12.嘘の嘘は真の言の葉
――煌照節四十五日
鮮やかな青色の大空に浮かぶ日輪が、大地に燦々と温もりを届けている穏やかで晴れ晴れとした日であるにも関わらず、突如としてユーフィリア家の屋敷に突撃してきたのは撫子色の小さな台風だった。
「本日、オトネは結婚します!」
あまりにも突然すぎるオトネの発言にその場にいた者たちの思考は停止し、幾人かの体は氷漬けになったかのように固まっている。
つい先程までは、久しぶりに任務などの予定が無い屋敷の者たちが、束の間の自由と癒しに普段張り詰めている神経の弦を弛めていたのだ。
ある者は出荷数が希少な茶葉で淹れた紅茶の甘い香りに頬を緩ませ、またある者たちは硝子越しに伝わる陽の光の恩恵を受けながら微睡みに包まれていた。
そんなほのぼのとした日常に投下されたのが、オトネの発した今の言葉だ。
「オオオ、オ、オトネさん! 相手は兄さんじゃないですよね!?」
「ツキノ、それは絶対にあり得ないかな」
「さ、寒いっす……シラユキの隣はすごく寒いっす」
真っ先に食いついたツキノ、シラユキ、モミジの三人だが、それぞれに反応は違えど冷静でないという点においては同じのようだ。
ツキノは何かに縋るような瞳でロウとオトネの顔を何度も見つめ、シラユキは口調こそ冷静だが、手に持っていた紅茶杯は凍てつき体からは冷気が漏れている。そして、隣に座っていたモミジはその冷気に身を震わせていた。
「むっふっふ~」
オトネがどこか意味深な眼差しをロウに向け、彼の腕を取ると……
「ち、ちょっとオトネ、どういうこと?」
「ロウは何か知ってるの?」
すぐさまそれ以外の面々も我に返り、それぞれオトネの発言に対して反応をみせるが、ただ混乱が広がるだけであった。
まるで覚えのないロウは当然否定の言葉を発したのだが、逃げ回るオトネを追うツキノたちの喧騒に遮られ、ロウの発した声は最早彼女たちに届いていない。
広間での騒がしい声が屋敷に広がっていく中で屋敷の管理者たるブリジットが黙っているはずもなく、無言のまま台所からゆっくりと歩いてきている。
その姿は噴火直前の火山、暗い色をした雷雲のようだった。すると……
「オトネ! そんな嘘を吐く暇があるなら先に仕事を終わらせてください!」
魔女の制裁より先に広間に飛び込んできたのは、ルナリス隊の常識人である男、アフティだ。
「見つかっちゃったかぁ~。それじゃ、無事に嘘も吐けたから私は帰るね! バイバ~イ」
特に悪びれた様子も無く、オトネは呼吸を整えているアフティから距離を取りつつ広間から抜け出し、逃げるように屋敷の外へと駆けて行った。
アフティの中に初めから彼女の身柄を押さえる気がなかったのか、それとも本当にオトネを確保するだけの余裕がなかったのは定かではない。
「せ、折角の休日にすいません……はぁ、はぁ……オトネもこれで満足してくれるといいんですけど」
なんとか息を整えたアフティは、未だ混乱と不思議な挙動をしている屋敷の者たちに向けて深く頭を下げながら謝罪の言葉を口にした。
そして、アフティもオトネを追うように屋敷から出て行くと、広間には再び静けさが広がった……はずだったのだが――
「いったい、今のはなんだったの?」
シンカが皆の胸中を代弁した一言を呟くと、思わぬ人物がその答えを返して来たのだ。
「なんだよ、知らねぇのか? 今日はエイプリルフール、嘘を吐いてもいい日なんだぜ?」
いつの間にか椅子に座り、勝手に長机の上にあった芋の揚げ菓子を摘まんでいたのは、人型収納石ことルナリス隊の現隊長であるスキアだった。
無邪気な少年のような表情を見せる彼は撫子台風に紛れて屋敷にこっそり上がり込み、アフティの行動を予測して今までずっと隠れていたのだ。
そうして、上手く彼を出し抜いたことで溜まった仕事から解放されたスキアは、こうして呑気にくつろいでいるというわけだった。
