怪しい客
――私に指名?
半信半疑でシェイラは女主人について部屋を出た。
言葉遣いや礼儀作法を叩き込まれる見習い期間を経て、人形娼婦は客の前に出る。まだ一ヶ月の新米娼婦のシェイラに決まった客はない。だから妙なことだった。
「あの、どうして私に?」
前を行く女主人の背中に問えば、愛想のない早口の答えが返ってきた。
「出来るだけ顔の知られてない子がいいってご希望なのさ。ここではお前が一番新しいからね。だから仕方なく呼んだんだよ」
――そういうことね……。
その説明で、シェイラはなるほどと納得した。
「へんな男でねえ、部屋に入ってもフードをかぶったままうろうろ……きっと花街に入るのも初めてなんだろうよ。正直お前の態度や接客には不安がたっぷりあるが、適当な相手にはちょうどいいだろう」
――余計なお世話よ。
むっとしてシェイラは口を曲げた。
正直この女主人とはうまくいっていない。
拾われた恩はあるが、拝金主義者で少女たちを「道具」としか思っていない利己的な人間だ。正義感の強かった父親譲りの性格から、シェイラはしばしばこの主人に反発し、煙たがられているところがある。つい先日もひと悶着あったばかりだった。
酔ってやってきた客が仲間の少女を連れ去ろうとし、彼女は男を突き飛ばして逃れた。正当防衛に違いないのに、女主人は少女を手酷く鞭で叩いたのだ。当然シェイラは食ってかかり口論になった。もうけにならなそうな客をあてがうのは嫌がらせに違いない。
「でもいいかい」
廊下の一番奥にある客室の前で止まり、女主人が姿勢よく振り返った。
「客は客だからね。極上の愛想を振りまくんだよ。気に入られたら給金をあげてやるから」
――うそばっかり。
そんな約束守ったためしがないくせに。
思わず顔をしかめそうになったが我慢して「はい、おかみさん」と素直に頷き、シェイラは部屋の中へ入った。
まるで貴族の館のように豪華な造りの部屋の中、客の男は窓辺に立っていた。
頭からすっぽりとグレーのフードを被っており、なんだかそわそわしている感じだ。傍から見たら、確かに怪しい。
「ようこそ、時忘れの館へ」
気にせずシェイラは臙脂色のドレスの裾をつまんでお辞儀をした。
ビロードのソファセットの向こうでぎくりと身をすくめ、男が振り返る。フードが背中にはがれ落ち、その顔が露わになった。
「……ああっ!!」
その瞬間、シェイラは見事“極上の愛想”を取り落とした。
「あなた! 昨夜の……!!」
――あの男!
呆然としたまま、シェイラは確かめるべく何度も瞬きを繰り返した。
黒い髪に青い瞳、芸術品のように非の打ちどころのない容姿――間違いない。目の前にいるのは昨晩シェイラの唇を奪った憎むべき相手だった。
「なんで!? なんでこんなところにいるのよ!」
「……何の話だ?」
青年が眉をひそめる。それを見てシェイラははっと息をのんだ。
「もしかして……私を捕まえにきた、とか……?」
思わず後ずさる。だが青年は渋面のまま、首を傾げた。
「は? 何のことだ? ……君とは初対面だと思うんだが」
――は?
