10.頑張れ男よホワイトデー
――冥国オスクロイア神都エレボス
白銀に染まった世界に暮らす者たちの一部は浮足立った様子で、多くの者はいつもと変わらぬ日常を過ごしていた。
「結局、泥臭く足掻いたところで何も変わらない。変えることなんてできないんだ」
ある紳士たちは世界の真理を垣間見たように嘆き……
「あのとき、本当は足を踏み出すのが怖かった。でも、それで私は新しい世界にくることができたの」
ある淑女たちは踏み出した先の世界の美しさに気付き……
平静を装い、狂犬の如く咆哮しないように。
宿敵を視界に捉えたまま、離反者への制裁を忘れずに。
本能を理性で抑え、戦いの合図が鳴るのを待ち侘び。
己の持ちうる力の全てを、同胞たちと共に解き放つ。
凍てついた世界に存在する悲嘆の雰囲気は今日、この日の存在に気付いたことによってより色濃くなっていた。
そして幾つもの存在が、其々の慟哭と共に自暴自棄と言って過言ではない宴が、その幕を上げようとしていた。
…………
……
「――それで、ホワイトデーのプレゼントに抜かりはねぇな!?」
薄いマゼンダ色の髪を掻き上げながら軽薄そうな男、アドレスは周囲に集まった彼を慕う男共に対して声を張り上げた。
その部屋の扉には入室禁止と殴り書きしている紙が貼られていたが、普段ではあまり聞くことのない彼の大きすぎる声に最早意味を失っている。
「「「女子ウケのいい物を用意しるっすよ、隊長!」」」
返ってきた高揚感が溢れる声は更に大きいもので、部屋の外どころか通路の端まで届きそうである。
この一月もの間、先の聖戦にて何かしらの戦利品を得た彼らは調査を重ねに重ね、重ねすぎなほどに重ねていた。
それは――
”貰えたのが本命じゃなく義理でも感謝の心を忘れるな。今日という日は特に、女性には誠心誠意優しくしろ。それが紳士ってもんだ”
との、隊長命令《アドレスの言葉》があったからに他ならない。
そして、討滅せし者が率いる魔憑部隊の戦場においては猛者たる彼らとて、あわよくば本命になりたいと考えてしまう男という生き物なのである。
「よぉし! てめぇら、出陣だぁぁぁっ!」
「「「うおおぉぉぉぉぉぉっ!」」」
戦地へと赴く以上に士気が高まった彼らは、慌ただしい足音を響かせながら淑女たちの許へと向かって行った。
そして暑苦しいまでの熱が残る中、先程までの溌溂とした様子はなく、アドレスは手に持っていた紙袋の中にある紙箱に寂し気な視線を落とす。
軽薄、軟派、不真面目といった印象を受ける彼ではあるが、部下からの信頼は厚く、二枚目でもあるので女性からの評判も良い……要はすごモテる。
それでもアドレスに恋仲となる相手はおらず、告白をしてくる女性すらいないのだ。
「……さて、そろそろ行くか」
それらの真相について、彼は今まで誰にも何一つ語らずにきたし、これからも語ることはないのだろう。
アドレスは重い足をなんとか動かし、強張った表情のまま紳士としての行動を開始した。
…………
……
「そ・れ・で、隊長はアドレス様との待ち合わせにいってるわけかぁ~」
「何度も鏡見てたし今回はぜ~ったい、なにかあるって!」
「あのお二人の場合、そう上手くいかないのが困ったところですが」
「私も同意見ですね。お姉様はツンデレ過ぎますから」
「「たしかに」」
暖かな部屋で温かい紅茶を飲みながら、遠くに聞こえる騒がしい雄叫びにもにた何かを気にすることなく、穏やかに時を過ごしている軍服を纏った者たち。
しかし、騒がしい音は徐々に大きくはっきりと聞こえるようになってきた。
「あっ、お迎えがきたみたいよ~?」
「そ、そんなんじゃないって! 普通にご飯食べに行ったり、普通に買い物行ったり、普通に歌劇観に行ったりしてるだけの仲だから! 本当に!」
「御馳走様です。片付けは僕たちでしておきますので」
「「どうぞごゆっくり~」」
雪解けの無いこの国で人生の春が到来した彼女は、友人たちにからかわれながら想い人の傍へと駆け寄って行く。
自分たちにもあんな日が来るのだろうか、と思いながら二人は少し温なった紅茶杯に口をつけて微笑み合った。
