魔女の花嫁
魔女の花嫁
森の奥深くには魑魅魍魎が住んでいる。
いつのころからか、人々はそう信じるようになっていた。
疫病や災害はみな彼らのせいと噂され、危害を加えられないよう祠を立て、捧げものを送ることも珍しくなかった。高価な酒や採れたての野菜、米、綺麗な色で染められた布。ときには、生身の人間を花嫁と称して、生贄にすることもあった。
魑魅魍魎というのは、目に見えない。何が嬉しくて、何が嫌なのか、誰も知らない。それでも怖いから、人は一生懸命考えて捧げものを用意する。
自分達の行動が意味もないことかもしれないとは、誰も考えなかった。みんな、幸せになりたかったから。今よりもずっといい暮らしをしたいと、望んでいたから。
希望が断たれることは、嫌だったのだ。
微かな声を漏らして、緋桜は目を開けた。どうせ真っ暗だろうという予想に反して、瞳には知らない天井が映る。
森の祠に、手足を縛られ、目隠しをされて連れて行かれたのまでは覚えている。村に疫病が流行り、森の主に捧げものをしようという話になって、緋桜が選ばれたのだ。貧しい村で、食料は十分になかったし、捧げものになるほどの腕を持つ機織りもいなかった。そんな村では、口減らしの意味も兼ねて、子供が捧げものになる。生贄の事は花嫁と呼ばれているが、成人していなければ、男の子も当然のように選ばれていた。
今回は、厄介払いの意味もあったのだろう。緋桜には親がいない。疫病にかかって、数日前に亡くなってしまった。自分たちの暮らしで精一杯な村では、よその家の子供まで養える余裕がない。生贄になって悲しむひとがいないなら、緋桜以上に適した人はいなかった。
せめてもの情けなのか、いつもは死体になった状態で花嫁として捧げられるのが、緋桜は身体の自由を奪われただけで命は取られなかった。この方が無駄に苦しむことを、緋桜は祠に置いてかれて三日で体感した。
とにかく状況を整理しようと、緋桜は身を起こす。目隠しと一緒に、手足を縛っていた縄も外されていた。代りに、縄ですれた手首や足首に、包帯が巻かれている。横たえられていたところも、清潔そうな綺麗な布団の上だった。
森の中にいたのだから、自分を拾うとしたら猟師だと思っていたのだが、猟銃の類はどこにも見当たらない。緋桜の住んでいた家と違って隙間風もなく、清潔で、小屋にしては上等すぎる所だった。ここは、きちんと人が住んでいる場所だろう。
「あれ?目が覚めたの?」
声がした方を振り向くと、戸口に緋桜より二つ三つ年上の少年が立っていた。首から頭まで覆われた、不思議な着物を着ている。靴も形は藁沓に似ているけれど、緋桜の見慣れたものとは違う。少なくとも、少年は緋桜のいた村とは違うところの人なのだろう。
少年は手に盆を持っていて、その上には湯気を立てている美味しそうな粥が載せられていた。
「人って何食べるんだろうって悩んだんだけど、そう言えばぼくたちは人とそっくりなんだよね。なら食べる物も同じかなって。粥を作ったんだ」
緋桜のいる布団の側で膝をついて、少年は粥の入った器を手渡してくれる。緋桜はゆっくりと息を吹きかけながら、木匙ですくって食べた。何日かぶりのごはんだからか、すごくおいしく感じた。
「口にあったようだね。よかった。せっかく助けたのにごはんが不味くて死にました、なんて洒落にならないからね」
呑気そうな口調で、少年は恐ろしいことをいう。
「聞きたいことはあるだろうけど、まずはお腹を満たさないとね。時間はたっぷりあるんだし、ゆっくり話そう」
粥を口にしたことで、自分がひどく空腹だったことに気づいた緋桜は、少年の言葉に頷いた。
「さて。何から話そうか。何を知りたい?」
食事がひと段落して、少年が言った。にこにこと、愉しそうな笑顔を浮かべている。
「えっと…」
何を知りたいと言われても、多すぎてどれから聞けばいいか分からない。ここは何所で、少年は誰で、自分はなぜここにいるのか。
「ふふっ」
ふいに、少年が笑い声をあげる。彼は緋桜の顔をまっすぐに見つめて、楽しそうに言った。
「ほんとに、生かして正解だったなあ。きみのその綺麗な紅い瞳が、くるくると変わる感情を浮かべるさまを見るのは、面白い」
緋桜はとっさに、顔を俯けた。長い前髪が垂れて顔が隠れる。それでも足りない気がして固く目をつぶると、ぐっと顎をつかまれ、無理やり上向かされた。
「ずいぶんと長い前髪だね。ぼくが見ているのに気にしなかったのは、隠れていると思ったからかな?」
図星だった。完全に油断していたのだ。目隠しを外されているのだから、当然彼も目にしているはずなのに。
