14.桜の花は涙して君を想う
――逢刻節四十八日。
微睡に誘う様な暖かな陽射し、草木を揺らす心地良い風。
審秤神サラ・テミスが住まう虹の塔の周囲に広がるアルカディアと呼ばれる森の一角に、時間の流れが緩やかだと錯覚してしまうような場所があった。
森の中でも開けた空間の中、永い歳月を生き抜いてなお、生命の息吹を強く感じさせる一本の樹を中心にアルカディアは広がっている。
心を豊かにするかの如く満開に咲き誇り、薄く色づいた花。
心安らぐ穏やかな風に吹かれ、踊るように舞う花弁。
そして、人々を見守るかのように荘厳に聳え立つその姿。
その樹の名は八重桜。別名、牡丹桜と呼ばれるものだ。
木の生い茂る森の中だというのに、広がる蒼天や陽の光の恩恵を存分に受けた地に生える芝。悠然と静かに存在する桜の色の調和は見る者を圧倒し、心を惹きつけるほどに見事なものだった。
しかし、そんな光景の中――
「飲んでるか~、ロウ坊。折角の花見なんだから飲め飲め~!」
「それとも、うちのお酒が飲まれへんの?」
「ど、どうぞ! こちらもお口に合うと思われまする!」
「ダーリン、お酒と共に私の想いを余すこと無く飲み干して下さい」
咲き誇る八重桜の下では、ある種の異空間が広がっていた。
花見というものは、開花時期の短い桜の花を愛でて花見弁当を愉しむのが一般的ではあるのだが、此処に集った面々の多くは桜の花を主題としていないようにさえ思える。
”いのち”と書かれたシャツの上に白衣を羽織った姿のコルは、一升瓶を片手にロウへと近づき、それを突き出しながら酒を勧めてきた。
彼は容姿と言動から想像し難いが、これでも救医神アスクレピオスなのである。
そのコルを押しのける形で酒を勧めてきたのは、修道服を身に纏った盲目の女性。酔っ払いにしかみえないが、彼女こそが審秤神サラ・テミスその人だ。
虹の塔の敷地内において、最強の力を有する女神である。
薄紅に染まった頬は飲酒が原因なのだろうか、それとも他に理由があるのか。幾つか肴の盛り付けられた小皿を、ロウへと控えめに差し出したのはシャオクだ。
重要性且つ危険性の高い中界での任務をこなす、月国のロディア隊隊長であり、相当の実力者である。
そして、誰もが見惚れる美貌を持ち、魅力的な体型をしている女性は両の腕を広げ、何かを期待するかのような瞳でロウを見つめていた。
時に過激な言動も多い彼女の正体は、信じ難いことではあるものの、様々な要因が重なり生み出された人工生命体、クレア・シオンだ。
同時に創美神アフロディーテの神名を有する、春を告げる美の女神である。
「あぁ、十分飲んでいるし、さっきサラに注いでもらった分も飲み終わったよ」
こんな乱痴気騒ぎの中であっても黒曜の瞳は揺らぐことを知らず、漆黒の衣を纏った男は花弁を散らす桜の様に穏やかに微笑んでいた。
「ありがとう、シャオク。後、クレアの想いならいつも感じてる」
ロウが差し出された小皿を右手で受け取り、それを下に置きながらクレアの頭を右手で撫でつけると、癒やされるように綻んでいる彼女へと僅かに離れた場所からお叱りの声が飛んできた。
「こら、クレア! あんまりアニキを困らせるなよ。もう少し離れてろ」
クレアをそう叱責しつつも、少年の表情は言葉と異なりどこか嬉しそうだ。
この場にいる誰よりも小柄で幼く見える少年だが、彼とて智導神ヘルメスの神名を有する男、ジェーノ・シェンツァ……自称天才発明家である。
「……この漬物はなかなか美味ですね」
「やはり私に合うものは無い、か」
酒の入った硝子杯を片手に、様々な肴を口に運んでいる女性は普段の彼女とはまるで別人のようだ。
蝙蝠のような羽を持つが故に心情を読まれ易い吸血鬼のクローフィ。
酒に強く辛いものを好む彼女は、今日という日を楽しんでいるようだった。
対して、空になった硝子杯を両手で持ち、気落ちした様子でクローフィの隣に座っている女性の背中は普段より小さく見える。
触り心地の良さそうな獣の耳と尻尾のある、人狼のリコス。
酒に弱く甘いものを好む彼女は、漂う酒の臭だけですでにほろ酔い気分だった。
「ロウの周りってなんていうか、その……凄い人ばかりね」
