02. 大薮新平 檻の中
大薮新平は踊ると魔法が掛かるという、ふしぎな踊り子スキルを得て異世界に召還された。行き倒れたところを助け、介抱してくれたのは遊牧民の一家だった。体力も回復して、さあ旅立とうというところで気がつけば檻の中。彼は騙され奴隷として売りとばされたのだった。
三日程かけて小さな村に入った。
途中に一度宿場に入ったが、宿に泊まれるのは奴隷商人達のみ。自分達はずっと檻の中だ。抵抗しようとしたら槍の石突で容赦なく突かれる。彼らの目は異様に暗い。嗜虐の笑い一つ浮かべず淡々と暴力を振るってこっちの抵抗力を削るプロの所業だ。最後には槍を返して刃先を目元に突きつけてくる。そうなると刺される恐怖に両手を上げ降参するしかなかった。
金ならある。解放してくれと衣類の内側に縫いつけた硬貨を探し出そうとした。
……見た事の無い板切れにすりかえられていた。
「なんてこった……」
どうりでおばちゃん達が礼金を受け取ろうとしなかった訳だ。既に金目の物は奪われた後だったのだ。
「ちきしょう……ああっ、くそっ」
怒りは湧いてくる。しかしどうにも最後まで怒り切れない。あの人達は一応命の恩人でもあるのだ。困窮に喘いでた彼等の生活を目のあたりにしていたのも大きい。怒るには情が移り過ぎていた。毎日の食事はかなり貧相なもので、お爺さんは治療も満足に受けられず寝込んでいた。働き頭たる兄弟は、兵役に取られて居ない。税が高く生活が苦しいと毎日嘆いていたのだ。
もし、また出会ったら確かに怒るだろう。ふざけんなと叫ぶだろう。でも殴りかかれるかというと自信がない。貧しい中でなんとか頑張って生活してたのを自分は知っている。貧すれば鈍する。心も荒む。甘い考えかもしれないが、振り上げた拳に力が入らないのだ。なんともやるせなかった。
更に二日かけて町に入り、やっと馬車から降ろされた。降りる際、木製の手枷が嵌められヒヤリとしたが、長屋の様な小屋に入って牢屋に入れられた時点で手枷は外された。牢には三人先客がいた。
さてどうしようか。
手が自由になって踊れるようになった以上、実はそれほど深刻な状態ではないのだ。踊りのスキルを上手く使えば脱走できるだろう。問題はどうやって出るかだ。使える踊りはどれだろう。
あの【ワープする踊り】で瞬間移動して飛ぶか。駄目だな。また失敗して倒れたらどうしようもない。今度も誰かに助けてもらえるという保障は無いのだ。あれは最後の手段としよう。
【睡魔】は見張りがその場で眠ってしまい、牢の鍵が奪えなければ意味がない。
【魅了】は相手によっては効くかもしれないが、叫んで踊っているうちに仲間が次々出てこられたら困る。かなり恥ずかしい状況で失敗しそうな気がする。
【召還】はもっと駄目だ。誰か呼ぼうにもトリスタ王国の一行しか知らない。自分から逃げて来たのに無理矢理召んで頼る訳にはいかないだろう。牢屋の中に呼ばれても、連中だって困るだろうしな。第一ミモザばあちゃんのお守りは保管すると言って一度取り上げられたので今は持っていない。肝心の本人を思い浮かべられる触媒が無ければ召喚はできないのだ。
後は【姿を消すスピンターン】か……これかな。作戦立てればなんとか逃げ出せるかもしれない。見回りに来たところを姿を消して隠れ、不振に思って確認する為に牢を開けたところでこっそり逃げすとかどうだろう。でもそれだと俺一人だけでは無理だ。【姿を消すスピンターン】をしている最中は俺が動けない。この牢屋の連中に手伝ってもらわないと外に出れないのだ。
そうなると、問題は牢内のこの連中が信用できるかだ。以前デニスに聞いたが、奴隷には大きく分けて罪を犯した者と、罪も犯してないのに落とされた者の二種類がいた筈だ。
自分と同じ様に騙されて捕まったとかなら信用できるが、犯罪を犯して奴隷になった悪人とかだったら困る。一緒に逃げてる最中に襲われたり、囮にされる訳にはいかない。
今、牢の中にいるのは自分を含め六人。