「ねえ、目を開けて?睫毛が震えるくらい力いっぱい閉じないでよ。夕焼けに似てとても綺麗なのに勿体無いなあ」
「う、そ」
「嘘じゃない。なんでそんな頑ななの。紅い瞳がそんなに変?確かに人としては珍しい色だけど、別になくはないでしょ」
おかしいに決まっている。これが当たり前なら、村で両親が悪く言われることもなかった。母が、鬼と不義を働いたのではと疑われえることもなかった。言いがかりをつけられて、父親が殴られることだってなかった。
優しい人たちだった。人と違う容姿を持って生まれた緋桜を、可愛いと抱き締めてくれた、温かい人たちだった。――大好きな、家族だった。
『おまえのせいだ』
顔を歪めて、そう口々に言う村人の顔が浮かぶ。
その通りだと、冷たくなった両親の亡骸を前に、緋桜はうつろな状態のままで頷いていた。
「うーん。おかしいのかなあ。泣きはらしたり、疲れたりしている瞳も、紅いと思うのだけど」
「…それは、普段は黒とか、茶色でしょう?」
緋桜も、そういう意味での紅い瞳なら、見たことが無いわけではない。怒り狂っている人の瞳も、紅くて、自分よりずっと怖いと思ったものだ。
「ええ?それなら蒼とか緑とか、灰色だっているでしょ?」
心底不思議だという口調だった。だんだんと、緋桜は自分の方が間違っているのではと言う気がしてくる。蒼や緑、灰色の瞳をした人なんていただろうか。海を渡って来たという行商人も、黒や茶色の瞳をしていた気がする。
「嘘だと思うなら、ぼくの瞳を見なよ。フードかぶってたから、よく見えなかったんでしょ?」
ほら、と促す声に、少しためらってから目を開く。そして目の前の少年の顔を見て、「あ」と声を漏らした。
「どう?ぼくの色、気持ち悪い?」
少年の瞳は、宵闇と同じ藍色だった。近くで見ないと、黒に見違えるかも知れないくらい、暗く、深い色。
「……」
「黒とそう変わらないって思っている?確かにそうだけど、日に透かせばやはり違うってなるよ。人は他と違うことには敏感だからね」
緋桜は自分が恥ずかしくなった。もしかして自分は、一番世界で不幸なのだと思っていたのだろうか。そんなことないのは、村にいた時から知っていたはずだった。人によって基準は違うけれど、皆と同じ見た目なのに、除け者にされて苛められている人だっていたから。
さっきとは違う理由で、緋桜は俯いて黙り込んだ。
「…てっきり、仲間ができたって喜ぶと思ったんだけど」
「ごめんなさい…」
「謝らなくていいよ。気にしていないから。それよりすっかり話がそれちゃったね」
常盤は、気を取り直すように言った。
「祠の前にいたということは、きみは花嫁なんだよね?一応あれが祀っているのは森の主だけど、きみさえよければここで暮らさない?」
緋桜は一瞬絶句した。祠の事は昔から、そこに祀られているモノも含めてないがしろにしてはいけないと教わっていた。自分自身に供物として価値はないとしても、それを横取りするなんてありえない。
だが、少年がそうしなければ、緋桜は死んでいたのだ。責めるのはお門違いだろう。餓死する寸前だったところを助けられて、これからも面倒を見てくれるというのだ。感謝してもしきれない。
「…おことわり、します」
だから、誘いに頷くわけにはいかない。
「どうして?生贄として選ばれたのなら、帰る場所はないでしょう?」
少年の言うとおりだ。緋桜にはもう、帰る場所がない。生贄に選ばれなかったとしても、両親のいない、一人ぼっちの家で暮らすのはいやだった。
「…もしかして、死にたいの?」
助けてくれた相手に、これ以上ないくらい失礼だと思う。
両親が死んでしまったのは、緋桜のせいではないかもしれない。あらぬうわさを流されるのも、暴力を振るうのも、それをする方が悪くて、緋桜も両親も悪くないのだろう。
だけど、緋桜と一緒にいることが、決して相手のためにはならないことは事実なのだ。自分を助けて、紅い瞳を綺麗だと言ってくれたこの優しい少年を、傷つけたくなかった。
質問に沈黙をもって答える緋桜に、少年はため息をついた。びくりと、思わず肩が震える。
「しょうがない子だねえ。今まで言った事も嘘ではないけれど、ここですべての種明かしをしようか」
「…?」
少年は黒い髪を一房つかむと、ゆっくりと指で梳く。すると、少年の指が触れたところから、徐々に髪は色を変えていった。黒髪から、冬でも枯れることのない、杉の葉の緑に。
その特徴的な髪の色は、緋桜が昔、寝物語に聞いた森の主の姿とよく似ている。
「改めましてこんにちは、花嫁殿。僕は常盤。この森を統べる魔女だよ」
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