そう独りでに呟いた言葉はか細く、周囲の音に消し去られてしまった。
ロウに連れられ軽い気持ちで来たはいいが、目の前に揃っている面子に圧倒されて、彼女たち以上に桜の花の存在が意識の彼方へと追いやられてしまっている。
そんな、借りてきた猫の様にロウの傍で大人しく座っている少女の名はシンカ。
端からすれば、この面子の中でもちゃっかりロウの隣に居ること自体が凄いことであるということに、彼女自身気付いていない。
(……何を話してるのかしら)
ちらっと隣にいるロウを横目に見ると、彼は紅潮したシャオクの耳元に口を寄せ、なにやら小声で話しているようだった。
「シャオク、ここにいるのは君の事を知っている人ばかりなんだから、普段通りで大丈夫じゃないのか?」
「いえ、シンカさんがおられますのでそういう訳にはいきません」
「そうか、君がそこまで言うならいいんだが……あまり無理はしないでくれ。俺は気にしないから」
「……はい(ほっ……なんとか誤魔化せた)」
ロウとシャオクの交わした言葉は、森の木々が風に揺れる音や周囲の喧騒によって掻き消され、シンカの耳には届いていなかった。
彼女からすれば旧知の仲間が昔を懐かしみ、何気ない雑談をしているように見えただろう。
「そろそろ持ってきた酒も無くなりそうだが……ちょっとばかり遅くないか?」
「酒瓶が割れないよう、慎重に運んでくれてるんだと思うが……たぶん」
敬礼するようにコルが額に手を当てながら遠くの様子を窺うと、ロウはどこか自信なさげに答えた。
「あの三人がそないな殊勝な性格してるようには思えんけどなぁ~」
「ロウ、やっぱり私も行った方が良かったんじゃない?」
サラが困ったように眉を下げると、シンカはどこか不安げに問い掛けた。
それは遡ること少し前。軽くなった酒瓶がその数を増していき、十分な量を準備していた筈の酒のほとんどが無くなった頃の話だ。
そういった状況を鑑みたロウがコルと相談し、コルの家に置いてある酒を取りに行くことになったのだが、それまでは身を潜めていた者たちが突如姿を見せ、半ば強引に保管場所を聞き出すと、我先にと飲み物を取りに向かったのだ。
だが、向かった彼女たちが未だ戻ること無く、今に至るというわけだった。
「あれは、なかなか鬼気迫るものがあったわよね」
「ま、そこが嬢ちゃんたちの強さに繋がっているところなんだろう」
手に持っている硝子杯に酒を並々と注ぐと、コルはそれを溢さないように口をつけてそのまま一気に飲み干した。
白衣を纏い、医者であることに強いこだわりを持っているにも関わらず、このような不摂生を行うコルに、シンカは相手が神であることも忘れてじっとりと視線を向けている。
とはいえシンカの手は、つまみの皿が空けば大皿から取り分け、盃が空けば酌をし、ロウへの気配りを忘れてはいないのだが。
そんなシンカの姿を見つめつつ、上半身を傾けて四つん這いになり、こそこそと席の移動を試みたのは先程お叱りを受けたクレアだった。
「ずっと気になっていたのですが、私のダーリンと距離があまりにも近いですね。であれば、彼女と同じように私ももっとダーリンとの距離を……」
「まったく、油断も気もないな」
あまりにも自然に、それでいて大胆にロウに抱き着こうと近づいていたクレアだったが、それを見つけたジェーノに首根っこを掴まれることで呆気なく阻止されてしまった。
「小人様、今は取り込み中なので少々静かにしていたただけますか? あと、声しか聞こえませんので、姿を見せていただきたいのですか」
ひたすらにロウの事を見つめながら自己弁護をするものの、その言葉の一切は聞き入れられることなく、クレアはジェーノに引きずられていってしまった。
何もない日であれば、クレアがロウのすぐ傍にいることは問題なくとも、こういった日はクレアの自動発動の神力が存分に振る舞われてしまう。
それを避けるため、ある一定の距離以上は近づかないという条件の下、クレアはこの場に来ることを許されていた。
「ダーリン……あぁ、どうしてダーリンはそれほどに遠いのでしょうか」
「はいはい、それ以上騒ぐと二度と連れてこないから静かにするように」
「……」
