第1話 余命1ヶ月の絵
私はとても美しい絵を見た。
絵は小さな商店街の一角に設営された展示スペースにかけられていた。
その作品展は年中無休で開催されており、町民の誰でもが自由に作品を展示できるようになっている。商店街に華を添えるために開催されたもので、いつも町内の小学生からお年寄りまで幅広い年代の人たちの作品が展示されている。審査や賞といったものはなく、ただ作品を展示するだけのものだ。商店街の名前からとって、「朝凪作品展」と呼ばれている。
あまり絵に関心がなかった私がその作品展の前で足を止めたのはたまたまだった。たまたま、その絵が視界に映った。否、その絵と、目があったような気がしたのだ。
それは女性の絵だった。朝日の差すベッドの上で優しく微笑む綺麗な女性だった。私はなんとなく、この女性は作者に向かって微笑んでいるような気がした。作者の恋人だろうか。とても美しい絵だ。
「すごいなぁ」
私は思わずそう呟いた。
「すごいわよね、これ。最近この町に引っ越してきた男性が持ってきてくれた絵なんだけど、私びっくりしちゃった。こんな上手な絵を描けるなんて憧れちゃう」
いつの間にか隣に文具屋の園子さんが立っていた。彼女はこの作品展の運営をしている。
「どういう絵なのか聞いても教えてくれなかったけどね、タイトルもないっていうし。そんなこと言われると、ますますこの絵が描かれた背景を想像しちゃうわよね。私は恋人の絵だと想像してるわ」
興奮したように熱く語る園子さんに苦笑いしつつ、改めて絵を見た。
絵のことなんてまったく分からない私でも、この絵は素晴らしいと思う。有名な作品展に出したら大きな賞がとれると思うが、なんでこんな小さな作品展に出したんだろう。
「ところで優子ちゃんって絵に興味あったの? 毎年夏休みに美術の宿題の絵の具を買いに来るたびに、嫌だ嫌だ描きたくな〜い! って愚痴ってたじゃない」
「まぁ、絵を描くのは苦手です……。ところでこの絵、いつまで展示する予定ですか?」
「そうねぇ、普通なら1ヶ月くらいで持ち主に返すことになってるんだけど、この絵を描いた人が返さなくていいからそのまま処分してくれって言うのよ」
「えっ?」
「勿体ないわよねぇ、こんなにいい絵なのに。処分するくらいなら私がもらっちゃおうかな」
園子さんは冗談だけど、と笑った。
処分。この絵は、あと1ヶ月も経たないうちに処分されてしまうのか。
うちの学校の美術の先生はよく、作品に命を吹き込めと生徒に言う。
この絵の作者は、この絵に命を吹き込んだのだろうか。
展示が終わったら処分してほしいだなんて、まるで捨てるために持ち込まれたような作品に……。
私、谷崎優子はこの朝凪町で生まれ、今年町内の朝凪高等学校に進学した生粋の朝凪町民だ。
趣味なし特技なし、勉強も運動も平均的な普通の女子高生。高校に上がれば何か新しいことが始まる予感がしていたが、町外から進学してきた生徒は思っていたよりも少なく、新しいクラスはそのほとんどが顔なじみだった。新鮮さのかけらもない。これじゃあ中学の延長じゃんね、と隣の席の岡野美央が苦笑いした。彼女は幼稚園からの親友だ。
「あ、ところで優子は知ってる? 朝凪作品展のあの絵」
ちなみに美央は文具屋の園子さんの娘だ。といっても母親のように美術に熱心なわけではないが。
あの絵というのはもちろん、昨日見たあの女性の絵だろう。
「知ってる知ってる。昨日見たよ。すごい綺麗だった」
「だよね! 私、母さんがあの絵受け取ってるとこ見てたんだけど作者の男の人もイケメンでさ〜!」
「へ、へぇ」
作品そっちのけでイケメンにくいつく美央に若干引かなかったわけではないが、美央らしいといえば美央らしい。
「全然笑わないしそっけない感じだったんだけど、それがまたクールでかっこよかったんだよね〜。母さんが言うように、あの絵の女の人が恋人だとしたらまさに美男美女カップル! 羨ましい〜」
恋人、か。確かに自分の恋人をモデルに作品を制作する人は少なくないだろう。
しかし……
「でも、あの絵処分してって言ってたんでしょ?」
自分の恋人を描いた絵を、処分するものなのだろうか?
「それなんだよね。あんまり気に入った絵じゃなかったのかな? あ、でも、母さんに力作ですねって言われた時はちょっと嬉しそうだったけど」
「ふーん……」
「もしかして、別れた恋人とか!? 大好きだったけど親の反対で別れざるを得なくなって、最後に彼女の絵を描いたけど見るのが辛くて持ってきたのかも!」
「美央、ドラマの見過ぎ」
ロマンチックな妄想を膨らませて楽しそうに語る美央は、やはり園子さんの娘だなと思った。
そうこうしているうちに、授業開始のチャイムが鳴る。教室のドアが開き教師が入ってくると同時に、それまで談笑していた生徒たちは静かに席につき教科書を広げた。
教壇に立ち話をする教師を後目に、優子は窓の外に見える海を眺める。
朝凪町の海は今日も穏やかだ。
窓から吹き込む風は潮の匂いがした。
あの絵もこの匂いを感じているだろうか、優子はそんなことを考えていた。
優子の家は朝凪商店街のすぐ近くの朝凪団地にある。当然、学校の行き帰りは朝凪商店街を通る。贔屓目にも賑わっているとは言えない商店街。今日もいつも通りの静けさだ。優子はあれから毎日、作品展に立ち寄るようになっていた。なんとなくあの絵が気になってしまうのだ。まるで余命1ヶ月の病人を見舞う気持ちだった。もっとも、優子はその病人とは何の接点もないのだけれど。
驚いたことに、今日は作品展に先客がいた。もともとここは休憩所として作られた場所なので、昼間は近所のお年寄りが集まっていることはよくあるが、優子が学校から帰るこの時間帯はもうすっかり夕暮れなので人がいることはほとんどなかった。
その人はあの絵をじっと見ていた。後ろ姿で顔は見えないが、若い男性のようだった。
なんとなく邪魔をしてはいけないような気がして、優子は絵から少し遠いベンチに腰を下ろした。人がいることに気づいたのか、その男性が振り返った。優子と目があうと、一拍おいて会釈をし、そのまま黙って何処かへ行ってしまった。
男性は無表情だったが、一瞬泣いているようにも見えた。
邪魔をしてしまっただろうか。優子はなんだか申し訳ない気持ちになった。
ふと見ると、男性が立っていた場所に何か落ちていた。よく見るとそれは真新しい絵の具のチューブだった。さっきの男性のものだろうか。そういえば、何かがたくさん入った袋を持っていたような……。
外に出てみても、先ほどの男性はもうどこにも見当たらなかった。次会った時に渡そう、優子はそう思い絵の具を制服のポケットにしまった。
そしてあの絵をしばらく鑑賞したあと、帰路についた。
これが、私と彼の最初の出会いだった。