目つきの悪いおっさん、青い顔のデブい兄ちゃん。体調の悪そうな少年。部屋の隅でうずくまったままの兄妹らしい幼い二人。皆疲れきった表情で、声もなく各々地面に座り込んでいる。この目付きの悪いおっさんが自分の警戒心を刺激する。道中少し話をしたが、何かにつけ相手を小馬鹿にした話し方をするので少しイライラした。ドラマ等では真っ先に裏切るタイプだろう。しかしここで下手に喧嘩して、いざという時に邪魔をされても困る。同行するなり置いていくにしろ、皆にはある程度説明して協力を得られないと困るのだ。何も言わず隙を見て自分だけ逃げ出すのも手だが、それでは後味が悪い。俺と同じ様に騙されて捕まったなら助けてあげたいとは思う。
苦手とか言ってられない。考えろ。ここは頭を使うターンだぞ。
チャンスはそう多くない。失敗してこちらの能力を知られて、手枷を嵌められたらお終いだ。まず誰が信用できるのか知る為にも少し話しかけよう。
「えっと……だ、誰かこれから俺達はどうなるか知ってる人いるかい?」
自分の問いに隅でうずくまる兄妹の肩がびくりと震えた。若者二人は無反応。ヤバそうなおっさんが鼻で笑いながら答えてくれる。
「まず身体の検査をされるだろうな。全部ひん剥かれて金目の物は奪われて着替えさせられる。ここに焼印の道具があれば、順番に奴隷の烙印を押されて戻される。後は準備できた奴から出荷されるのさ」
奴隷の烙印……
「焼き鏝みたいなのか?」
「ああ。額にな。死ぬ程熱くて十日は寝込むって話だぜ。子供にゃ耐え切れずに死んじまう奴らもいるらしい」
額を刺しておっさんがニヤつく。
うお……顔か。逃亡除けに誰にでも判るように目立つ場所にするのだろう。刺青どころか焼印だってよ。熱い鉄の棒を押し付けられるのを想像した途端、背筋が震えた。冗談じゃないぞ。そんなもんつけて日本に帰ったら、母さんと姉ちゃんが引っくり返る。『肉』なんて文字に似ていたら、親子の縁を切られるかもしれない。これは超ヤバイ。やっぱ無理にでも早く逃げ出すべきか。
新平は少しズレた方向で身震いしてる。
「……じゃあ、早ければ今晩中でもやられるのか」
「そこまで仕事熱心じゃねえだろ。せいぜい明日からだろうさ。ここに道具が無ければ次の町でだろうがな」
夜に逃げるなら今晩中か……
「どこに売られるんだ」
実際何をさせられるのかイメージが湧かない。鉄球付の鎖でもつけられて、畑で農作業でもさせられるのだろうか。畑が鉄球で溝だらけになりそうだな。
「色々さ。男なら鉱山、土木、剣に覚えがあれば見込まれて剣闘士っていう話もあるが、めったになれねえな。一番多いのが戦奴隷だろ、ドーマは南のワウルとの国境で揉めてるのか兵を集めてるしな。使えねえ奴、目についた奴は皆ドーマに送られて前線で使い捨てだ。まず帰ってこねえ」
「ちょっ?」
戦地に行かされて最前線で捨て駒。想像より遥かにヤバかった。忘れてた。この世界はそこら中で戦争してるんだ。
「娘は器量があれば娼館だが、まぁ、あいつなんかはどうかな」
俯いていた妹が、びくりと震えて兄にしがみつく。いや小さ過ぎるだろう。
妹を抱えたまま兄がおっさんを睨みつけるが、彼は意に介さず下卑た笑みを浮かべている。何が可笑しいんだろう。自分だって悲惨な未来が待ってるってのに。人を笑ってる場合じゃないと思うんだが。
「……みんなはどうして捕まったんだ」
おっさんに鼻で笑われた。
「そういうお前さんはどうなんだ? この国の人間じゃねえだろ」
「俺は……俺は奴隷じゃないが、無理矢理隣のトリスタに連れて来られた日本って国の者だ。仲間達と一緒にドーマに入る途中で……えー、魔獣に襲われ、逃げた砂漠で行き倒れたんだ。そしたら介抱してくれた人に騙されて馬車に入れられた」
「ぷはっ! 成る程。抜けてんな」
このおっさんは自分が馬車に入った時を見ている。あの間抜けを思い出したのだろう。
「そう言うあんたは?」
「俺? 俺はそうだな。町長の娘とねんごろになったら旦那が怒り狂って、刃物振り回したんだ。返り討ちにしたら町長が怒り出してこのザマさ」