「そういえば内界にいた頃、その日はセリスたちが楽しそうに嘘を吐いていたな。最後はリアンとエヴァに叱られていたが」
「ふふっ、セリスらしいわね。……嘘を吐いていい日、か」
懐かしい情景を思い出したロウが微笑みながら当時の事をシンカに語ると、彼女は苦笑しながらここにはいない仲間のことを思い浮かべた。
そして、すっかり今日という日を忘れていた三人にもスキアの声は届いていたようで……
「っ、私としたことが迂闊でした……二人とも作戦会議です!」
「了解っす」
「ここは、とっておきのを考えるべきかな」
ツキノ、モミジ、シラユキが広間の隅で何やらこそこそと話し始めた。
そんな姿を見せてしまっては、その内容がロウたちに聞えてはいなくとも、嘘が嘘の意味を成さくなると気付いていないのだろうか。
周りからすれば、とても微笑ましい光景ではあるのだが。
そんな穏やかな休日のひと時が再び訪れようとしていると、先程とは様子の異なる人物の怒号が広間に響き渡った。
「おいスキアッ、いつまで遊んでやがる! 仕事が終わらなかったら徹夜だからなッ!」
普段とは真逆の荒々しい声を上げながら姿を見せたのは、怒りのあまり素に戻っている……つまりはロウと出会う前のアフティだった。
「げっ」
「今日という今日は許さねぇ」
こうまでなるアフティは珍しく、こうなる境界を熟知していたはずのスキアだが、今回はそれを見誤ってしまったらしい。
そうしてスキアは無駄な抵抗をする事なく、引き留めて欲しそうな眼差しをロウに向けながらも、アフティに半ば引きずられるように屋敷を去っていた。
「いつもの事だけど、人の家をなんだと思ってるんだいアイツらは。まったく」
台風が過ぎ去り、すっかり毒気の抜かれたブリジットの呆れた声を聞いたシンカは、ふとあることに気付き彼女に問いかけた。
「ブリジット、珍しくシエルが大人しいみたいなんだけど……どうかしたの?」
そう、騒がしいといえば十二分に騒がしかったのだが、何かが足りないような気がしていた原因はそれだった。
こういったとき、まっさきに自身の存在を前面に押し出してくるシエルが朝からずっと大人しいのだ。それはもう不自然なくらいに。
「あぁ、それかい。くくっ、聞いておくれよ」
そんなシンカの疑問に、ブリジットは可笑しそうに頬を緩めながら朝の出来事を語り出した。
…………
ブリジットが朝食の準備をしていると、珍しく自力で起きることのできたシエルが、どこか神妙な面持ちでブリジットの傍へと寄って来たのだ。
最初はてっきり、お腹を空かせて目を覚ましたシエルがつまみ食いを目論んでいるとブリジットは思っていたのだが、シエルの口から出てきた言葉は……
”今日は嘘を吐いても許される素敵な日ですね”
残念な子らしいなんとも残念な言葉だった。
嘘を吐く前に今から嘘を吐きますと素直に宣言する駄天使。
きっと、これまでブリジットにたくさん叱られてきたシエルは、彼女なりに何かブリジットを驚かせるような仕返しを考えていたのだろう。
だが、シエルがこの屋敷の母に勝てるはずもなく、魔女であるブリジットはなんとも魔女らしい言葉を返したのだった。
…………
「だから、嘘を吐かずに今日一日いい子でいられたら、晩御飯はアンタの好きな物ばかりにしてあげるって言ってやったんだよ」
「はぁ……それを信じちゃったのね。シエルの将来が心配になってきたわ」
「ほんと、相変わらずいい性格してるわね」
窓辺でフォルティスとロザリーと一緒に微睡んでいるシエルにシンカは同情の眼差しを向け、リンは呆れたような声を出しながらも悪戯に微笑んだ。
そしてロウは広間の平穏な日常を優しげな表情で見渡すと、最後にブリジットを見ながら苦笑した。
「今回に限って言えば、最後に困るのはブリジットだと思うけどな」
「ん、どういう意味だい?」
「すぐにわかるさ」
「まぁアタシはもう満足したし、別になんだって構わないけどね」