「ここに不満は無いですが、もっと上手くできていれば何かが変わっていたんでしょうか」
そして、天に飛び立てない翼を持つ者は、今日も遥か遠くへと想いを馳せる。
…………
……
いつもと同じように、アドレスはその場所へと約束の時間通りに、しかしそこで待っていた彼女より遅れて到着した。
そして、早まる心臓の鼓動を誤魔化すように、幼馴染みであるセンシアへと向けて常套句を口にする。
「余裕をもって行動した方がいいぜ、疲れちまうぞ」
「貴方こそ、余裕をもって行動すべきね。不測の事態に備えるためにも」
同じ言葉を使っているはずなのに、まったく異なる扱い方をする二人。
その後は互いに言葉を発することなく、ただただ冷たい風が吹きすさんでいる。
何かを期待しているかのような彼女の瞳と、決意を固めたものの最後を躊躇している彼の瞳は交わることなく、淀みなき白い地面を映していた。
「……っ」「……ッ」
不意に視線が合ったかと思えば、両者とも脊髄反射の様に顔を背けてしまう。
普段は互いに嫌悪しているわけではなく、なんだかんだと息の合う二人も、今日は何処か余所余所しさが目立つ。
そんな普段と違う雰囲気を打破し、ここに来た目的を果たすためにアドレスは自分のすべき行動に出た。
「義理だったとしても……うまかったぜ。……だから、ほら」
その言葉と共にアドレスが差し出したのは、一つの紙袋だった。それは街でも有名な新しい洋菓子店の物で、センシアも前々から気になっていたのだ。
遠慮がちに紙袋を受け取った彼女は、緩みそうになる頬が動かないように強い意志でなんとか表情を引き締める。
「ん、ありがと。それより、貴方の部隊の人たちは色々と忙しいそうだけど、一緒になって騒がなくてもいいの?」
「……いいんだよ。今日くらいはゆっくりしたいんだ」
「ふふっ、なにそれ。いつもゆっくり過ごしてるじゃない」
寒さで赤くなったであろう顔を見られないよう目を逸らし、鼻をぽりぽりと掻きながらアドレスが答えると、センシアの口許からは僅かな笑い声が漏れた。
すると、どこか気恥ずかしい気持ちを誤魔化すようにアドレスが次の言葉を口にするも、それはあまりにも紳士的なものではなく……
「笑うことねぇだろ。昨日から立て続けにデートしてたから寝てねぇんだ」
途端、辺りに吹いていた風が止んだかと思うと、背筋が凍るような悪寒と嫌悪感、そして怒りの混じり合った熱がアドレスの身に襲いかかった。
「なるほど、そうでしたか」
アドレスが自らの失言に気付いた時には既に手遅れだったらしい。センシアの整った顔は彼だけに見せる幼馴染みとしてのものではなく、その口調すらも一部隊の隊長としての厳格なものへと変わっていた。
その姿からは、ついさっきまでの女子らしい一面はまるで感じ取れず、降魔を前にしたときのような威圧感しか感じ取ることができない。
そして――
「そんなに疲れているのなら、残っている仕事は私が引き継ぎます。隊長である貴方に、そのような状態で部下の前に立たれても迷惑ですので。今後は気をつけてくださいね。おやすみなさい!」
「へぎゅあっ!?」
加減がされてるとはいえ、腹部に至近距離からの魔弾の直撃を受けたアドレスは奇妙な悲鳴を残してその場に崩れ落ちた。
そんな彼の姿を背に、センシアは紙袋を胸にぎゅっと抱えたまま踵を返す。
そして昂った感情を一先ず落ち着かせるため、今見せた不機嫌さとはまるで正反対の靴音を小気味よく鳴らしながら、自室へと向かったのだった。
――中界、とある古城の一室にて
「欲しがりません勝つまでは。この言葉があったから、俺はここまで来ることができました」
そう口にしたのは、姿見の前で何度も髪型を確認し、様々な伊達眼鏡を何度も付け替え、首布を締め直し、正装に身を包んだズィオだった。
「そう言いつつ、一月前は立ち直るまで結構かかってたけどな」
「あのときのズィオ兄様は、まるで屍のようだったからね」
ルインの拠点内にある部屋で、丸机を囲って向き合っているのは三人の男。
