end
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「レーナ、いる?」
アルが仕事終わりに店を訪れたのは、魔法が解けてから一月ほどすぎたころだった。
毎日会っていた彼に会えなくなって、さびしくなかったといえばうそになる。けれど本来ならいつものこうだった。毎日会っていたことのほうが珍しかったのだ。
「時計、遅くなってごめんな。持ってきた」
久しぶりに見た彼の顔は、細かった頬がまた一段とこけていた。目の下にくまが浮き、唇もかさかさに乾いてささくれ立っている。髪もつやがなくぼさぼさで、疲れがたまっているであろうことが一目でわかった。
私と逢引を交わしていた間にずっとほったらかしていたぶんの修行を今補っているのだから、ほとんど寝ていないに違いない。
顔を合わせていなかったのは、彼が忙しいから。私は一人勝手に気まずくてさけていたのだけど、アルはそんなことに気づくわけがない。ただただ忙しく毎日を過ごしていただけ、いつもの日常に戻っただけだった。
「なんか、俺これいつの間にか直してたんだな。なのに、それに気づかなくてずっといじってたんだ。毎日時計ばっかりいじりすぎて頭おかしくなったのかな」
乾いた笑みを浮かべながら、アルは時計をもとあった場所に戻してくれる。私は彼のために、久しぶりにあの滋養強壮の湯薬を作る。これを毎日飲んでいたころのアルは、顔色もよく元気だった。やはり効果はあったのだ。
「ありがとう、おばあちゃんも喜ぶわ」
「いつもなかなか顔出せなくてごめんって、ばあちゃんに伝えといて」
カウンターに座り、アルは煎じたての湯薬を飲む。いつも一口飲んでは顔をしかめていたのに、表情ひとつ変えずすんなりと飲んだ自分にアルは驚きの表情を浮かべた。きっと、おいしいと感じたのだと思う。
私が毎日まいにち煎じるたびに、少しでも飲みやすくなるよう工夫していたのもあった。けれどなによりも、彼が毎日飲んでいたからその味に舌が慣れていたのだ。
でもアルは、この店に毎日通っていたことを覚えていない。
「おばあちゃんから、お代は預かってるから」
「いいよ、別に。いつも顔出せばこうやって薬もらってるしさ」
にこりと笑う彼に、私は胸の痛みをおぼえた。ついこの間まで、彼は私のことを愛おしそうに見つめて頬を染めながら微笑んでくれていたのに。今はいつもの、みんなに見せるものと同じ笑みしか見られない。
あの時はその彼の表情にたまらなく罪悪感を抱いていたのだけど、なくなった今はそれがとても恋しく思えてしまう。
本当に、恋とは自分勝手だなと思う。
「……なぁ、レーナ」
「なに?」
「俺、ここしばらくのことあまりはっきり覚えてないんだけど、なにかあったか知らないか?」
私は内心、どきりとした。
「……別に?」
動揺を気づかれないよう、私は至って平静を装う。たしかにアルは魔法にかかっていたときのことを忘れているけれど、それに本人が気づくことはないはずだった。
銀時計の魔法でなくした記憶は、私と関わったときのことだけのはずなのに。
「懐中時計の鎖が新しく変わってたんだけど、なにか知らない?」
「知らないよ」
「レーナに頼まれて時計、いつの間にか自分で直してたみたいなんだけど、知らない?」
「知らないよ」
「まずかった湯薬がすんなり飲めるようになったんだけど、なにか知らない?」
「知らない」
魔法が解けたらまたもとに日常に戻るのではなかったのか。私は思わずアルを――アルの胸ポケットの中の銀時計を睨んでしまう。彼が魔法にかかっていた時のことは、私だけの思い出になるはずだったのに。
「レーナ、うそついてるだろ?」
「知らないって言ってるじゃない」
たまらずその場を離れようとする私の手を、アルがつかんだ。魔法がかかっていなくても、彼はこうやって強引な行動をするんだなと、私はなぜか冷静に思った。
「もしかして、レーナ、懐中時計に触った?」
「知らないったら」
「じゃあどうして俺、最近レーナに会えなかったのが寂しかったんだ?」
ふりほどこうとした腕を逆に強く引き寄せられ、私はアルの腕に抱きしめられていた。
「いつもなら、我慢できたんだ。我慢して修行していられたんだ。たまに顔が見れればそれで良かったんだ」
半ば乱暴に、彼は私の頭をかき抱き耳元に唇を寄せてくる。彼の腕に巻かれた腕時計があたって痛い。それほどに、アルは力強く私を抱いた。
「こうしたら、前にもレーナのこと抱きしめた気がするんだ。髪の香りがなつかしいと思うんだ。会えなかった間、俺、ずっとこうしたかったんだ」
「アル……」
「なんで急に、こうなっちゃったんだよ。ずっと、我慢できてたのに……」
それはもう問いではなく、彼の呟きだった。
「レーナのこと、こうやって毎日、抱きしめてたんだよな? 俺、なにも覚えてないけど、こうしたら久しぶりだなって思うんだ」
「……」
「俺、どれくらいの間、魔法にかかってたんだ?」
「……ごめんなさい」
こらえきれず、私は彼の腕の中で涙をこぼした。
「すこしでいいから、アルと一緒にいたかったの。アルの好きな人になりたかったの」
一度あふれた涙はなかなかとまってくれなくて、私は顔をそむけることもできないまま、涙でアルのシャツを濡らした。この腕の中のあたたかさが、たまらなく、恋しかった。
「アルのことが好きなの……」
嗚咽まじりに告げると、アルは私に口づけをしてくれた。
「レーナ」
名前を呼ばれ、何度も口づけされる。もう魔法は解けたはずなのに、アルは私を求め離すことがなかった。
「時計に言わされるよりも先に、ちゃんと、言いたかった……」
耳にこもる熱のこもった声。それに応えるように、私も彼の体に腕をまわした。
「俺、レーナが好きだ」
頬に、アルの熱い胸板と、懐中時計とがあたる。ひやりと冷たいはずの時計も、アルと私のぬくもりがうつって、お互いの鼓動を聞いてくれているようだった。
「レーナ、愛してるよ」
偽りではない真実の言葉に、私はもう、銀時計の魔法は必要ないと知る。これから先、ずっと彼は、こうして私のことを抱きしめてくれるのだから。
私もまた、銀時計に先に言われてしまった言葉を、ようやく口にすることができた。
「アル、愛してるわ」
END