三者三様の反応にブリジットは満足げな笑みを浮かべると、昼食の支度をするために台所へと姿を消していった。
それを見計らってロウたちの前に緊張した面持ちで現れたのは、先程までこそこそと部屋の隅で作戦会議をしていたツキノたち三人だ。
きっと、今から必死に考え抜いた渾身の嘘を吐こうとしているのだろうと、ロウたちはそう思っていたのだが……
「怯えることはないかな」
「先陣は任せたっすよ」
「に、兄さん!」
やや後方に控えるシラユキとモミジに声援送られ、彼女たちの掌によって背中を押されたツキノは、意を決したようにロウを見据えながら一文字に閉ざしていた唇を開いた。
その三人の姿に只ならぬ気迫を感じたロウとシンカは一瞬顔を見合わせて体ごと向き直るが、何かを察したリンは溜息を小さく吐きながら茶器一式を手に台所へ歩いて行った。
「兄さん。私は兄さんのことが、き……」
「俺のことが?」
言葉にすれば短く、日常においても何気なく使っている者も多いのだが、
「だ、だだだ……だい……き、きき、きら、きら……」
彼女にとってその言葉を発するのは、涙を浮かべてしまうほどの意味を持つ。
「ち、ちょっとツキノ、いったいどうしたの?」
小さく身を震わせながら目尻に涙の粒を浮かべたツキノを見て、ロウとシンカは彼女の身にいったい何があったのかわからず戸惑った。
てっきり嘘を吐くつもりだと思っていたのだが、瞳を潤わせながらに震える彼女の姿はとても演技だとは思えない。
心配になったロウはどこか悲しげな表情を浮かべ、
「ツキノ、俺たちは家族だ。何か辛いことがあったならちゃんと言ってくれ」
とても優しい声で言葉をかけた。
「――っ!?」
大切な家族を心から気遣うロウの温かい想いに、ツキノの瞳に溜まっていた涙が零れそうになる。先程まで聞こえていた台所の水音もいつの間にか止まっており、時折吹く風に庭木が揺れる音だけが微かに部屋に届くだけだ。
時間がゆっくりと流れていくような錯覚を受ける中……
「やっぱりエイプリルフールとはいえ、こんな最低な言葉を兄さんに言えるはずないじゃないですかぁーっ!」
突然、何かを堪えきれずにロウの瞳を直視できなくなったツキノが、悲鳴にも似た声を上げながら踵を返し、魔憑としての身体能力を遺憾なく発揮して広間を飛び出してしまった。
「ツキノ!?」
「ま、待つっすよ!」
彼女の後をシラユキとモミジが慌てた様子で追いかけていくと、嵐が通り過ぎた後のような静かな空間で、ロウとシンカは互いに顔を見合わせ首を傾げた。
そして、同時に発せられた言葉は示し合わせたわけでもないのに同じもので……
「シンカの周りは賑やかだな」
「ロウの周りって賑やかよね」
二人の間に訪れる僅かな沈黙。
先程まで静かだった台所から聞こえてくる小気味良い規則的な音や、広間に置かれている時計の針の止まることのない音が鼓膜に届くが、それ以上にシンカは自らの鼓動を体で感じていた。
そんな中、調理の始まった音に反応したフォルティスの耳が何度かぴくぴく動くと、乗っている二つの頭を勢いよく落としてしまわないようおもむろに起き上がり、前足を器用に使ってロザリーのシエルの体を揺らしながら声をかける。
「ロザリー、シエル。そろそろ時間だ、早く起きろ」
「ん……要望。フォル君の背中……乗せてって」
「わたくしは……起きて、ます……起き……」
目覚める意思がありながらも起き上がることをしない二人。
彼女たちが寝言のようなゆったりとした口調で返答すると、いつの間にか枕代わりにされていたフォルティスは何かを思いついたような表情を浮かべ、目覚まし代わりの一言を呟く。
「ブリジットに言いつけて、お仕置きにその翼をむしり取ってもらうか」
「残酷!」
「人でなしッ!」」
その一言は寝ぼけていた彼女たちの意識を完全に覚醒させるには十分すぎるもので、二人は勢いよく飛び起きながら慌ててフォルティスから距離を置いた。
