第十四話 三度目の正直
かたりと手から手紙が零れ落ちました。手を当てていなくとも聞こえるくらい心音がうるさいです。
『お前の結婚相手を決める。引き継ぎを済ませて帰ってこい』
簡素な、だからこそ明確な事実を突きつけてくる手紙。
ああ。三度目の正直とでも言うべきでしょうか。
一度目は幼いとき。母が亡くなって王宮から出ることになるかもしれないと思っていました。しかし、陛下がわたしのお茶入れの才能を発掘してくださり、回避出来ました。
二度目はつい最近、帝国との会談の場を壊してしまった時です。あの時も陛下のお力添えとエカチェリーナ様の御慈悲で解雇を逃れました。
しかし、今回は三度目。今までのものは勝手な憶測で追い出されると思っていただけでしたが、今回はしっかりと仕事を辞めて帰ってこいと書いてあります。
―――っ嫌です。わたし、帰りたくない。ここに居たい……!
「……か」
助けて下さい。その言葉は誰の耳にも届かず消えました。
※ ※
散々考えて、考えに考えて眠ったのはいつもより随分と遅い時間でした。
そんな日でも陛下のお茶の時間に間に合うよう、朝にはしっかりと目が覚めます。こんな普段なら誇らしいと思える習慣ももう後がない今では空虚な気分になります。
けだるい身体を起こし、いつものように朝日を浴びました。
―――空はわたしの心を反映したかのような曇天でした。
イリアが居たのなら、もう少しマシな気分だったのでしょうが。生憎夜番のイリアはいません。
気分はまさしく最低辺を漂っていました。
本来ならばこんな気分のまま陛下の一日を決める朝のお茶を入れるべきではありません。ですが、陛下にお茶を入れられるのも後少しだと思うと、誰かと代わるのは嫌でした。
鬱々とした気持ちで、それでもお茶は美味しくなるよう、気を張って入れ、陛下の部屋をトントンと叩きました。
「入ってくれ」
「……っ」
……このお声が聞けるのもあと少しなのですね。そのあまりの喪失感に膝から力が抜けそうになりました。
パシッと頬をたたいて、笑顔を作ります。
「失礼します」
陛下はいつもどおり椅子に腰掛けて待っていらっしゃいました。
「おはよう」
「おはようございます」
笑顔はしっかりつくれているでしょうか。そればかりが気になり、眉を潜めた陛下に気がつくことが出来ませんでした。いつものように紅茶をお出ししようとして、陛下に腕を掴まれました。
「……なにかあったのかい?」
「っいいえ! なにも」
ぱっと腕を引き抜いてしまい、慌てて失礼しましたと頭を下げました。しかし、陛下は追及を緩めては下さいません。
「そうは見えないよ。体調が悪いなら無理には、」
「わたしがっどうしても来たかったのです!」
陛下の台詞を奪うように叫んでなんだか泣きそうになりました。陛下のお優しい気遣いさえ、どうしようもなく悲しいのです。さぞかし歪んでいるだろうと思いつつも笑顔を浮かべます。
「申し訳ありません陛下。やはり体調が優れないようです。お暇を頂いてもよろしいでしょうか?」
心配げにこちら覗く瞳を感じながら、決して目は合わせませんでした。目を伏せて押し寄せてくる熱を押さえ込みます。
「あぁ、構わない」
だが、と陛下は続けます。
「もし君が辛いのなら私は力になりたい。私に言えないことでも、誰かに相談して、どうか一人で抱え込まないでくれ」
ああ、お優しい、わたしの敬愛する主様。
「……は、い」
そんな声を絞り出すのがやっとでした。涙がこぼれる前になんとか笑顔を貼り付けて部屋を出ます。そして、扉にを背にずるずると座り込みました。
「……か。へい、か。陛下……」
陛下に対する無礼より、陛下と過ごす時間を削ってしまったことに対して悔やむ自分がどうしようもなく浅ましいと感じました。
※※