今から舞踏会に赴くが如く着飾ったズィオ。
事ある毎に巻き込まれてしまうエクスィ。
どんな時もいつも通り独特な雰囲気を纏うテッセラ。
「それでお前たち、俺が指示したことはこなせたんだろうな?」
二人の事を信用していないわけではないのだが、ズィオは訝し気な表情を作り問いかけた。
それに対し、エクシィは獣の様な鋭い目を細め、テッセラは説明し難い奇怪な姿を決めながら堂々と答える。
「ぬかりねぇ」
「当然さ!」
最も頭脳が秀でていると自負している男はその答えに満足するように瞑目し、口角を持ち上げながら喜悦の笑みを浮かべていた。
そうしてこの後の展開を脳裏に妄そ……描き出す。
「エプタの喜ぶ顔が目に浮かぶようだ」
すでに作戦の成功を確信したズィオは愉悦に浸っているものの、そんな彼を見て美しき笑みを浮かべているテッセラとは裏腹に、エクスィは小骨が喉に引っかかってしまったような表情を浮かべていた。
「はっ!? こうしてはいられない」
暫くして、自分の世界から帰還したズィオは目を開き、すぐさま気を引き締めながら最後の仕上げに取り掛かるために勢いよく立ち上がる。
「それじゃあ、行ってくる。我が愛しの妹のもとへ!」
「へいへい、早く行って来いよ」
「今日のズィオ兄様はとても美しく見えるよ」
役割を全うした弟たちから背中を押されるように声を掛けられたズィオは、テッセラから一つの紙袋を受け取ると、そのまま毅然と部屋を出て行った。
胸を張り、まだ終わってもいないのに凱旋が如く、威風堂々と歩む男。
そんな彼の足音が次第に遠ざかっていくと、残されたテッセラは小さく安堵の息を漏らしながら、やり遂げた感満載の表情で天井を見上げていた。
そして、引っかかった小骨の正体を思い出そうと、ぼーっと中空を見つめていたエクスィの瞳が途端に見開かれると――
「ッ、やべっ」
その表情に焦りの色を濃く浮かべ、部屋を飛び出した。
一方その少し前、いつもの広間からは時折姦しい声が漏れ出ていた。
高貴な輝きを放つ縦巻の長い髪の少女は優雅に紅茶を嗜み、その傍には人形のような可愛さの静かな幼女、それとは対照的に活発で裏表のないような笑みを浮かべている少女が焼菓子を口にしている。
「これ以上は待てませんね。トゥリア、私は先に街へ行ってきます」
「エナが行くなら私も行こう」
三人とは少し離れた場所で表情一つ変えずに本を読んでいたエナは少々苛立ちを滲ませた声を発し、本を収納石へと入れると静かに立ち上がった。
すると、その傍で武器の手入れをしていたアリサも続いて立ち上がり、トゥリアの了承の声を聞きながら先に目的地へと向かって行った。
「さて、わたくしたちも向かいましょうか」
空になった紅茶杯を受皿に置き、トゥリアは側にいる妹たちへと優しく声を掛けた。
「二人が先に席を確保してくれても、期間限定のものはすぐに売り切れてしまいますものね。ほら、口許が汚れていますわ」
トゥリアが綺麗な手巾でエプタの口許を拭うと、もう一方の妹の賑やかな声が彼女の耳に届く。
「ねぇねぇ、ペンデは? ペンデは汚れてない?」
「えぇ、大丈夫ですわ」
「トゥリア……さっきエクスィが待っててって言ってた」
その愛らしい容姿同様に無垢な妹を微笑ましく思いながらも、視線だけでペンデに身支度を促し、トゥリアはエプタの柔らかい髪を撫でながら語り掛ける。
「そうですわね。確かにエクスィはすぐ戻るから待ってろと言っていましたわ。ですが、予定があるので昼食の時間までにお願いします、とわたくしは答えました。エプタ、時計を見てわたくしに何時か教えてくださる?」
「……十二時五分。いつものご飯の時間」
そう、エクスィはズィオたちと合流する前に、聖夜の失態を考慮したズィオの指示通り役目を全うし、エプタに外出せずに待っておくよう伝えていたのだ。
だがしかし、それよりも早く女性陣だけで外出の予定を立てていたという事と、エプタとのやり取りの間に威圧感を纏ったトゥリアが介入してきたというのは誤算であった。