誰でもわかる嘘とも呼べない嘘に対し、夢現だった二人の大袈裟な反応に思わずフォルティスは溜息をもらすも、当初の目的は達成されたので一先ずよしとする。
「エイプリルフールの嘘が本当にならないように早く行くぞ」
「憤慨。フォル君の馬鹿」
「大きい犬ッ!」
まんまとフォルティスに一杯食わされた二人は、自らの翼を気にしながら揃って台所へ。今や当たり前の光景ではあるが、ブリジットの手伝いを一生懸命に行う彼らの姿は、ロウとシンカにとって微笑ましくあり嬉しく思えるものだった。
二人の間に訪れていた沈黙はすでになく、頂上を目指す背の高い針の音や二階から聞こえる賑やかな声、この屋敷に広がる暖かな匂いが二人を包み込んでいる。
すでに熱を失っていた黒い液体をロウは飲み干すと、ほっと小さく息を吐きながら、何気なく隣に座るシンカの横顔を見つめた。
「どうかしたの? それとも、私の顔に何かついてる?」
ロウの視線に気付いたシンカが、自分の口許の端を指先で触れながら問い掛けると、
「なんでもない。ただ、見つめたくなっただけだ」
「な、何よ突然……あ、あまりみないで……その……恥ずかしいから」
ロウの心を揺らす言葉に動揺したシンカは、手櫛で前髪を梳かしながら全身の温度が急速に上がったのを感じていたが、驚声を上げる手前でなんとか自分を抑え言葉を返すことができた。
今まで何度もロウのさり気ない言葉に動揺し、恥ずかしい思いをしてきたものだから、おそらく慣れてきたからだろう。
しかし、ロウにこういった言葉をかけられること自体に慣れることは無く、嬉しく思う気持ちはその都度生まれるのだろうと彼女は感じていた。
「そうだな、すまない。今度は気付かれないようにする」
「そ、そういう意味じゃないのに……」
消え入りそうな声で呟いたシンカは、耐えきれなくなってきた気恥ずかしさを誤魔化すように、無理矢理話を別の方向へと持って行こう試みる。
「そ、そういえば! さっきの私の周りが賑やかってどういうことなの? オトネもツキノたちも、貴方の方が付き合いが長いじゃない」
「確かにそうだが、オトネもよくここに来るようになったし、今二階にいるみんなも明るくなった。これはシンカ……君と出会ってからなんだ」
「え、そうなの?」
「そうだ。それとも俺の言葉は信じれないか?」
照れ隠しのつもりで話題を変えたはずが、ロウから語られたのはシンカを取り囲む者たちの変化だった。そして、放たれた駄目押しの一言。
シンカはこのとき、今日というこんな日でもロウは変わらないのだと改めて思うと同時に、昨晩教えてもらったちょっとした話を思い出していた。
万愚節、それは嘘を吐いても良い日である煌照節四十五日のことだ。
その起源や発祥については多くの説があらゆる地域で語られているが、いずれも確証のないもので仮説の域を出ず、それらについての一切が不明な日。
内界にある仮説のうちの一つが、とある地域の国王が元々存在していた暦を変更し、春にあった新年を一月一日にしたことに由来するものである。
急な暦の変更に反発した人々がその行為を揶揄して元々の新年、四月一日を”嘘の新年”と称し、町中の至る所で宴を開いては馬鹿騒ぎを始めたのだ。
しかし、そのことを快く思わなかった国王はそんな馬鹿騒ぎをしていた人々を捕えて次々に処刑してしまう。その中には成人すらしていない少女も含まれていた。
人々はこの出来事を国王に抗議すると共にこの悲しい事件を忘れない為に、翌年からも”嘘の新年”を盛大に祝うようになっていった。
内界ではこれが四月一日の始まりだと言われているが、この話には続きがある。
処刑された少女の年齢毎に”嘘の嘘の新年”というものを祝い、その日は一日を通してまったく嘘をついてはいけないという風習も生まれたのだが、それは次第に人々の記憶からは消えていき、今の形だけが残った……というものだ。
しかし外界にある説は、それとはまったく異なっている。
