ”


 ロウが言葉を返そうとするも、この場所がそれを許さなかった。

 黒から白、白から黒へ。世界の色は変わり、様々な色、景色、音が目まぐるしくロウへと襲いかかる。

 あまりに多すぎる情報の所為か、次第に指先から掌、腕と感覚が徐々に失われていくの感じていた。体の末端から自分の存在が失われていくが、不安や恐怖は無く、それが当然であるかの如く受け入れている。

 ただ、朦朧としてくる意識の中、全てを受け入れ、思考の全てを放棄しそうになるものの、完全に消え去ってしまう前に一つだけ、ロウには伝えなければならないことがあった。

 それはほんの小さなことで、誰もが知っている行為。

 特別な事は何もなく、特別なそれは世界から見れば取るに足らないもの。


「……ありが、とう。――……さん」


 だがそれは、とてもとても大切な音だった。





 白い世界を夜空が覆い、叢雲に隠された夜天の輝き。

 黒い世界に蒼空が広がり、黒灰に遮られた紅炎の光。

 灼熱の砂漠を津波が侵し、枯れてゆく深緑と死にゆく獣。

 干上がった白波は見る影もなく、溶けることの無い漆黒の雪原。

 それらすべてが絶望であり終焉のようでもある、刻み込まれた記憶。

 現の幻……其処に在って其処には無い、しかし確かに在った景色。


 総てが集まる此の地に見える景色は隅から隅まで、その全てがまさに地獄。

 安息の時間は虚構となり、抗う術など何一つ存在していない。

 それでも彼らが剣を振るうのは、執念ではなく信念がそうさせるからだ。

 

「それでも、終焉(おわり)はやってくるからね」


 彼が消えてしまった後、ムネモシュネは独り、漂っていた。


「誰にとってかは、私の知らないところだけど。……それじゃあ、そうだね。次までの間、いつも通り孫の顔でも想像して過ごすとしようか」


 聞き逃しそうなほどに小さな言葉は、確かにムネモシュネの元へと届いていた。

 ロウからの感謝の言葉に感激し、今にも小躍りしそうなほどに舞い上がっているムネモシュネは、まるで贈り物を貰った子供のようだ。


「――さてと」


 そうして、新たな記憶を集積させながら、ムネモシュネはいずれ再び訪れる新たな客人を待ちわびる。様々な情景が移りゆく中、繰り返される来客(歓喜)孤独(哀切)

 それを何度も何度も繰り返し……何度も、何度も、何度も――




『七七〇回……』


 虚ろな瞳でそう口にした男の姿を前に、塔の女神はすべてを悟った。

 その身体も心も、限界などとっくに超えていたのだということを。

 だが、そのときの女神は知らなかった。気付けるはずもなかった。

 たった一手の遅れが、後に大きなずれを生じさせてしまうということに。




「何を伝えても、君が忘れてしまうというのなら……私が此処に存在する意味は、果たしてあるのだろうか」


 自身の無力さを嘆き続けた。

 積み重なる記憶という数多の情報にその心を蝕まれ、それでも此処に留まり続け存在し続けることしかできない自分を嫌悪した。




『おはようさん』

『随分とご機嫌だな』

『そういうあんたも、憑物が取れたような顔しとるね』


 以前のような虚ろな瞳はそこになく、立ち直ったかのようにも見える男を前に、まるで無垢なる少女のような微笑みを彼女は浮かべていた。だが……


『そうか? それより、どうしたんだ?』

『ふふっ、覚えとるんよ。うちも、ちゃんと覚えとるんよ。その証拠に、今が何回目か当てたろか? 七七一回目とちゃう?』

『えっと、そう言われてもな……いきなりなんの話だ?』

『…………え?』


 待ち受けていたのは、あまりにも残酷なすれ違いだった。




「後六回……そしてこの一回の誤差は致命的だ。それを伝えられない自分がもどかしいけど、私が此処に()る意味はきっとある。ねぇ……そうだろ?」


 それでも彼女は此処に居る。

 それでも彼女は此処で彼を待ち続ける。

 もし仮に、ここで奇跡を起こせる者がいるとするならば……

 それはきっと、すべてを観測し、すべての物語を知り得る存在だけだろう。


 故に彼女は縋った。

 此処には居ない、目視することも感じることすらできない誰かへと。

 必ず誰かが、誰でもない自分に確かな意味を与えてくれるのだと、そう信じて。

 

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