そして、期間限定甘味を前にした女性の強さに気圧されたエクスィが、それらのことをズィオに報告し忘れたのは仕方のないことだったのかもしれない。
いや、一応報告したにはしたのだ。しかし、鼻歌を零しながら必死に身形を整えていたズィオにエクスィの声はまるで届かず、彼が少し落ち着いたら後で報告しようと思っていて……まぁ結果として忘れていたということにはなるのだが。
「はい、よくできました。それではわたくしたちも行きますわよ」
「……うん、行く」
「トゥリア姉、準備できたよ! はい、エプタのコートも」
「ありがとう」
普段は自己主張の強い妹が妹の為に姉らしく振る舞うその姿に、トゥリアは胸の奥が熱くなるのを感じながら自然と笑みが零れ落ちた。
そうして、身支度を整えた三人はトゥリアを真ん中にしながら、寄り添うように冷たい風の吹く、平和しか知らない活気溢れる街へと繰り出していった。
……それからたった数分後。
すでに誰もいなくなった深閑とした大広間の中で、身形を整えた一人の男が紙袋を手にしながら泣き崩れているのを目撃したエクスィは、なんとも言えない表情を浮かべたまま、声を掛けることなくそっと静かに扉を閉めたのだった。
――コキヤフレル共和国、メルポメネ
内界の中で四季というものを楽しむことができるこの国でも、この時期に雪が積もることは珍しい。
その分、不測の事態や事故などはより一層起こりやすくなるわけで、相応の立場を持つこの男の心はいつにも増してすり減って行くばかりだった。
「あぁ~っ、山の麓の街に物資は届いているだろうか? 街道の除雪作業中に雪崩は起きて無いだろうか? 今日は男たちにとって大切な日だというのに」
そう頭を抱えつつ部屋の中をうろうろとしているのは、栄誉勇士の称号を持つ男、マレーズ・オリゾンだ。
「まぁ~た始まったか。我らが栄誉勇士の慢性過剰型心配症の発作が」
「アレを聞くたびに、こっちは冷静に落ち着いて事に当たれますからねぇ~。あ、次の荷物は訓練所の方っす」
「はいよ~……はぁ、今日は定時にあがれそうもないな」
「この雪じゃ仕方ないっすよ」
確かに一大事といえば一大事なのだが、実働部隊たる周りの者たちはそのあまりにも大袈裟すぎるマレーズの悲嘆の声を聞くことによって冷静さを取り戻し、指揮系統の確立、優先度の設定、その他諸々の事を素早く行うことができるのだ。
もちろん、マレーズは指揮系統のどこにも属することはなく、混乱を広げかねないため、この軍舎から出ることを止められている。
こう見えて、戦いにおいてはとても頼りになるのだが……。
「マレーズ様にお荷物みたいですよ」
「その宛名は本当に正しいのだろうか? もし違っていたら、差出人も本来それを受け取るはずだった人も――」
「はいはい、間違いないですから」
届いた荷物にマレーズがいつもの様子で問い掛けると、それを持って来た男は小さく苦笑しながら話を途中で切り上げて軽く流した。
この男でなくとも基本的に軍に所属してる者は皆が皆、マレーズへの対応が手慣れている。
「しかし、この大雪のせいで皆が大変だというのに、自分だけこの荷を受け取ってしまっていいのだろうか? 君がここに来たせいで他の者への荷が遅れるなら、その分は自分が――」
「ここに置いときますね。あと、表はごたごたしてるんでここにいてください」
慣れるまでは少々扱い辛く面倒でもあるのだが、マレーズの思いの大半が周囲のことだと気付くことができれば、そこまで悪い気もしない。
「こんなことならタレイアの彼に、大雪の時の対策を聞いておけばよかった!」
聞いていたところでマレーズに上手くその策を使いこなせるとは思えないが、彼は今日も皆の身の安全、無事を願いながら言葉を響かせるのだった
――ラーナリリオ公国、タレイア
どれほどの月日が流れようとも一面に広がる白銀がその姿を完全に消すことはなく、どのような天候でも彼がその姿を此処、大図書塔に見せない日はない。
街中では一ヶ月前と相似した雰囲気が漂う中、この空間だけはいつもと変わらず、紙の擦れる音と僅かな足音が聞こえるだけだ。