その日、とある幼い少女が吐いた嘘で、その少女は命を落としてしまった。
だがその少女の吐いた嘘は決して悪意あるものではなく、誰かを思うが故の温かい嘘だったのだそうだ。
嘘を吐いたことで死んでしまった事は、嘘を吐いてはいけないという教訓ではあるのだが、誰かを思う少女の気持ちを蔑ろにする事ができるはずもない。
だから外界では、日の出から正午までに嘘を吐き、午後はきちんと嘘だったことを明かすことまでを含めて風習として残っている。
そして、この話にも内界同様続きはある。
曰く、死んだはずの少女の死、そのものが嘘であったということだ。
だが結局のところ、嘘から出た実という言葉があるように、死んだはずの少女が実は生きていたのだが、その後死んでしまったという話もある。
嘘の嘘は真なれど、どれが嘘かもわかれねば真も当然わかるまい。
万愚節というこの日も結局のところ、何が嘘で何が真実なのか、誰の言葉が嘘で誰の言葉が真実なのか、積み重なった嘘と隠された真実が幾重にも折り重なることで、その起源を辿ることすら困難になってしまったのだろう。
嘘を隠すなら真の中に……まさにそれは、この世界の秘密と同じだ。
そういった話を踏まえてロウのことを考えてみると、ロウにとってはこの毎日が人々の記憶から消え失せてしまった”嘘の嘘の新年”の様ではないかと思ってしまい、シンカは胸の中に悲しい気持ちが込み上げてくるのを感じながらも、それと同時に彼の強さも感じていた。
降魔という異形の存在するこの世界は常に何処かが戦場となっており、尊い命が容易く失われている。気の遠くなるような永い時の中、奪った命や護れなかった命、そういった別れをロウは何度も経験してきたはずなのだ。
しかし、その亡き者たちの事を思いながらも自分や他者を偽ることをせずに生き抜くことがどれほど過酷な事なのかを、運命の枝からの日々を経験したシンカにもその一端くらいは想像できた。
ロウを……今までそう生きてきたロウの事を信じれない理由などシンカには無く、逆に彼を信じる理由を一つずつ挙げていけば、背の低い時計の針が一周した所では足りないだろう。
故にシンカが紡ぐ言葉は信頼の証であり、真実の言葉であった。
「信じるに決まってるじゃない。それに、私がみんなの変化の理由だとしたら、その私を変えてくれたのは貴方なのよ、ロウ」
「そうか、ありがとう……シンカ」
出会ってから共に過ごした時間は他の皆より遙かに短くとも、二人の間に流れる空気はそれ以上の時間を経て生まれたもののように感じられるものだった。
少なくとも、それを目撃してしまった者にとっては……
「シンカもなかなか言うじゃない」
「リ、リン!? あっ、う……いつからそこにいたの?」
「そんなに慌てなくてもいいじゃない。心配しなくても誰にも言わないわよ」
不意に背後から掛けられた声に驚き、長椅子からずり落ちそうになったシンカの動揺は、先程よりも遥かに凄まじいものだった。
その後に続けられたリンの言葉によって多少は落ち着きを取り戻せたものの、一度上昇した熱はしばらく下がりそうにない。
「ふふっ、さっきのシンカの優しい顔、とても可愛かったわよ。それじゃ、私はあの子たちを呼んでくるから」
「え、えぇ……お願いね」
もうすぐ昼食の時間ということで、リンが二階にいる彼女たちを呼びに向かうと、ロウは時計の針の位置を確認した。
台所から漂ってくる匂いから昼食の献立が想像でき、お腹の虫が急かしてくるのを感じながら、もうしばらくの辛抱だと言って聞かせる。そして……
「さっきの話だが、シンカ……君を変えたのはシンカ自身の力でもあるんだ。人は少しでも変わろうという意思を自分で持たない限り、他人が何をしても変わることは無い。結局、最後に選ぶのは自分自身なんだから」
「……自分自身」
