第3話 あすなろ美術教室
岡野宅の玄関の扉を開けると、美央がなんとも言えない表情で立っていた。
「優子ずるい! 三島さんに会ってたんでしょ?」
優子は一瞬で、あこれめんどくさいやつだ、と悟った。美央は優子の方を揺すってずるいずるいと喚いている。
何を騒いでいるんだとその子が家の奥から顔を出した。
「こら、騒がないの。三島さんは優子ちゃんが落とし物を拾ってくれたお礼が言いたかったそうよ」
「お礼だけならもっと早く話が終わるでしょ? ねえ優子、何話してたの?」
三島に関する話題において、美央の食いつきは半端ではなかった。料理をテーブルに運びながら興奮気味に問い詰めてくる。危ないからゆっくり運びなさい、という園子の声は聞こえていない様子だった。
「特別なことは何も話してないよ。というか、なんか緊張しちゃって何を喋ったか思い出せないや。ほとんど向こうの話聞いてるだけだったし」
「勿体ないなぁ。私だったらあれこれ聞き出して彼女に立候補するのに」
「それは話が飛躍しすぎでしょ」
あ、それより、と美央が急にかしこまった。
「あの絵の話は聞けた?」
「……ううん」
そっか〜、と美央は残念そうに肩を落とした。
優子は聞こうとしたが結局聞けなかった。いや、聞かせてもらえなかったのだ。
「なんだかあの絵のことは喋りたくないような感じだったの」
「え、そうなの? じゃあやっぱりあの人、自分の絵が嫌いなのかな」
キッチンから園子が最後の料理を持ってくる。こちらの会話は聞いていたようで、それはないわよ、と言った。
「あの絵、すっごく丁寧に丁寧に、時間をかけて描かれてるみたいだったわ。多分、よっぽど描きたい絵だったんだと思うんだけど。それに、嫌いな絵を出品なんてするかしら」
「まぁ、それもそうですよね」
「好きだけど、好きじゃないってこと? 変なの」
わけわかんなーい、と言って美央はご飯を頬張った。優子もいただきます、と言って料理を口に運ぶ。
園子さんはとても料理が上手だ。昔から優子の両親が家を空けている時はよく食事をご馳走してくれたものだ。
「そういえば、三島さんは今隣町の画塾で働いてるって言ってたよ」
「え、それほんと!? ねえ母さん、やっぱり私あの塾じゃなくて三島さんの塾がいい!」
「それは構わないけど、三島さんにご迷惑がかからないようにしなさいよ」
なんのことだろう、と思っていると、美央は得意げな顔で言った。
「私ね、実は真剣に美大進学を目指してて、今年から画塾に通おうと思ってたの」
「え、それ、本当?」
絵が上手だった美央には美術の才能があると思っていたが、まさか美大に進学しようと思っていたとは知らなかった。自分の得意なことがあって、将来の目標も決まっている美央がなんだか羨ましかった。
「三島さんに絵を教えてもらえるなんて夢みたい! はやく入塾したいなぁ」
美央はすっかり浮かれていた。優子は、美央はいつも楽しそうでいいなぁ、と思った。
昼食を食べ終えて約束の商品券を貰った後、優子は自宅に帰った。優子の両親は仕事が忙しく、休みも不定期で帰ってくるのはいつも深夜だった。寂しくないといえば嘘になる。一人っ子の優子は、誰もいない家に一人でいるのが退屈で仕方がない。趣味らしい趣味をもたない優子は、家に一人でいても暇なだけだ。なので掃除や洗濯といった家事を率先して手伝っている。
美央の家から帰ってきた後、いつも通り洗濯と掃除を済ませて学校の課題に取り掛かった。勉強が好きなわけではないが、他にやることがないのでしょうがなかった。
「この町の海が見たかったんだ」
ふと三島の言葉を思い出した。
朝凪町は言ってしまえば海くらいしか誇るものがない田舎町だ。その海といっても、どこにでもある普通の海で、夏に海水浴で少し賑わいを見せる程度。近くの大きな市に大規模な漁港があるため、朝凪町の漁師はそちらに出向いて漁をする。漁港もない朝凪町で漁をする人はいない。朝凪町の海は、眺めたり入ったりして楽しむだけの海だ。
優子の部屋の窓からもその海は見えた。生まれてからずっと見てきた海だ。内陸に住んでいる人にとっては海は珍しいものと聞く。優子にとってはあまり実感のわかない感覚だったが、きっと三島もそういう気持ちなんだろうと思った。
翌日、学校が終わってから帰ろうとする優子を美央が引き止めて言った。
「優子、この後なにするの?」
「何って、普通に家に帰るけど」
「良かったらなんだけどね、その、画塾の見学についてきてほしいなって」
もじもじと照れながら言う美央。見学に一人で行くのが心細いのは分かるが、美央は優子が美術が苦手なのを知っているはずだ。
「なんで私? 私画塾なんて通う予定ないよ」
「今日だけでいいから、お願い! 優子がいると三島さんとも普通に喋れる気がするの!」
「……あぁ、なるほど、そういうことね。別にいいけど後で何かおごってよ」