嘘くせえ……本当かな。全然女にもてるタイプに見えないぞ。自分の事は話さないで、相手の情報を聞き出して利用するデニスと同じタイプと見た。俺じゃあ口ではこいつに勝てないだろう。なんか、話していると不快感が増してくる。他の人とも話してみよう。
「……僕は悪くない。僕は悪くない。悪くないんだ」
見るとデブい兄ちゃんがぶつぶつ呟いてる。ちょっと声を掛けづらいが仕方ないか。
「あんたは、どうしてこんなところに?」
「!……。聞いてくれ。僕は悪くないんだ。あいつだ。バーンズの所為だ」
「バーンス?」
何度か聞きなおしたが、どうにも要領を得ない。自分の理解が足りないのかもしれないが、横で聞いてたおっさんも怒鳴りつけたので説明が分かりにくいのだろう。どうやら盗みを働いて奴隷に落とされたみたいで、バーンズという奴に謀られたと言っているようだ。俺みたいな馬鹿が他にもいたというわけかな。現実逃避して、ここにいない相手の所為にしてる場合じゃないと思うが。指摘したら何故か逆上された。
次は体調悪そうに横になっている子だ。年は十三、四くらいだろうか。
「君はどうして?」
「……」
少年は答えない。目は開いてるので起きてはいるのだろう。腹を押さえて横になったまま無視された。無理に聞き出す事でもないけど……どうしたものかな。話題変えた方がいいのかな。それとも治療してやれば心を開いてくれるだろうか。
「どこか悪いのか?」
「……」
これも無視された。 ……仕方ない。残りの二人に聞くか。
「君達は?」
幼い兄妹に声を掛ける。警戒しているのか、妹は自分を一瞥した後、兄の胸に顔を埋めて出てこない。脅えてるなあ。兄貴もずっとこっちを睨んでる。痛々しい姿だ。
しゃがんで目線を下げて聞いてみるが答えてくれない。威圧してると思われたのか。もっと目線を下げなきゃ駄目かもしれない。地べたに這って見上げながら聞くと、やっと少年が答えてくれた。なんか呆れた様な顔をされたが気の所為だろう。後ろのおっさんが何故か笑っている。
「俺達は……奴隷狩りにあって……」
「……やっぱ、そういうのあるのか」
カウボーイよろしく縄が飛んできて、首に掛けられ引き摺り回される情景を想像する。詳しく捕縛された方法を聞いてみたいが、こんなに傷ついていてはそういう訳にもいかない。二人はそれっきり黙ってしまった。
さてどうしよう。一通り聞きはしたが、次の話題が見つからない。愚痴を言い合う雰囲気でもないよな。話が上手ければ色々な話題で皆を和ませて情報を聞き出すとかできるのだろうが、自分にそんな才能は無い。まさかこの段階で、じゃあこれから逃げるから皆も強力してくれというのは流石にマズいだろう。
沈黙だけが残った。
どうする。
これだけじゃ信用できる人なのか判断できない。しかし明日には烙印を押される可能性がある。顔に焼印を入れられるのは嫌だ。 ……なんか面倒になってきたな。もう決行してしまうか。 ……いやいや、たったこれだけで始めるのは、さすがに駄目だろう。おっさんあたりに裏切られたら終わりだぞ。
チャンスはそう何度もないんだ。捕らわれて手枷を嵌められたら自分も終わってしまう。町もそんなに大きくなかったので、無事外に出ても追っ手が来るだろう。無一文なので逃げ切れるかという問題もある。なら、あえて烙印つけられるのは我慢して大きな街に出てから逃げるべきだろうか……いやまて、ここを出て次に大きな街に着くという保証が無い。即買い手がついたり、次の馬車に乗っまっすぐ戦地へGO! という展開だってありえるのだ。ううん……
「おい神よ。見てんなら助けろよ……」
呟くが当然何も反応は無い。判っていたが、本当に当てにならない奴だ。
幼い兄妹は身を寄せ合って丸まっている。顔を覆って何も見まい、聞くまいとしている。まるで現実から目を背ければ、ここから逃れられると思っている様にも見えて痛ましい。あの二人だけも逃がしてあげたい。
