屈辱のナイフ
夜。ビルの光も電灯も消えた真っ暗な闇の中。地面には砂利が広がっている。そして電車の走る音だけがする。ここで俺はやらなければいけない事を今、やる。右手に買った新品のナイフを持って。
「ったくよ~。会社が何だってんだよ・・・ヒック。」
50mくらい先に50代の男が歩いている。派手に酔っ払いやがって・・・。俺の嫌いなタイプだ。たかが単純なストレスであんなになるなんて。俺には考えられない。まあちょうどいい。このバカな酔っ払いの男にするか。まず足音立てず近づいてみる。男の背中が大きくなっていく。・・・俺は男の後ろにいるが男は気づいてないようだ。真後ろにいるのに気づかないとは、やっぱバカかこいつは。危うく笑いそうになった。だがそのくらいマヌケなほうがやりやすいか。俺はこの時、急に鼓動が早くなっていくのを感じられずにはいられなかった。これからこいつを殺すと思うとどうしても興奮し、笑いが込み上げてくる。
そして、俺は
「おい、酔っ払い。」
と言った。酔っ払った男がゆっくりと真っ赤な顔をこちらに見せた時、持っていた右手のナイフを酔っ払いの心臓辺りに思いっきり突き刺した。
すかさず男はうめき声を上げ、目を見開いた。それを見て俺は
「死ね。」
そう呟いて男を刺した勢いのまま押し倒した。倒れた男はもう死んでいるようだった。だが、まだ俺の気持ちは収まらない。倒れた男にさらに何回も何回もナイフを抜き差しした。 これまで俺が受けた屈辱、戒め、絶望感。そんな気持ちをすべてこのナイフにのせて。ただただ、俺の気持ちが収まるまで・・・。
どれほどの時間がたっただろう。俺は呆然としていた。空が白くなりつつあった。まだ息が荒い。興奮が収まらないのだ。そして目の前には血だらけで元はなんだか分からないほど切り付けられた、物体があった。
近くで騒いでいるのが分かった。騒ぎは異常な速さで伝わっている。それでも俺はまだ周りを見ず、血だらけの物体を見ている。これは俺がやったんだ。そう思うともうこらえきれなかった。
「ヒャハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!!!!!!」
最高だ!初めてだった。これほどの充実感、満足感、そして達成感を感じたのは。
見たか!今まで俺を苦しめてきた奴ら!俺は人間を殺した!そしてもう人を殺すことなんざ何も感じない!俺はもうお前らとは違うんだ!そう思うだけで俺は感じたことのない幸福感を感じた。
俺の笑い声を聞いて騒いでた奴らは叫びながら散っていった。やっとうるさいのが消えたか。俺はその場で立ち周りを見た。目の前でおきたことが、ショックで動けない奴。血を見てパニックになる奴。冷静に警察に通報する奴。そして俺を見て呆然とする奴。この場にいる全員が俺に注目している。そのことが妙に心地よかった。おそらく俺が今まで注目されるということがなかったからだ。俺は現在19歳。この19年間、誰からも相手にされたことがない。俺は、いつも何かするたび、
「うわっ、キモチ悪いんですけど。」
「最低、ウザイ、もう消えて。」
「あーもう、一回死んでお願いだから。」
「うわっコイツ、臭いんだけど。」
そんな言葉を浴びせられる毎日。こんなのが19年も続けば誰でもおかしくなる。だがそれも今日までだ。今日から俺は生まれ変わった。「この世にいなくてもいいやつ」から「この世にいてはいけないやつ」として。こうすれば誰も俺を無視できなくなる。無視すれば殺してやる。自由に生きられる。これほど素晴らしいことなんてないだろう?
さて、もうここには用がない。移動しようかと思った時だ。
「最低。」
頭の中で何かはじけた。にらみ付けるように声のした方を見た。そこには中学生くらいの女子がいた。お前か。俺が今、最も聞きたくない言葉を発したのは。
周りの人が必死に彼女を静かにさせようとするが、話すことをやめなかった。
「最低だよ。それ人きっとでしょ。人を殺すことは人としてやっちゃいけないことだよ!」
あーイライラする!俺はもうこいつをめちゃくちゃにしたかった。中学生のくせに。生意気な口たたきやがって。
「んだよ、俺に口答えする気か?」
彼女は顔色を変えずに言った。
「当たり前じゃない。あなたはしてはいけない事をした。だから口答えするの。」
周りの人の声が大きくなる。
「そっか・・・。俺はな、お前みたいにいかにも自分の言っていることが正しいんだと思っているような奴が、一番ムカツクんだよ!」
殺す!せっかくうまくいってたのに、お前が来たせいですべてがブッ壊れやがった!年下のくせして俺に歯向って来んじゃねえよ!