「ありがとー! 優子大好き!」
こういう時の美央は結構頑固で人を振り回すところがあるが、どこか憎めないのだ。
行きのバスに乗り込んで座席に腰掛けると、美央が画塾のチラシを見せてくれた。「あすなろ美術教室」という文字の下に、あの大学に何人合格したとか、塾生がどんな作品を制作しているかなどが沢山書いてある。隣の美央が「母さんが言うには、ここの塾結構すごいとこなんだって」と言った。すごいすごくないの基準がいまいち分からないが、このチラシに掲載されている参考作品は、確かにどれも上手だと思った。
30分ほどでバスは隣町の駅に到着した。塾は駅の目の前にある。
「あ〜緊張してきちゃった。ねえ優子、私どこも変じゃない?」
「ちょっと、塾の見学に来たんでしょ? そんなの心配しなくていいってば」
「でも……」
優子はトイレで化粧直ししてくるという美央を引きずって信号を渡った。
塾の前に来てもうんうんと唸っている美央。早く入ろうと促していると、中から70代くらいの男性が出てきた。
「おや、何か用かな?」
「あ、すみません、塾の見学に来ました。私は友達の付き添いです」
美央はその男性を見て焦って姿勢を正した。
「岡野美央です。今日はよろしくお願いします」
「あぁ、昨日電話してくれた岡野さんだね。私はあすなろ美術教室で絵を教えている牧田と言います。私は今から野暮用で席を外すけど、すぐに戻ってくるので中で待っていてくれるかな」
「はい!」
そう言うと、牧田は近くの画材屋に入っていった。ニコニコとしていて言葉遣いも穏やかで、とても感じの良い老人だ。先生優しそうだね、と美央は笑顔になった。
あすなろ美術教室は一見普通の古民家のようだった。牧田の家を開放して塾をしているらしい。玄関の扉を開けると、美術室によく似た匂いがした。玄関を入ってすぐの部屋では、数人の学生たちが真剣な様子で一つの胸像に向かっていた。
優子が小声であれは何をしてるのと聞くと、美央はデッサンだと答えた。なんでも、美大の試験は学科試験に加えて実技試験もあり、その内容にデッサンが必ず含まれるのだそうだ。
つまりここにいる塾生たちは、みんな美大を目指しているということだ。その輪に美央も加わろうとしている。友達が知らない世界に行ってしまう気がして、優子は少し寂しくなった。
「やあ、岡野さん。おまたせしました」
先ほどの牧田が戻ってきた。手には大きな画用紙を沢山抱えている。
「これは塾生に自由に使ってもらうための画用紙です。紙はたくさん使うからね。近くに画材屋があるにはあるけど、いちいち買いに行くのは時間が勿体無いので、私がまとめて買って置いてるんです」
牧田はデッサンをしている塾生に、紙買ってきたから使ってね、と声をかけた。塾生はありがとうございます、と言うとすぐに制作に戻った。とても真剣にやっているのが優子にも分かった。
「岡野さんは美大を目指しているんだったね。どこにするか、もう決めてる?」
「一応、行きたいところは決めてます。学校の先生には厳しいって言われてるんですけど」
「そうか、じゃあ沢山練習して志望校合格を目指そうね」
牧田は優子に振り返って言った。
「お友達は、美術をやっているの?」
「……いいえ」
美央の付き添いで来たとはいえ、なんだか物凄く場違いな気がした。真剣に絵を描いている人たちに、美術に無関心な自分が混ざっているのが申し訳なくなった。
しかし、牧田はニコニコしながら、そうかそうか、と頷いた。
「今はデッサンの時間だから見ていても暇かもしれないね。上の部屋に作品を展示しているから、良かったら見ていってください」
美央を見ると、先ほどまで三島三島と浮かれていた様子は欠片もなく、真剣に学生たちを見学している。やっぱり美央も本気でやろうとしてるんだ。優子は少し安心して、静かに階段を上った。
扉を開くと、壁一面に様々な絵がかけられていた。暴力的なまでに沢山の色が一気に目に飛び込んできて圧倒された。
奇抜な色をしたリンゴや紙コップの絵、柔らかいボールを掴む腕の絵、裸の男性の絵、椅子に座っている女性の絵、他にもいろんな絵があった。どれも優子が見たことがないくらい上手な絵だ。こんな上手に描けたら楽しいだろうなと思う。
その絵の中に、海を眺める女性の絵があった。三島の描いたあの絵の女性とそっくりだった。しかし、あの絵とは違い鮮やかな色彩で描かれており、とても楽しげな絵だった。
もしかして三島の作品かとも思ったが、あまりにかけ離れていたため確信は持てない。もっと詳しく見てみようと思い、優子はその絵に近づいた。
その時部屋の奥で大きな物音がした。この部屋は無人だと思い込んでいた優子は驚き、音のした方向に振り返った。
「あれ? もしかして優子ちゃん?」
奥から大きな男性の胸像を抱えてて出てきたのは、三島舟平だった。