今日という日も彼、ペレーア・トルトゥーガは、外の世界と隔絶されたようにも思える静かなこの場所で本を読み続けていた。
「……」
「…………」
「……」
「…………」
閉館までは随分と時間が残されており、主任司書である彼女の仕事も当然残されている。にもかかわらず、彼女は歴史書や伝記に伝奇、啓発書、果ては絵本までもを何冊も大長机に積み上げて、ひたすらに記されているすべてに目を向けているベレーアに視線を向けたまま隣に座っていた。
しかし、それもとうとう限界だったようで、本を読んでいない時でも無口な彼に何かを訴えかけるような視線を向けながら声を掛ける。
「キミの時間にどーこー言うつもりはないんだけどさ」
「……」
「さすがに今日もいつも通りにされると、ね。その……」
「……」
「何か反応してくれてもいいんじゃないかな~、って?」
すると、何かに観念したかのような雰囲気を纏いながら、ペレーアは側に置いていた鞄から取り出したものを大長机に乗せ、すっと彼女へと差し出した。
突然の出来事に驚き思考が一時的に停止するも、彼女は起きた出来事をゆっくりと認識していく。
一月前のお返しとして、何かを貰えるのは確かに期待していた。しかし、彼が差し出した箱は簡素なものではなく、彼女の想像とはまるで違うものだったのだ。
秘心知将たる彼らしくもない、戦術も戦略もあったものではない行動だ。
だが少なくとも、彼女にとっては紛れもない不意打ちだった。
頬が緩み、目尻も下がっているのが自分でもわかるがそれを隠す事をしない。
彼女が受け取った物を開封して確認すると、途端にその顔は朱く染まり、心臓の鼓動が大きく早くなり、瞳から何かが零れそうになった。
「……」
「ほ、ほんとに? 私に……なんだよね?」
「……」
「そ、そっか……いや~そのっ、あ、ありがとう」
その言葉を聞いたペレーアは、再び本に視線を落として新たなる知識を増やしていく。その隣では、開封された柔焼菓子に込められた無口な彼の想いと甘さに浸る主任司書がしばらく間、残っている仕事も忘れて彼の横顔を嬉しそうに見つめ続けていた。
――ホルテンジア群島国、テプルシコラ
水平線の彼方から届く冷たさに身を震わせることなく、大時化の白波に動じることなく、彼は岬に立ちながら盟友の戦果を感じ取っていた。
「彼ならば、元よりなんの憂いもなく幸福を掴み得たことだろう」
そう呟いたのは異質な雰囲気を持ちながら、それでいて其処居るのが当然であるようにも見える男、レーベン・ヴァールハイト。
「私などが知将たる彼の力になったとは到底思えぬが、だとしても、盟友である私を頼ってくれたのは実に喜ばしいことだった」
人々がどのように行動しようと、街がどのように変わろうと、時代がどのように移りゆこうと彼は、統率軍士の名を背負う彼だけは、変わる事も流される事もなく自らの思うがままに生きる。
人々を否定するわけでもなく、時代を拒絶するわけでもない……いや、むしろそういったものすべてを受け入れた上で、威風堂々と自らの道を往くのだ。
そういったものが、彼を彼たらしめている大きな要因なのだろう。
「さて、私もそろそろ行かねばならないな。時間を費やして届けられた想いには、それに相応しい返礼が必要だ。生物に与えられた時は有限なのだから」
盟友を祝福するように薄く微笑み、彼は踵を返して歩き始めた。
その目的は、一月前に届けられた差出人ない贈り物に対する返礼だ。
近寄りがたい雰囲気を纏わせる彼に寄せる甘い想いは多々あれど、名前を乗せた贈り物を届ける勇気のある者はおらず、ましてや直接渡すなどできようはずもない。
だから彼は差出人のない贈り物一つ一つに対し、相手の名前を調べることなく、用意した贈り物に誠心誠意感謝の手紙を添えて返礼する。
「……」
ふと足を止め、レーベンは先程とは違う水平線に視線を移した。
「愛でる花の多い英雄殿のように、彼にも上手くやってもらいたいものだ。時は有限であり、それ故に人というものは夢を抱く。想いも意志も感情も、それらはすべて儚き命の中に美しく在るものなのだから」
