第八話 4
手を置くとこれ以上があるのかというほど心臓がバクバクと動いています。服の裾を握ってシワをつけないように両手をくんで堅く握りしめました。
今日はアスルート帝国の宰相、エカチェリーナ様がお越しになる日です。
エカチェリーナ様は女性でありながら、優れた政治的手腕をお持ちで、実力で宰相まで上り詰めたお方です。
しかも色気の漂う美人さん! まさに女性の目指す理想像ですね!
そして、アスルート帝国の王子様の婚約者様であらせられます。エカチェリーナ様も王子様も両方知らない者はいないと言われるくらい政治的手腕で有名でその上、麗しい美貌の持ち主です。
まさに美男美女の組み合わせ! 嫉妬なんて恐れ多く、並んでいるのをみているだけで目が焼けそうと賞する方もいらっしゃいます。
しかし、そんな素敵な彼女ですが、今回ばかりはお会い出来ると素直に喜ぶわけにはまいりません。彼女の訪問はこの国ラーシェの命運をわけるものになるのですから。
うう。緊張します。息をすって、吐いて、覚悟を決めてから扉を開けました。
「―――」
廊下とは明らかに違う空気の流れがわたしを圧迫します。
しかしながらため息の出るような光景です。エカチェリーナ様と王子様も美男美女だと伺っていますが、陛下とエカチェリーナ様もそれに劣らない組み合わせ。
エカチェリーナ様の光を吸収する黒髪と陛下の光輝く金髪。その対比がなんとも言えず美しいです。窓から差し込む光がいっそ神々しいくらいのお二人を照らします。
「―――ですが、こちらの貿易路には海賊が出没していまして。ぜひ、ラーシェに協力していただきたいのですわ」
「なるほど。どこ出身の海賊かは既に?」
「ふふっ。ラーシェ……といったら面白いでしょうか? 違いますけれど」
「ははは。驚かせないで頂きたいな」
陛下とエカチェリーナ様はただいま、会談中です。お二人ともゆったりと笑みを浮かべ椅子に腰掛けていますが滲み出す雰囲気はどこか張りつめたもの。
お二人の姿に見とれていた自分を叱責し、しずしずとカートを押します。
考えに考えて、ブレンドしたお茶。帝国アスルートのお茶の特徴である渋みの強さ、ラーシェのお茶の特徴である香りの高さを生かしました。この対談がうまく言ってほしいという願いを込めて作ったオリジナルのブレンドです。
さぁ、美味しいお茶を注ぎましょう。
わたしに出来るささやかなお手伝いはこのお茶を美味しく入れること。
酸素をたっぷり含んだ沸かしたてのお湯を勢いよく注ぎます。こうした方が対流運動がより活発になって美味しいお茶が入れられるのです。
入れ終えたお茶を温めたカップに注ぎ、エカチェリーナ様の横に置きました。わたしに気づき、エカチェリーナ様は目線をずらして口元にうっすらとした笑みを浮かべました。
くっ……! なんて破壊力なのでしょう!
先ほどとは違った意味で胸がドキドキしてきました。浮き足立つ心を抑えて、陛下にもお茶を差しだそうとしました。
ですが。
「―――っ!」
妙な体重のかけ方をしてしまったようです。この前痛めた足首に激痛が走り、支えきれなくなった身体がぐらりと倒れます。
「危ないっ!」
陛下が手を出して下さったお陰で倒れずにはすみましたが、思わずカップから手を離してしまいました。大きな音をたてて、カップが床に叩きつけられ、絨毯にシミを作ります。
さあっと全身から血の気が引きました。遠のきそうな意識を叱咤し、頭を下げました。
「申し訳ありません!!」
あぁ……。大事な対談でなんて失態!
エカチェリーナ様の不興を買ってしまったでしょう。指先に血が回らずに冷えていきます。
最低です。
陛下の手助けも出来ないどころかその邪魔までするなんて……。どうしましょう。もしもこのせいでラーシェが不利になってしまったら……? 最悪の未来を想像してガクガクの膝が震えます。
息も詰まるような沈黙のなか、静かにカップを置く音がしました。
「ねぇ、このお茶貴女がいれましたの?」
「は、い……」
エカチェリーナ様のよく通る声にはあまり感情の色が籠もっていません。
「このブレンドも?」
「……はい……」
震えて声がうまく出せません。わざわざお聞きになるということは、お茶を零したばかりか美味しいものを入れる事さえ出来なかったと言うことでしょう。
―――お茶入れだけが誇れるわたしの特技なのに……。
わたしの中で 存在意義が揺らぐような感覚がしました。
そんな考えとは裏腹にエカチェリーナ様は「顔を上げてちょうだい」とお優しい声で仰いました。恐る恐る顔を上げると柔らかい笑みのエカチェリーナ様と目が合いました。
「紅茶、香りが凄くいいですわね。アスルート特有の渋みもありますし……、ラーシェとアスルートの茶葉のブレンドかしら。とても好みの味わいですわ。貴女、腕がいいのですね」
「いっ、いえ! 勿体無いお言葉です!」
帝国アスルートからすればたかが小国の侍女風情。しかも失態を犯したわたしになんてお優しい心遣い!
一生ついて行きます! つい叫びそうになりました。
その前に陛下の険しいお顔が視界の隅に移ったので留まることが出来ましたが。
「片づけなくて良い」
陛下はカップの欠片を拾うわたしに感情の籠もらない瞳で冷たく言い放ちます。
「この者を医務室に」
ズキリと胸がいたみましたが、それも仕方のないこと。たとえ、エカチェリーナ様が許して下さっても失態は失態なのです。国王陛下として許すことが出来ないのは当然でしょう。
騎士さんに連れられて、応接間を出る前。陛下がこちらを心配そうにみている気がしました。
次は三人称で交渉シーンです。7のリディアナ視点にて説明があるので読み飛ばして頂いて構いません!