俺は地面に落ちていた石を彼女に向かって全力で投げた。彼女は怯えることもなく飛んできた石を避けた。
「避けんじゃねえよクソが!」
俺は完全にキレていた。コイツさえいなければ気持ちよく過ごせたのに!そう思うだけでイラつき度は増していった。その後も怒りに任せ、石を投げ続けたがすべてかわされた。気づけば周りには彼女以外もう誰もいない。
「クソ野郎が!死ねえ!」
おれはついに彼女にナイフを向け突っ込んでいった。
もう3メートル。彼女は動かない。
1メートル。まだ動かない。
50センチ。ざまあみろ。さあ当たって死ね!
そう思った瞬間、真顔で彼女が俺に向かって言った。
「辛いよね。」
刺さった。ちょうどお腹の真ん中あたりだった。赤く暖かい液体が溢れ、手に触れる。今、こいつなんて言った?辛いよね、だと?バカなそんなわけない。俺の苦しみは絶対に誰にも分からないはずだ。
「分かってるんだよ、私。あなたが、苦しみから、逃げ出したくて、人を、ころし、たの。」
彼女が泣いていた。まるで本当に俺の気持ちを知っているかのように。
「あ、ありえない。俺はお前を見たことないし、知ってもない。」
「分かるの。私の友達が、あなたに、そっくり、だったから。」
完全に俺は固まっていた。どうすればいい?何をすればいい?こんなことになるとは思ってもなかった。俺はもう、完全に思考停止状態だった。そして彼女が話しだした。
「少し前かな。私の友達が、人を殺し、たの。そのとき、たまたま、近くにいた、私は、友達の、顔を見たの。その、顔は、・・・怖かった・・・。人の、顔じゃ、なかった。復讐の、ために、生きている、ような、そんな、顔だった。」
服の袖がもう真っ赤になっていることに、気が付かなかった。ただ、俺は彼女の発している言葉を聞くことしかできなかった。
「友達は、そのあと、学校で、自殺した。人を、殺しても、結局は・・・苦しみから、逃れられ、なかった・・・・と思うの。」
電車の通り過ぎる音が聞こえる。その規則正しい音は、俺が虚しい人間だと伝えているように聞こえた。
「ウソだ・・・。」
彼女の話はまるで俺のことをいっているようだった。だから否定したかった。俺は間違ってないと。正しいと。自分を信じていいんだと。でも、どこかで違うと行っている自分がいた。それを俺は認めたくなかった。
「だから、もう、こんなこと、しないで。こんなこと、しても、何も変わらないから・・・。」
「ウソだウソだウソだウソだあああああああ!!」
俺は彼女を押し倒し、血で固まったナイフで彼女を再び刺した。彼女はもう死んでいるようだった。だが俺の気持ちは収まらない。倒れた彼女にさらに何回も何回もナイフを抜き差しした。
「うわあああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!」
認めたくない!信じたくない!彼女の言ったことはウソだ!俺が正しいんだ!そう思い続け、狂ったように彼女を刺し続けた。ずっと。ずっと・・・。
「何しているんだ!やめろ!」
警官が来た。彼女をさし続けたナイフはもう赤黒くなっていた。俺は警官からナイフを奪われ、そして取り押さえられた。だが俺は叫び続けた。
「ウソだああああああああああ!!俺は間違ってない!!正しいんだ!!俺は自分を変えるんだあああああああああ!!!!!」
その後、俺は警察に捕まり、懲役7年の判決を下された。俺の刺した彼女は酔っ払っていた男と同じように誰だか分からなくなっていた。俺は自分のために2人殺した。自分を変えるために。しかし結局何も変わらなかった。終わってみればただの人。殺人を犯した人だった。つまり彼女は正しかったのだ。そして俺が間違っていた。
いつ、どこで間違えたんだろう。考えても考えても、答えは出てこない。そして俺はこう思った。そっか・・・。
「結局、俺は俺に負けたんだ・・・。」
彼女は自分に勝ち、どうしようもないこの俺の人生を変え、この世を去った。彼女がいなかったら俺は今、何をしていただろう。自殺か、また、どうしようもなく生きているかそれともまだ殺人を犯しているかもしれない。
だが今、ここで彼女に会えるのならば一言言いたい。たった一言。
「こんなくだらなくて、どうしようもない俺を救ってくれてありがとう。」
と。