「今ブリジットの手伝いをしているフォルティスたちだってそうだ。あの子たちも頼ってばかりじゃなく、自らの意思で動いてくれているだろう? もう少し甘えてほしい複雑な気分だけどな」
「ふふ、なによそれ」
真剣な眼差しで語りだしたかと思えば、父親としての想いも漏らす子煩悩な男の姿に、シンカは思わず頬が緩むのを感じていた。
鼓動もいつの間にか、秒針と変わらない早さに戻っている。
「そこでだ。君はこれからどう生きていきたい?」
「そんなの、今までと変わらないわよ。でも、信念を変えたくないだけで、歩く道は最善と最良を選んでいきたいわ」
いつしかシンカの表情は戦場でも見せる不敵な表情に変わり、はっきりと答えたその声にも活力が籠っていた。
そして、好奇心と興味が何処からか湧き上がってきたシンカが同じ質問をロウへと問いかけると――
「貴方はどうなの?」
それと同時に鳴り響く時計の音。
二本の針が寄り添いながら同じ場所に留まり、秒針だけが忙しなく動いている。
聞き慣れた低い音が今の瞬間を知らせる中、別段耳障りではないそれを気にすることなく、ロウは淀みない言葉を紡いだ。
「俺も今までと変わらない。君を悲しませることなく、ずっと一緒にいる」
「……うん」
耳を澄ませていないと聞き漏らしてしまいそうな声ではあったが、シンカは確かにロウの想いを聞き届けた。
時を知らせる音とその余韻が過ぎ去り、広間に何度目かの静寂が広がる。
何処か満足気な表情のシンカと暖かな眼差しを向けるロウが見つめ合っていると、広間に近づいてくる幾つかの騒がしい足音が聞こえてきた。
暫くすればこの広間を賑やかな声が満たし、優しさと温かさが広がるのだろうと思いながら、二人は背の低い針を置いて一歩進んだ長針の音を聞くのであった。
…………
……
――そうして、今日という一日も後少しとなった頃。
「ブヂジッド……ばだぐじは、いいごではながっだでず、が?」
今朝のブリジットの言葉を疑うことなく信じ、騒ぐことなく、懸命に彼女の手伝いを珍しく大きな失敗もなく夕陽が空を染めるまでやり遂げたシエル。
そんな天使に魔女が、今日という日であるが故の嘘だったことを告げると、シエルは瞳から大粒の雫を零した。
それでも彼女は大声で泣き喚くことなく今も尚、良い子であろうと最後の一線で踏み留まっている。
「まったく、嘘なんて吐くもんじゃないね」
煌照節四十五日とはいえ、シエルの純粋な姿を見てしまうとブリジットとしても放って置ける訳もなく、日中に言っていた父親の言葉の意味を漸く理解しながら、ブリジットは自分に呆れるように溜息を吐いた。
しかし、今からでは彼女の好物を作ることもできないため、翌日の夕飯はシエルの好物を作る事と甘味をつける事を約束し、事態は収束したのだった。
万愚節……嘘を吐いても良いとされる、一風変わった日。
だが、嘘というものはできれば吐かない方が良いのだろう。
優しい嘘、温かな嘘、思い遣りの嘘、守る為の嘘、楽しい嘘……
そういった嘘があるのも確かな事実だ。
そんな嘘が誰かの心を救うこともある。
嘘も相手に気付かれることなく貫き通せば、相手にとっては真実だ。
墓場までもっていく覚悟があれば、優しい嘘は薬にも魔法にもなる。
だが貫く事ができないのなら、やはり嘘は吐かない方が良いのだろう。
何故なら、そう……この世には……
――悲しい嘘や残酷な嘘も、確かに存在しているのだから。
そして貫く覚悟があったとしても、知られる日が来るかもしれないのだから。
……………
……
―――人々の温もりが尊い。
―――仲間や家族、それ以外の多くの人が幸せであって欲しい。
―――貴女の姿を見ているだけで心が満たされる。
そんなの嘘に決まってるじゃない
限られた世界の中で生きていく。
……それがどれほど苦しいものか。
止まった時間の中で生きていく。
……それがどれほど辛いものか。
故に、今日という日に願う言葉は一つだけ。
運命よ、早くその世界を――救って。