……蝋燭は身を減らして人を照らす。
小さくなった数多の生命の灯火を瞼の裏に映し、彼はこの場を立ち去った。
――ロスマリーノ教国、ポリュムニア
歓喜と悲鳴の入り混じる賭博場で、今日もディレット・アルティスタは自らの実力と少しばかりの幸運によって着実に勝ちを増やしていった。
対して他の常連たちはというと、今日はいつもと違う新顔が多いことに集中力を乱され、普段であれば失敗しないような負け方で所持金が底を尽きそうになってきている。
「おいおい、あんちゃん。今日は随分と綺麗所が多いじゃねぇかよ。本命はいるのかい?」
「賭博だけじゃなく、人生も勝ち組かこの野郎っ!」
「みなさん落ち着いてくださいよ。ちなみに、本命とかはいませんので」
まだ店を閉めるには早すぎる時刻ではあるが、これ以上賭博場としての営業を続けても本来の雰囲気を取り戻せないと判断した店主は、今日のところは一先ずお開きであると店内でその事を告げた。
すると、一部の者は他の店へと向かい、残った者の多くはディレットとその周囲に集まる高貴な雰囲気を纏った女性たちの動向を窺っている。
「もう少し格好良い所をみせたかったんだけど仕方ないか。ま、今日はホワイトデーのプレゼントをするのが目的だしね。どうぞ、お嬢さん方……日々の感謝と今後も良好な関係を築けますように」
「えぇ、ありがとう」
「ふふっ、これからも期待してるわよ」
「私は個人的な関係でもいいのよ? どうかしら?」
一人、また一人とディレットから贈り物を手渡されると、短く言葉だけを残して店を去っていった。
素っ気ない感じではあるものの、これも銘記貴人たる彼と、彼に助力している彼女たちの所謂お仕事なのだから仕方ない。
そんな中、最後の一人は香水とは異なる密のような香りを微かに彼に纏わせたのち、優雅な足取りで扉の向こうへと姿を消した。
すると、頬に唇の跡を残したディレットに浴びせられたのは、野太い声と羨望、嫉妬に塗れた言葉の数々。
ディレットはあまった勝ち金で皆に酒を振る舞うことでこの場をなんとか収束させ、麦酒杯を片手に馬鹿騒ぎを始めた単純な男たちを前に苦笑し、こういった日常が続けばいいと願うのであった。
――ヴェルヴェナ帝国、帝都カリオペイア
白雲一つない天井から届く陽は、地平の果てまで続く砂漠の国に熱を与え続けていた。他国の者からするとこの灼熱は耐え難い気候だが、この国で生まれた者たちにとってこの太陽の恩恵は、活力の源そのものであるのだという。
そんな灼熱の地、炎天の下で巨躯の女、ターミア・アドウェルサは重厚且つ堅牢な鎧を身に纏った状態で恒例行事とも呼べるそれを行っていた。
「隊長! いつも我々一同への指導並びに心遣いの程、誠に有難う御座います!」
「「「有難う御座います!」」」
「そして、まだまだ未熟ではありますが、これからも平穏なる世界の為に精進していきますので、どうぞ宜しくお願い致します!」
「「「どうぞ宜しくお願い致します!」」」
彼女の前では直属の部下たちを始め、数十名ほどの鎧を纏った者たちが声を揃えながら統制された動きで一礼し、隊長の発する次の言葉を待っていた。
部下たちから慕われるというのは嬉しく思うのだが、ある種の式典のような大袈裟な雰囲気に気恥ずかしさを憶えながら、ターミアは快活な声を集まった面々に届ける。
「我は几力烈士という称号を授かってはいるが、一人の力では多くのものを守ることは到底できない。だから、少しでも多くのものを守る為にも、諸君らの力が必要だ。これからも宜しく頼む」
「「「はっ!」」」
それは彼女の几力烈士としての自覚からくる言葉ではなかった。
それは中立国アイリスオウスで起きた悲劇の顛末を聞いた後に思ったこと。
それは力無き少女たちとの邂逅で更に大きくなった想い。
戦禍を被った町を、人々を失いたくない。
共に日々を過ごした仲間を失いたくない。
失う悲しみを知るからこそ、残された者に悲しみを与えてはならないと。
「……しかし、これ程の量を受け取るのは、な」