この場でロウを気遣う程度の行いに消費する神力の負担は極めて小さいものの、サラが待ったをかけたということは何か理由があるのだろう。可哀想だが仕方ない。といっても、同じ場所にいられるだけでクレアにとっては幸せなのだが。
…………
……
それからも花見は続き、皆の調子も更に上がってきたところで、不意にある提案を持ち出したのは楽しそうに頬を緩めたサラだった。
「ほな満開の桜もあることやし、少し風情のあることでもやろか」
「風情、ですか」
「あまりいい予感がしないのですが」
サラの真意を読み取ることのできない閉ざされた瞳が何を見据えているのかは誰にも分からないが、絶好の玩具を前にしたかのようなサラの笑みには、ある種の不気味さすら感じられる。
僅かに表情を強張らせたシンカとシャオクを他所に、盲目の女神は周りにいる面々を見渡すような動作の後に、不敵な笑みを浮かてその口を開き宣言した。
「誰が一番えぇ俳句を詠めるか決めよか。その出来栄え次第で、ロウはんがなんかイイコトしてくれるかもしれへんしなぁ~、どや?」
その瞬間、鬼気とした真剣な表情を浮かべた者が約数名。
無言のままその双眸に闘志を燃やし、気合い十分といったところだろうか。
「おい、サラ。勝手なことをいうな」
「あはははっ、いいじゃねぇかロウ坊。今日はせっかくの花見の席、無礼講だ」
「……はぁ」
突拍子のない発言をしたサラに感化された女性陣と、突然の事態に困惑するシンカ。良い酒の肴を見つけたとばかりに口角を上げるコルと、いつもと変わらない様子で溜息を漏らしながら困ったように微笑むロウ。
そして、いつの間にか仰向けになって気を失っているジェーノと、女性陣の輪の中に溶け込んでいるクレア。
それぞれの思いが錯綜する中、最も感性の優れた者を決める戦いの幕は今上がった。
…………
……
「はい、そこまで~。ほな、誰から発表してもらおかな」
暫くの時間を置いて、各人が句を完成させたのを見計らうかのようにサラが思考時間の終了を口にすると、自信溢れる様子で挙手をして発言した者が一人。
「私からでよろしいですか? そして、申し訳ありません皆様。せっかく思案された句も詠む機会を失うこととなります」
自信たっぷりに言ったのは、万能の神力を有する女神だ。
彼女の控えめでありながら不遜な言葉に場には緊張が走り、風が吹いていないというのに森が大きく騒めき、鳥たちが激しく翼を羽ばたかせて飛び立った。
戦場で感じるものと同様の雰囲気に呑まれ、シンカは呼吸することすら忘れたように生唾を飲み込むと、クレアが言葉を紡ぎだすのに注目している。
それ以外の者たちも、緊張感に包まれながら固唾を呑んで耳を傾けていた。
「それでは――」
句の書かれた紙を手に、クレアは静かに瞼を下ろすと……
【ダーリンが 私はとても 大好きです】
思いを乗せた渾身の句を披露した。
「……」
瞬間、この場に広がったのは溜息の音と安堵感だった。
そして、頭に浮かんだ単純な感想を、自信と満足感と高揚感に一人で浸っている微笑ましいクレアに伝えるか否かを誰もが思案する中、審査員による非情な言葉が躊躇なく発せられる。
「零点、論外やね。次はどちらさんが詠んでくれんの~?」
正にそれは女神の審判だった。
サラの評価と共にクレアの周囲の地面が隆起し、反応する間もなくクレアはその身を拘束された後、コルに口布をつけられてしまっている。
首から下を土で覆われているその姿は、季節外れではあるがまるで雪だるまのようだった。
「……ツキノたちのことを思い出したわ」
「奇遇だな、俺も同じことを考えていた」
偶然にも懐かしい雪上での出来事を思い出しながら、ロウとシンカは顔を見合わせて苦笑いを浮かべている。
そんな二人の様子を気にすることなくサラは次なる発表者の選定を始めており、何かを感じ取った彼女は悪戯な笑みを浮かべながら、そわそわと視線を彷徨わせている者の名を呼んだ。
「ほな、次はシャオク」
「えっ!? いや、それは…………はい、了解しました」
しどろもどろなシャオクは向けられた無言の圧力に敗北し、腹を括りつつ一度大きく深呼吸。自らの渾身一句を、皆が注目する中で詠みあげた。
【花開き 見に来てよかった 桜かな】