そのまま、倒れ込むようにベットに入りました。ベットに入って、起きたら全て夢だったら良いのに。
誰かがわたしの髪を梳く手付きで目が覚めました。
「……イリア」
「ごめんなさい。机の上に広げてあった手紙、読んだわ」
イリアの冷たい手がそっとわたしの目の下をなぞります。
「泣いた跡がある」
「いやだ、イリアぁ……」
シーツを握りしめます。
「実家に帰るのが……?」
それも勿論、嫌です。だって、あそこには良い思い出がほとんどありません。
平和に暮らしていたのに突然迎えが来て、家族同然に暮らしていたイリアと引き離されました。そんな思いをしてやってきたのに、わたしに注がれるのは平民の子、妾の子という侮蔑の視線。環境が変わって心細い中、頼りの母とはあまり話も出来ず……。一人のベット、一人の食事は幼いわたしには耐え難いものでした。
それでも、なんとかイリアがくるまでの日々を耐えられたのは陛下と出会ったからでした。
陛下は、私の光でした。
きっかけはわたしから。
小窓から見慣れない子供を見つけて声を掛けたのでした。
『一緒に遊ぼうよ』
その頃の陛下は母君を亡くされた時期で、表情の全てを消していました。抵抗されないのを良いことに引っ張り出し、光の下でみた陛下の麗しさにさらに嬉しくなり、子どもらしい我が儘さで連れ回しました。
それで……そう。なんだったでしょうか。わたしが何かに失敗して頭から水を被ってしまったんです。きゃあきゃあと叫ぶとその時、陛下が初めて笑ったのです。
わたしはその笑顔が嬉しくて。高慢にもわたしが彼を笑顔にするんだと思い込み、連日連れ回して遊びました。今思えばどんどん表情を見せてくれるようになった陛下にわたしは癒されていたのでしょう。
今はあの時とは違います。陛下付きの侍女になった事もあり、侮蔑の視線は注がれないでしょう。王宮も近いので、会おうと思えば友人達には会うことが出来ます。
それでも。
陛下にお茶を入れることは出来ません。イリアとも、一緒に過ごす事は出来ません。
実家に帰るのは嫌です。でも、そこまで辛くはありません。
「イリア……わたし、は」
その二つのことが一番辛いのです。
イリアは痛いくらいにわたしを抱きしめてくれました。肩を濡らす水がイリアが泣いていることを伝えます。
「嫌。嫌よ、リディー。行かないで。傍にいて。もう貴方と引き離されるのは嫌なの」
普段弱音を吐かないイリアの弱音。つられるようにわたしの弱音もどんどん溢れます。
「わたしもっ、嫌なの……! 陛下にっお茶を、入れていたい。イリアと、離れたくないっ。この瞬間が……永遠に、続いて欲しい」
叶わない願いです。それでも願ってしまう。
二人で幼子のように泣き、いつしか寝ていました。
再び目が覚めたのは夕方。ギシッと軋むベットに気がついたイリアも目を覚ましました。
「イリア、目が腫れてる」
「リディーも相当よ」
弱音を吐き出して空っぽになったからか、清々しい気分でした。
イリアがぎゅっとわたしの手を握ってくれます。
「私、決めたわ。リディーが結婚したら、王宮をやめてリディー付きの侍女になる」
「っそれは」
「駄目なんて、言わないで。私が、リディーの傍にいたいの」
奇しくもわたしが無理をするなと仰った陛下に言いたかった言葉でした。ならば、わたしはやめてとは言いません。代わりに宣言しました。
「わたしも、決めたよ。残り少ない時間だからこそ、笑顔で楽しむ。それで、妙齢になったら乳母としてまたここに戻ってくるの」
長いお休みをもらうだけ、きっとまた陛下にお茶を入れに帰ってきます。
「リディーらしい、素敵な考えね」
そう決意するとイリアが珍しく笑顔で褒めてくれました。いつも見せないのが勿体ないくらい、可愛い可愛い笑顔です。
笑いあって、朝にはすっかり本来のわたし達に戻っていました。