ターミアはそういった様々な想いを胸に、両手では抱えきれないほどの様々な贈り物を眺めながら呟くのであった。
――中立国アイリスオウス、大都市ミソロギア
血涙を流す者、歓喜の声を上げる者、運命に翻弄された様々な者たちの戦いから一ヶ月が経ち、今ここで新たな戦いが訪れようとしている。
赤き戦士は勝ち取った戦利品を周りに何を言われようとも大切に扱い、自らの信じる女神に報いるためにも再び戦場にその身を置いた。
「遂に、そう遂にこの日がやってきた!」
「応援しているであります!」
「ほどほどでいいと思うんだけど……義理なんだし」
未だに運命の枝の爪痕が残るミソロギア。
しかし、男共の浮足立った空気の漂うそんな街中の酒場に三人はいた。
レシドは象徴たる髪型を入念に整え、港町ミステルにある普段は足を踏み入れる事のない菓子店で購入した流行の高級菓子を手に哮る。
隣にいるのは、十分な意気込みをみせるレシドの事を純粋に激励するブルンと、届かないとわかっていても事実を知らせる冷静なキースだ。
「タキアさんから渡されたチョコに俺は応えないといけねぇんだ!」
「いや、だから義理なんだよ? 僕ら二人もまったく同じの貰ってるし」
「骨はしっかりと拾うであります!」
人は何かに夢中になると周りが見えなくなると言うが、今のレシドは見えていなさすぎる。恋慕というものでは決してないのだが、軍に入隊した時からお世話になっている憧れの上官からの贈物は、彼の理性という箍を外すには十分すぎた。
すぐにその熱も収まり落ち着くだろうと、キースとブルンは彼を放置していたのだが、結局一月経った今もこの有り様である。
「あれが義理だったと誰が決めた!?」
「タキアさんでありますね」
「ていうか、普通に本命貰っても困るのはレシドでしょ」
「……うぐっ」
熱だけを宿した無意味な会話が暫くの間続き、ようやくキースの言葉がレシドの耳に届いたとき、彼は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて大人しくなった。
そして……
「それに、おやつ代わりに配られたチョコでそんなもの返されたら、逆にタキアさんも困るって。ほどほどって言葉をそろそろ覚えようよ」
止めの言の刃をキースに突き立てられ、レシドは力なく椅子の背もたれに身を預けながら、意思のまるで感じられない魂の抜けたような瞳を中空へと向けていた。心なしか、彼の象徴も萎れているように見える。
「キース、言い過ぎであります」
「いいよこれで。どうせ後五分もしたら立ち直って、結局突貫するものの渡せずに夜泣きするのが目に見えてるんだから。はぁ……考えだしたら頭痛くなってきた」
そう言いつつも、なんだかんだと慰めるのはいつもキースの役目だ。
面倒臭がりのようで気配りができ、日頃から怠そうな顔をしている割に胸には熱いものを秘めている……そんな彼のことを、古い付き合いのブルンは知っている。
「まったく、キースも素直という言葉をそろそろ覚えるであります」
「……うるさいよ」
偽りの平和が終わったあの日、あの瞬間は、またこんな風に馬鹿な話ができるなど想像もしていなかった。
こうして昔と変わらない日常を過ごしていると、あの日のことが夢だったのではないかと思うこともあった。
だが、あの日の爪痕や平原に広がる深域が、否応なしに現実へと彼らを引き戻す。
多くが死に、多くの悲しみが生まれた。
だからこそ、強き意志と信念が此のミソロギアを強くした。
様々な脅威に晒される中で彼らは……そして、多くの人たちは今ある平穏な瞬間を尊く思い、今までの当たり前に感謝している。
そして同時に思うのだ。
その平穏がいつの日か、瞬間ではなく日常になってくれるということを。
――ケラスメリザ王国、クレイオ
夜の帳が下り、空には荘厳で、そして壮美な月が浮かんでいる時刻。
「ファナティよ。我らはいつまでこうしておればよいのだろうか」
「陛下。恐らくですが、姫とピリアが夕食を終えるまではこのままかと」
「……そう、か」
「……はい」
