第二十九話 四角い箱6
カートを押すたび、腕輪が悲しげな音をたてます。
青と白が交差した涼しげなデザインの腕輪を、わたしは付けていて良いのでしょうか。ルシアン様の私室の扉をたたく前にそうおもい、そっとポケットにしまいます。
アルフさんは別れ際アルフでいいよ、と軽やかに笑いました。
『お見合い相手だったアルフォンスじゃなくて、アルフとして、これからもよろしく』
どんな気持ちでそう言って下さったのかわたしには推し量れません。
けれど。わかるのです。
アルフさんがどれだけ優しいか。
わたしはもうその痛みを知ってしまったから。
気がつけばわたしはルシアン様のお部屋の前にいました。一応、役とはいえ婚約者なのですからお話しなくては、なんていうのは言い訳にすぎないとよく分かっています。……本音をいえば。
ただ―――無性にルシアン様に会いたくなったのです。
どこかに残る冷静さで年頃の女性が男性の部屋に用もなく入ってはいけないとおもい、夜のお茶入れを無理を言って代わっていただき、わたしはここにいます。
しっかりとポケットに腕輪をいれて、再度扉をたたきます。
「……お茶をお持ちしました」
「り、リディー!?」
ドタッと何かが倒れた音がします。先にお知らせしなかったので驚かせてしまったようですね。今日は一日お休みと言っていましたから。
ですが、声だけでわたしだと分かって下さるなんて光栄です。
「……リディー」
急に扉が開かれて、少し瞬きをしてしまいました。まさかルシアン様自ら扉を開けさせてしまうなんて。そんなわたしの反応をみて、ルシアン様が照れたように笑います。
「ごめん。今日は会えないと思っていたから、嬉しくてつい」
……くっ、ルシアン様、その台詞は勘違いを招きますよ? 胸がきゅんとしました。
「何かあったのかい?」
聡いルシアン様はわたしの変化にすぐ気付かれたようです。嬉しげな顔が一転して心配そうなものに変わります。
「少し……お話ししたいことが、ありまして」
安心させたくて笑いかけました。
「そうか……。おいで」
「……はい」
そうですね。ここで立ちっぱなしにさせるわけには行きません。ルシアン様のお優しさにあやうく本来の職務を忘れる所でした。わたしはお茶を入れに来たのです。
カートを押して中にはいるとつい先日も入ったばかりなのに、なぜだか懐かしく感じました。思えばまる一日ルシアン様のお側を離れたのは初めてでしたね。お休みの日も朝は必ずわたしがお茶を入れてしましたし。
「それで、なにがあったんだい?」
「……今日のことなのですが」
優しい声に促され、わたしはぽつりぽつりと話し出しました。
※
アルフさんのお名前を出さずに話したので、よく分からない上にたどたどしい説明ではありましたが、ルシアン様は急かすことなくと聞いて下さいました。
臣下の話にしっかりと耳を傾ける良い国王の在り方だとよく聞きますが、まさにルシアン様のことですね。流石です!
聞き終えるとルシアン様は何度も躊躇したように口を開いては閉じを繰り返し、ゆっくりと言葉を発しました。
「リディーは、」
何故かその美しい碧眼はおびえるような光りを帯びていました。
「私と婚約者になったから、彼の告白を断ったのか……?」
「へっ?」
なぜ、そんなお話になるのでしょう。驚いて見つめると、ルシアン様は睫毛を伏せて綺麗な瞳を隠してしまいました。
「リディーは、例え誘われても今までは乗らずにその場で断ってきただろう?」
「は、はい……」
お恥ずかしながら、一応この年齢ですし、何度か男性からお誘いを受けたことはあります。けれど、それはわたしではなくコトル家の身分ですとか、陛下付き侍女という役職などにつられた方でした。
ですが、今回は違います。アルフさんはただのわたしを、誘って下さいました。そんな彼をその場で簡潔になんて、わたしだけが楽な方法で断りたくはなかったのです。
「だから。本当は好きなのに、私との婚約が枷になっているのではないかと」
「ルシアン様」
そのお考えは頂けません。すっと目が細くなるのを感じました。
だってそんなの、アルフさんにもルシアン様にも不誠実ではないですか。人に責任を押しつけるような真似は絶対にしません。
ルシアン様ははっとしたように口を覆いうなだれました。
「失言だった。すまない……リディーはそんな事はしないってことは分かっているんだ。それでも、不安で」
ルシアン様……!
苦しげなお声に胸が締め付けられるようです。
わたしを自分の恋路に巻き込むという罪悪感を感じておられるあまりの言葉だったのですね。お労しい……!