クレアの俳句とは異なり、それらしく聞こえはするものの、女神の審判はかくも厳しいものだった。
「ん~……三十点。幼子みたいに一生懸命で可愛らしい句やねぇ」
確かにシャオクの句は、一生懸命さとどこか優しい気持ちになれるものではあったのだが、成人した一人の戦士が詠むにはどこか拙く感じてしまう。
赤面を隠すように項垂れるシャオクの評価を聞き、羽を忙しく動かす者と尻尾を忙しなく揺らす者の二人は、自らの勝利を内心で確信していた。そして……
「「次は私ですね」」
示し合わせた訳では無いのに、同時に名乗りを上げたのはクローフィとリコス。
普段は互いに信頼し合い、見事な連携をみせる彼女たちではあるが、今回ばかりは全力でぶつかり合う強敵として互いに認識している。
「ふふっ、さすがクロリコはんやねぇ。息もぴったりみたいやし、二人同時に発表してもらってもえぇんよ?」
「サ、サラ様。それだと、ちゃんと聞き取れないんじゃないですか?」
冗談めかして句の披露を二人に求めるサラに対し、シンカは最もな意見をしてみるものの、その返答はサラからではなく別の者たちから届くこととなる。
「そこまで言うのであれば……」
「いいでしょう」
そう言ったのは、クロリコと呼ばれた阿吽の好敵手だった。
ここにはいないメリュジーナを始め、二人に近しい者たちは事ある毎にクローフィとリコスを纏めて”クロリコ”と呼んでくる。
それに不満を持っていた二人は、これが絶好の機会だと捉えたようだ。
「「私たちが個人として独立した存在である事をこの場で証明してみせます」」
全くもって説得力の感じられない力の入った言葉に、コルは飲んでいた酒を吹き出して笑い、サラは声を上げるのを堪えてはいるが体を小刻みに震わせている。
そんな、威厳の欠片もまるで感じられない神々の姿を気にすることなく、クローフィとリコスは自らの人生に於ける最高の一句を披露した。
【風に揺れ 空に昇るは 桜色】
【風に揺れ 空に昇るは 桜色】
その瞬間、この場の空気がしんと静まりかえった。
もう誰も言葉を発することなく、彼女たちを温かい眼差しで見つめている。
先程まで非情なる審判を下していたサラですら、何も言う事は無いと微笑むばかりで口を開こうとしない。すると……
「「こうなったら自棄酒しかありません! 残っているお酒はどこに!」」
そう言って、普段の彼女たちらしからぬ思考と行動力を発揮すると、自暴自棄になったクロリコは揃って端の方へと歩いて行った。
クローフィは幾ら飲んでも酔わない所謂ザルであり、リコスは一杯飲めば潰れてしまうほどの下戸だというのに、自棄酒もなにもないだろうが。
そしてそこには、いつの間にか拘束から抜け出したクレアも混じっており、羞恥から立ち直ったシャオクですら残った酒を掻き集め、自棄酒に付き合おうとしていた。
「はぁ……いつまで経っても子供やねぇ」
溜息を吐きながらも嬉しそうに眉尻を下げ、サラはこの後起こり得るであろう事態に備えるように、何処からともなく長座椅子と薄手の毛布を取り出すと、それらを宙に浮かせながら簡易的な休息所を作り始めている。
「シンカ、少し頼みたいことがあるんだが」
「いいわよ。向こうをなんていうか……なんとかしてくればいいのよね?」
ロウを言わんとすることをこれまでの彼の行動と性格、そして自身の無意識の何かによって推測したシンカは、ロウへと言葉を返しながら立ち上がった。
そんな彼女の姿に驚きはあったものの、その頼れる姿に得も言われぬ安心感が胸に広がり、ロウは微笑みを向けながら後の事を託して送り出す。
「あぁ、すまないがよろしく頼む」
「任せて。あの子たちの方がもっと手がかかるもの」
屋敷でお留守番中の世話の焼ける少女たちの姿を思い浮かべ、シンカはロウの傍から離れると、世話の焼ける大人たちのいる場所へと向かって行った。
そして、その場に残されていたのは披露する機会を失った一枚の紙。
【想い秘め 七宝に咲く 桜花なり】
その句に込められた意味を理解し、温かい気持ちになったロウが思わず頬を緩めていると、一人の男がロウの隣へと腰を下ろした。
「あの嬢ちゃん、本当にいい娘じゃねぇか、ロウ坊」
「そうだな。そんなことより、他に話すことでもあるんじゃないか?