城内の謁見の間にて、この国の王と騎士団長が靴を脱いで床に正座しているという、国民や他の兵士等が目撃すれば卒倒しかねない光景がそこにはあった。
どうしてこのような事態に陥っているのかといえば、些細なことでありながらその重要性を彼らが認識していなかった事がその始まりである
あれはそう、遡ること先月のバレンタインデーの前日……
……――――――――――――
自室にて、ファナティは四角机に広げた衣服や薬品、水、保存食などを確認しながら一つ一つ収納石へと納めていた。その量は遠征としては少ないものの、日帰りにしてははやや多い。
そんな中、廊下を走る誰かの足音が鳴り響き、止まったかと思うと間髪入れず部屋の扉が開け放たれた。
「フィー!」「ファナティ!」
「ノックをしてから入るようにと、何度言えばわかるのですか」
「そんなことより明日は日の出前に発つというのは本当なの!?」
「そんなことより明日は日の出前に発つというのは本当ですか!?」
叩打もせずに勢いよく扉を開けて入ってきたのは、この国の王女スィーネと幼馴染のピリアだった。
普段は王族の者としての気品を纏っているスィーネも、何処か見ていて危なっかしいピリアも息を切らせており、ファナティに向けられた視線は彼と壁すらも射抜くほどに何故か鋭い。
「え、えぇ……陛下と、その護衛として私を含めた五名で向かう予定です。ピリアには姫の護衛と城の事を任せることになるが、大丈夫だな?」
「「大丈夫なわけ無いでしょう!?」」
ファナティとしては予想外過ぎる二人の返答と、彼女たちが纏っている剣幕の理由を彼は咄嗟に考えるも、まるで思い当たるところはなかった。
特に何かを約束していたわけでもないはずだが……。
彼がそんなことを考えていると、寝衣というなんとも国王の威厳を感じさせない格好をしたパソスが、どこか申し訳なさそうな表情でその姿を現した。
「……ファナティ、私は大事なことを忘れていたようだ」
「来られましたか、お父様。一先ずそこに座って頂けますか?」
「フィーもその隣に、ね?」
「「……はい」」
そうして、一国の王であるパソスとファナティは懇々とお叱りの言葉を受けた。
その内容というのが、パソスたちが城を出立する明日が二月十四日であり、一週間も前に決まっていたのに伝えてくれなかった、という不満の声だ。
どうやらその公務の事を、たまたま他の護衛に当たる兵から聞いたらしい。
他にもここぞとばかりに出てくる不満は、普段の生活における二人の態度や言動についてなどであり、日の出前に出立だというのにそれは夜更けまで続いた。
そうして、彼女たちの計画していた不意打ち行事をふいにしてしまった男二人が誠心誠意の謝罪を続けた結果、それが公務である以上は先方に迷惑をかけるわけにいかないので、次に同じことがあった場合は何かしらの罰を受けてもらうということでこの話は一先ず片付いたのだった。
……――――――――――
だが……
本日、三月十四日にその悲劇は起きてしまったのである。
一度目のお叱りを受けた先月、スィーネたちは公務から無事に帰ってきたパソスたちに日頃の感謝の気持ちと共に手作りのチョコを手渡した。
しかし、彼らは今日という日そのものの存在を忘れていたらしく、何も用意していなかったことをスィーネたちに看破されたのだ。
その結果、次に同じことがあった場合は何かしらの罰を受けてもらうという一月前の宣告通り、彼女たちが許すまで正座し続けるというはめになった、というわけだ。
そうして……
荘厳で、そして壮美な月が夜を照らし出してから、人の目覚めを告げる太陽に入れ替わるまで残すところ半分の時間となった頃……
「ファナティよ。我らはいつまでこうしておればよいのだろうか」
「陛下。恐らくですが、姫とピリアが目を覚ますまではこのままかと」
「……そう、か」
「……はい」
翌朝、まだ寒さの残る閑寂とした広い謁見の間にて、清掃をしに来た女中の者に発見されたパソスとファナティは二、三日の間、感冒症状となり寝込んだという。
04月01日編集/誤字修正