悩んでいるうちに粗末な夕飯が配られた。しまった。牢を開けれない以上、鍵を持ったおっさんがやってきた今がチャンスだった。これでもう今晩は機会が無くなってしまった。
夜になった。
デブい青年は会話が通じない。喋るのは自分とおっさんのみ。しかしどうにも相性が悪くて会話が弾まない。おっさんは女の子が気になるのか何度かちょっかいを掛けては少女が脅え、兄が毛を逆立てた猫並みに唸り出すので気が気ではない。おっさんを制して、安心させようと二人に話しかけるが、彼等は自分にも敵意を向けてくる。周り全てに警戒してるのだ。傷つくなぁと思うが、こんな幼い兄妹が親と離されて閉じ込められているのだ。仕方ないだろう。
唸っている自分に、周りの囚人達は訝かしんでいるが誰も声を掛けては来ない。そうこうしているうちに暗くなり、皆は眠りだしてしまった。どうしよう、叩き起そうか。でもなんて説明する。もう踊りをバラそうか。しかしあのおっさんは信用できそうにないのから心配だし、ううう……。
『あははは。お前が囚人をまとめて脱出を指揮するって? アホじゃねえの。一番人の話を聞かないで飛び出す奴が、できる訳ないだろが』
デニスの笑い声が響く。
『そうですね。自重していただきたいとは思いますが、そこはもう御気性でしょう。優秀な指揮が取れる仲間を得て、その指示のもとで動かれれば存分に力を発揮される方だと思います。目先に飛びついて視野狭窄に陥り易いところがありますので、御自分で指揮をとろうとは思わない方がいいかと存じます』
イリスカが軍人らしい見方で慇懃無礼なことを述べる。
『皆少し口が過ぎないか。確かにチンペー殿は短慮で先走り人の話を聞かない傾向があってリーダーには向いていないが、一度走り出せばそこに必ず道を作りだせる力を持っておられるのだ。そこに理があると知れば、部下達はこぞって後を続くであろう。もっとも、何時も真っ先に逃亡する方向に走りだすのには、なんとかならないかと私も常々思っていたことではあるがな』
ラディリアが全然フォローになってないフォローをする。
うるせえよお前等。どいつも好き勝手言いやがって。そりゃあ昔から班行動の班長になったら、先生に怒られてばかっかりだったけど。中学の陸上部でも賞持ちが俺だけなのに、部長にしようという声は一切挙がらなかったけど。俺だって必要とあれば人をまとめることくらいできるんだ。目標を掲げて皆に声を掛けて気配りして調整して……うおえぇ、面倒臭え……い、いや違う。出来る。出来るぞ。俺だってそのくらい……
「――は!?」
我に返って顔を上げる。壁上の通気口の外が明るい。朝になってるのだ。見渡せば壁際に座っていたおっさんが起きていて、薄笑いを返してくる。それ以外の皆は未だ眠っていた。
しまった……寝てしまった。
アホだ。昨晩が脱出のチャンスだったかもしれないのに。寝るってなんだよおい。
「お……俺って奴は」
なんか凄い不愉快な夢を見ていた気がする。嫌な事を言い当てられたようで胸の奥が痛い。
頭を抱えて落ち込んでいると、考える間もなく奴隷商人が来て粗末な朝食を鉄格子越しに配りだした。槍を持った仲間が後ろに控えているので簡単に手が出せない。
もう来てしまったぞ。
どうするか。今がチャンスだ。看守を全員【睡魔の踊り】で眠らせて、鍵を奪って逃走か。でも未だ皆に何も話してない、準備もしてない。鍵を持ってそうな男は離れた廊下に立ってるしな。こんなタイミングで実行に移すのは流石に考え無しだろう。逃げるなら夜だし、ここはもう夕飯まで待つべきだろうか。
戸惑っているうちに配膳を終えた男は牢屋を出て行ってしまった。
「……」
男達を見送った後で、食事を取りながら自分の間抜けさに頭を抱える。
このままではいかんと皆に話しかけるが上手くいかない。おっさんに話を振れば小馬鹿にされ、青年に振れば愚痴が始まり、横になっている少年に振れば無視される。仕方なく隅でうずくまっている兄妹に話し掛ける。兄がヴェゼル、妹はクリオというらしい。成果はそれだけだ。
(えええ、どうする。話が進まんぞ。もう俺だけ逃げるか?)