「まったく、花見の時くらい気を緩めてもいいだろうに」
向けられたロウの追及を気にすることなく、自らの矜持の籠った白衣を羽織っている男は、手にしていた硝子杯の中の液体を胃の中へと流し込んだ。
「……これは酔っ払いの戯言だ。聞き流しちまっても構わん」
「……あぁ」
直前に敢えて酒を煽り、自らを酔っ払いと称しておきながらも、その表情は様々な感情を無理矢理押しと留めているように見えた。
救医神と呼ばれ、その神力によって一命を取り留めた者がいる反面、この世界のどこかでは今この瞬間も多くの命が失われている。
そういったことを、コルはロウを見て無意識に思い出してしまうのだ。
そして何より雨の日の光景と、此処にはいない少女の姿を。
コルは煙水晶のような双眸でロウを見つめると、視線を外して遠い何かを見つめるように、ゆっくりと口を開いた。
「人生ってやつには三つの坂、そして三つの袋がある」
それは短く、憶えるのも容易いほどの内容だった。
ロウもこれに似たものを知っている。
「一つ目は上り坂、調子がいい時だな。袋の方は胃袋、健康管理が大切ってやつだ」
しかし、意識しなければすぐに記憶から消えてしまうほどの言葉だ。
「二つ目は下り坂、どうにもならねぇ時だ。袋の方は堪忍袋、少し我慢して互いを思いやるってことだな」
彼が何故、今のこの場この瞬間に、そのようなことを語りだしたのか。
「三つ目はまさか、だ。袋の方は……いうまでもねぇな。っと、残った酒は嬢ちゃんたちが持ってったから切れてるんだった」
言い終えると、コルは空瓶を置きながら立ち上がり、振り返ることなく自身の屋敷の方へと歩き始めた。
その白衣の背中は一点の汚れも無いはずなのに、どこか白さが翳っている様に見えたのはロウの気のせいではないのだろう。
「……コル、貴方は俺にとって最高の医師だよ」
彼に手によって救われた尊い命を想いながら呟いたロウの言葉は、桜の花びらに包まれて彼の耳に届くこと無く溶けて消えた。
(お袋……親孝行、か)
コルの言いたいことはわかる。伝えたかったその想いも。
だが、それでも自分の宿命が変えられぬものだというのなら、せめて――
そして、ロウは愛する母から視線を移し、桜の木を見上げながら……
【咎の果て 朧に霞め 桜紋】
心の中に秘めた想いを、誰に聞かせるでもなく詠むのだった。
人の夢は儚いものだ、と誰かが言った。
それは、儚いという言葉の成り立ちから来たものだろう。
花は桜木、人は武士、と誰かが言った。
花では桜の花が最も美しく、命短くとも美しく咲いて散る桜のように、死に際は潔く美しい者こそが優れていると謳ったものだ。
咲いてこそ美しい花もあれば、散り際こそが美しい花もある。
叶ってこそ美しい夢もあれば、叶わぬから美しいままでいられる夢もある。
花はいつか散るもので、夢もいつかは覚めるもの。
儚いからこそ、人は其処に何かを感じるのかもしれない。
だが、人の死は本当にそうなのだろうか。
確かに人の命も儚く、いつかは散り逝くものだろう。
ならば、華々しく散ることができれば……たとえばそう、誰かを守り、誰かを救い、誰かの為に何かを無し、誇らしく堂々と、未練無く逝くことができたなら、本当にそれを美しいものだと感じることができるのだろうか。
いや……少なくともできはなしない。
残された、その者を愛していた者たちだけは。
咲いてこそ美しい花もあれば、散り際こそが美しい花もある。
叶ってこそ美しい夢もあれば、叶わぬから美しいままでいられる夢もある。
だが――
生きてこそ美しい命はあれど、死んでこそ美しい命など悲しいだけだ。
華々しくなくてもいい。潔くなくてもいい。
醜くても、無様でも、泥臭くても、美しくなくとも、なんだってかまわない。
この世の誰かは、その者を忘れぬ誰かだけは……
その者に生きて欲しいと……きっと、そう願っていた。
…………
……
陽向の温かさや明るさは、日陰の冷たさや暗さを知っているからこそ、本当の意味でその有難さを感じることができるのだ。
失って始めて、そのありがたみに気付くことができるという言葉ように、当たり前にあるもののありがたさを本当の意味で知ることはない。
ならば、陽向を知らずに日陰で生きてきたものは……
陽向の優しさをどうやって知ればいいのだろうか……
――否、知る必要などない。
『私がアナタを、アナタが私を感じてくれればそれでいい。それ以外はいらない』
故に、何もかもが散ればいいと混沌は詠う……
【花の雨 散らし揺蕩う 徒桜】
夢、希望、願い、祈り、そして……命でさえも無情に儚く散り逝けと――
――――桜無き地にて、彼女はただ希う