顔をしかめたのは今度はシェイラの方だった。
「まさか……覚えてないの? あんなことしておいて?」
「何を言ってるんだ?」
「何を、ですって?」
愕然とする。ありえないそのとぼけっぷりにシェイラは青年に詰め寄った。
「とぼけないでよ! ゆうべ伯爵邸の廊下でぶつかって、それから中庭で会ったでしょ!」
「ろ、廊下?」シェイラの勢いにたじろぎ――青年は紺色に近い瞳をはっと見開いた。
「ああ! あれは君だったのか。すまない、急いでいたもので顔を覚えていなくて……でも中庭ってなんのことだ?」
「――はあ? 都合の悪いことは忘れようっての? このヘンタイッ!」
「へ、変態!?」氷水を浴びたように青年の顔が青ざめた。
「失敬な! 俺はこれでも伝統ある家柄の出だ! そんな風に呼ばれる筋合いは――」
「まだしらばっくれる気!? 強引に迫ってきたくせに! あのね、テキトーに遊ぶにはちょうどいいって思ったんでしょうけど、私は純な乙女なのっ! 恋とか結婚に憧れだってあるんだから! それをあんな――」
目の縁にぶわっと涙が浮かび上がった。青年がぎょっとした顔になる。
「はじめてだったのにーーーーーっ!!」
シェイラはその場に泣き崩れた。
人形娼婦は夢を見せるのが商売。絶対に客の前で取り乱したり悪態をついてはいけないのだが、そんなことはもうどうでもよかった。
「ええっ!? ま、まさか」よろめいて、青年がソファの縁に手をついた。
「俺はまた……またやったのか……!?」
「またですって!?」大粒の雫をこぼしながら、シェイラは顔を上げた。
「いつもああして女を弄ぶわけっ!? そうなのね! だから貴族ってサイテー! 殴ったこと悪いと思ってたけど撤回よ!! むしろよくやった私って感じだわっ!」
「……殴った?」
思い当たる節があったのか、青年が右の頬を押さえた。
「でもあなたの一言で私は終わりなのよ! ここを追い出されて……そうなったら全部おしまいよ! 借金も返せず、行き場もなくし、のたれ死ぬんだわーーーっ!!」
「ちょ、ちょっと待って、落ち着いてくれ!」
わんわんと泣きじゃくるシェイラの前で青年が膝をついた。
「俺はとぼける気もないし、君をないがしろにするつもりもない! ただその……昨夜のことは途中から覚えていないんだ。それで困ってた。でも君のおかげで何をしていたかわかった。そのことについてはありがとうと言いたい」
――ありがとう?
ぽんと肩を叩かれて、シェイラは思いきり首を傾げた。
どうしてお礼を言われなきゃならないのだろう。しかも命の恩人だとでもいうような、まじめくさった顔で。まったく意味がわからない。
それは青年自身についても同じだった。きりっと引き締まった表情も、育ちのよさをうかがわせる丁寧な口調も、昨晩キスされた時の軟派な雰囲気とは別人のようだ。でも姿形は紛れもなくこの男なのだ。そう再確認して、シェイラの感情は再び爆発した。
「なぁにがありがとうよっ! それを言うならごめんなさいでしょ!? 今時の貴族は謝り方も知らないわけ? それとも私のような雑草には礼儀は必要ないって言いたいの!?」
「心外だ!」青年が切り返してくる。
「俺は貴族である前に騎士だ。階級で差別せずに平等に尽くす努力はしている!」
「あなたが騎士ですって? へーえ、それが本当なら大変ね! 高潔の象徴ともいえる騎士様が酔っ払っていたいけな少女に乱暴……」
「うわああああっ!」
青年がシェイラの口を手の平でふさいだ。
「酔ってない! だんじて違う! これには深い事情があって――とっ、ともかく不埒な真似をしたなら、そのことは本当に申し訳ないと――」
「言い訳なんてどうでもいいっ!」
押さえつける手を払いのけて立ちあがり、シェイラは青年に人差し指を突き付けた。
「あなたは私の人生を狂わせたのよ!」
怒りのせいで、話が大げさになっていることも自分が何をしているかもわかっていなかった。ただ大事な青春の一ページが踏みにじられたのが悔しくて仕方なかったのだ。
「本当に悪いと思ってるなら誠意を見せてよ! 騎士は国の、人々の守護者となる誓いを立てるんでしょう? 私だってあなたが守るべき国民の一人よ。だったらちゃんと――」
「――わかった、責任をとる」
まっすぐに頷いて、青年がすっと立ち上がった。
――は?
ぽかんとするシェイラの前で、青年は懐から取り出した袋の口を逆さまにした。
金色のきらめきが赤絨毯の上に流れ落ちる。見たこともないような大量の金貨だった。
「責任をとって、君を身請けしよう。そのかわり――君にはしばらく俺の婚約者のふりをしてほしい」