なんかもう面倒になって来た。
脳内の片隅でそれみたとこかと女達の笑い声が聞こえる。気の所為だろう。
その時、ドアが開く音が響いて全員がびくりと反応した。次の食事は夕方だ。なにか別の用で来たのだ。何だ。
やって来たのは三人。どこかに移動するのか。それとも誰かを連れて行くのか。鍵を開けて一人が牢内に入ってくる。何度も新平を槍で突いた男だ。こうして見ると死の宣告人という気配を感じてなんとも怖い。青年なんか目を合わせまいと顔を伏せている。
皆が息を呑んで男が喋るのを待つ。
「お前だ。来い」
奴隷商が指した人物は――兄の腕の中で脅える幼い女の子、クリオだった。
「ひっ?」
「く、来るなっ」
クリオが顔を強張らせて兄にしがみついた。ヴェゼルが必死な形相で渡すまいと妹を腕の中に庇う。しかし、いかつい奴隷商の男にはかなわない。いきなり殴られて、その手の中から妹が引き摺り出された。幼い。まだ七、八才くらいだ。アンジェリカ王女より下だろう。
「やっ、やめっ……」
「ひぃぃやっ、やああああっ! ヴェゼェル!」
「黙れ」
泣き叫ぶ幼女を男が容赦なく叩く。二度、三度と手をあげる。
「待ってくれ!」
気がつけば幼女を殴ろうとする男の腕を掴んでいた。反射的な行動だった。
「なんだ、お前」
腕を振り払って、裏拳を振られたので咄嗟に避ける。それを見て男の目が細く座った。やばい、殴られる。牢外の男達も同時に動き出す気配を感じた。こっちもやばい。背後から槍で刺される?
「いや、だって何も殴る事……がっ!」
殴られた。暴力が本職の為か、かなり効いた。よろめいて腰が落ちる。
ぐったりしたクリオの髪を掴んで、男が立ち上がった。足元に縋りついたヴェゼルを容赦なく蹴り飛ばす。壁まで吹き飛ばされて転がったヴェゼルがうずくまって朝食を吐きだした。それでもなんとか追い縋ろうとするが、足腰が動かず手だけが空しく宙を掻く。一撃で動けなくなってしまったようだ。地面を掻きながら男を見上げるヴェゼル表情が絶望に染まっていく。
「うぁ……ぁ……」
(!……くそっ!)
他の囚人達は悲惨な光景に呑まれて誰も動けない。でも殴られた自分だけは瞬間沸騰で反抗心が燃え上がってしまった。理性はここで暴発するなと警告を鳴らしている。
(駄目だ。早まるな。だけど!)
「あぁー……」
「てぇめえっ!」
泣き腫らして兄に手を伸ばすクリオが目に入った瞬間、怒声をあげて立ち上がっていた。牢の外に顔を向け、槍を構えた男達と一度目を合わせる。二歩飛び下がって、即効踊りだす。踊りながらも脳内では後悔している。
(ああくそ! 俺って奴は!)
「……?」「あん?」
突然妙な踊りを始めた自分に男達が訝しげな表情を向ける。囚人達も同様だ。こんな状況で踊りだすなど訳が分からないだろう。頭がおかしくなったかと訝しむような顔を向けている。
かまわない。
足を踏み出し、腕を振り、両指をピンと伸ばし、アヒル口で叫ぶ。くらいやがれ!
「スゥリィィイプ!」
すっかり耳に馴染んだ言葉が脳裏に響く。
【睡魔の踊り】
「……う」「おっ……」「な……」
少女を掴んでいた男が呻いて倒れる。牢の外にいた男達も槍を取り落とし地面に倒れ込んだ。槍が転がる音が牢内に響き渡り、囚人達は突然倒れる男達から慌てて後ずさる。
床に崩れ落ちたクリオに兄のヴェゼルが這い寄って腕の中に掻き抱いた。
「クリ……クリオッ!」
「ああっ、ヴェゼェ……ひっひぐっ、あああ~!」」
クリオが兄にしがみついて泣き出した。ヴェゼルも離すまいとばかりに抱き返す。感動の一幕だったが、こっちは後悔真っ最中だ。思わず膝をついて頭を抱える。
「ああっ! やっちまったあ!」
結局、計画も何も全部台無しになった。頭を使ったターンは無意味だった。
(俺ってなんで、こうなんだ)
自分の馬鹿さ加減が恨めしい。最初は計画を立てていても、結局目先の事に飛びついて直ぐに駄目になるのだ。昨日散々悩んだのは一体何だったんだ。
しかし、やってしまった以上はもう走るしかない。切り替えろ。進むんだ。
立ち上がって呆然と見上げる囚人達に叫ぶ。
「くそっ! 逃げるぞ! ついてくる奴はいるか?」
新平は脱走を決意した。
次回タイトル:大薮新平 虜囚達と逃亡す