罪悪感なんて感じる必要はありません。わたしはお力になれて嬉しいのですから。ルシアン様の恋のお手伝いをする事はわたしの勝手な我が儘です。本当に、身勝手な我が儘ですのに。
たまらなくなってわたしはルシアン様の手に自分の手を重ねました。
「わたしはルシアン様のお手伝いが出来るのが嬉しいです。ルシアン様の側にいることが幸せです。ですから、」
下からのぞき込むように俯いたルシアン様と目を合わせます。
「わたしを選んでくださってありがとうございます」
どうか伝わりますように。貴方のお側にいられる、貴方の力になれるというわたしの幸福が。
精一杯笑みを浮かべると、ルシアン様の目元が優しくゆるみました。
「リディーは、いつも私の望む言葉をくれる」
握った手を絡めるように取られました。え? と思う間もなく、お顔が近づきます。
そして。
こつり、と額がぶつかりました。
「ひゃ」
な、な、ななな!? とてつもなくお顔が近いのですが!?
「る、るるルシアン様」
「少しだけ、動かないで」
う、えええ……!
吐息が鼻先をくすぐり、腰が砕けそうです。
真っ赤になって、目線だけ動かすして見上げます。ルシアン様は目を閉じておられました。……睫毛まで艶めいていて美しいのですね。
「リディー」
「は、はいっ」
ルシアン様のまぶたが上がり、期せずして至近距離で目が合うこととなりました。
「俺にこんなことされると、困る? 嫌か?」
あ、人称が「私」から「俺」に代わっています。安心しておられるという事ですね。……ルシアン様とは正反対にわたしの心臓は破裂しそうですがね!
「え、ええっと! た、確かに息がし辛くなるので多少困りますが…………い、いやでは、ない、です」
おおふ。なぜかものすごく照れるのですが。
「そうか」
ルシアン様は悪戯っぽい笑みを口に乗せると、また目を閉じました。
えっと、少しと仰いましたがいつまで続くのでしょうかこの体勢……。そろそろ本当に心臓が持ちません……。
結局、解放されたのは大分時間をおいてからでした。ルシアン様は「そんなに長かったかな」と爽やかにおっしゃっていましたが、わたしには永遠のように感じられましたよ。持ちこたえた心臓を褒め称えたいですね!
開けている窓から夜の香りがふわりと漂います。
ルシアン様は珍しく夜着の胸元を開けてらっしゃいました。普段わたしが夜のお茶を入れに来るときは上まで締めてらっしゃるのでなんだか新鮮です。いつもわたしを子供扱いするルシアン様ですが、一応こう言ったところは気遣って下さっていたのでしょうか。
それにしても、僅かに除く鎖骨がなんとも色っぽいですね! わたしが同じように鎖骨を出していてもはたしてここまでの色気が出せるでしょうか。……ええ、出せませんね。それに、胸元をあけているとルシアン様の体つきが引き締まっていることが……って、わたしは何を。男性の胸元をみつめるなんて淑女失格ですね!
恥ずかしくなり視線をそらすと、ルシアン様の机に白いものが見えました。
白いもの―――それは、書類でした。
思わず立ち上がります。
「ルシアン様っ、すみません! こんな遅くにお話などしてしまって……お仕事たまってらっしゃったのに」
有能なルシアン様がこんな遅くまで仕事をなさるなんて滅多にありません。余程難しい案件でもあったのでしょうか。なのに、わたしは図々しくも……!
「お話聞いて下さりありがとうございました。お邪魔にならないうちに」
「待ってくれ」
出て行こうとするも、手首を掴まれました。
「あの……?」
「大した案件じゃないんだ。すぐに片づく。今日は少し集中力に欠いていただけだよ」
「そうなのですか?」
良かったです。
ルシアン様はやけに色っぽく微笑みました。
「きっとリディーのお茶じゃないと、駄目なんだ」
……それは。なんて幸せな台詞なのでしょう。
あんまりにも嬉しすぎる台詞に足下がふわふわします。ああ、ルシアン様。貴方という主に出会えてわたしは本当に幸せ者ですね。
「よければ少し待っててくれないか? 一緒に星をみよう」
ルシアン様からのお誘いにはい! と元気よく返事をしました。
ルシアン様とみる夜空はいつにも増して綺麗に見えます。星をみるルシアン様の青空色の瞳に星の瞬きが映ったのがこの上なく美しく見えてつい、星ではなくルシアン様ばかり見てしまいました。幸いルシアン様は星に夢中で気づかれなかったのですが、気をつけなくてはいけませんね。
ベットに横たわると今日ルシアン様がおっしゃった台詞が頭のなかで繰り返されます。
“もしかして、本当は好きなのに、私との婚約が枷になっているのではないか?”
本当は好きなのに、枷ですか……。
「いいえ……。いいえ、ルシアン様」
―――だって。
わたしがこんなにも焦がれるのはルシアン様、貴方だけなのです。




