繁栄と退廃の都
ヴィクトリアは大公の居城や議邸のある中央区・ノーブルと、貴族らの邸宅がひしめく上層区、セント・エリス、活気あふれる商業区オーレーン、そして多くの人々の暮らす下層区・クレ・マリアに分かれている。
花街・ローザはオーレーンとクレ・マリアのちょうど境に位置する魅惑の繁華街だ。
夜の帳が降りる頃、路地にひしめく娼館の軒先に吊るされた薔薇を象ったランタンが、妖艶に揺らめき迷い込む者を誘い始める。
その誘路の最奥に、人形娼婦を囲う娼館がある。
彼女たちは客と交わることをしない、見せ物専用の娼婦である。だが一時一緒に過ごすにも、莫大な財貨を支払わねばならない。だがそれでも、極上の美女たちと限られた時間を過ごし、破滅していく男たちは後を絶たないのだった……。
――サイアク。
鏡の中の自分にむかって、シェイラはため息を吐き出した。
「時忘れの館」では、数人の少女たちが夜用の支度を始めていた。
もうすぐ花街の門が開く時刻になる。げっそりした顔で座っている場合ではないのだが。
「どうしたの、シェイラ・アルニー。いつもムダに張り切ってるのに、ため息なんてめずらしい」
隣で手鏡を片手に口紅をさしている少女が、ちょんと首を傾げた。
「うん、ちょっとね……」小さく笑ってシェイラはもう一度鏡をのぞきこんだ。
いらいらして寝付けなかったせいで、少し目が赤い。顔も腫れぼったい。“極上の美女”失格だ。女主人に見られたら「売り物にならないなら出ていけ!」と言われかねない。そうでなくとも言い合いばかりしていて折り合いが悪いのに。
だが追い出されることだけは絶対にあってはならない。何もかも終わってしまう。
亡くなった両親がだまされて背負った借金を抱えて、ハートランドの小さな街から都へ来たのが一ヶ月前。評判の美人だった母譲りの容姿のおかげで安宿に売られずに済み、人形娼婦になった。こんな仕事でも今は手放すわけにはいかないのだ。
――あの男のせいよ。
リボンやレースが溢れるテーブルの上でシェイラは両手を握りしめた。
――あいつが私に、キ、キスなんて――……
払っても消えない昨夜のいまわしい記憶。思い出すと怒りがふつふつと沸き起こる。
油断した。まんまと策略にはまった。お礼だと言ってあんな風に不意打ちで――
「もう!! 貴族の男なんて最低!」
同じ部屋にいた少女たちがびくっと体を震わせた。
「なによぉ大声だして。昨夜の伯爵邸のパーティから変よシェイラ。ほら、お菓子を取りにいった後あたりから。結局何も持ってこないしぃ」
昨晩一緒にいた青ドレスの少女が、クッションの海の中から眠たげに起き上がった。
「な、なんでもない。ごめんなさい」
ウエーブを描く長い金髪を揺すり、シェイラはバラの香りつきのおしろいをとった。
いけない、うっかり取り乱してしまった。勢いよくおしろいをはたいてごまかす。
人形娼婦には規則があり、恋愛をしたり異性と触れ合うことは厳禁なのだ。たとえ己の意思でなくてもばれたら過酷な罰が与えられる。だから話すわけにはいかない。
――はあ……なんでこんなことに。
はじめてだったのに……!
だが気が滅入るのは禁忌を破ったからだけではない。
殴ってしまったのだ、あの青年の頬を思い切り。
その後全力で逃げたが、まずいことをしたとシェイラは改めて気付いた。
相手は貴族。それもかなりの身分の。
彼は逃げた男たちになんとか卿と呼ばれていた。「卿」とは男爵以上の身分の貴族の尊称だ。田舎にいた時はよく知らなかったが、この娼館へ来てから一般常識的なことは色々叩き込まれてきた。人形娼婦を買う客はほとんどが貴族。だから彼らの伝統やしきたりから政治的役割まで、知る必要があるのだ。
幸いあの後大広間では見かけなかったが、このままでは済まないだろう。見つかれば……きっと首が飛ぶ。
――天国のお父さん、お母さん、私ももうすぐそっちにいくかもしれません……。
両手を組み合わせ、シェイラはくすんと鼻を鳴らした。
「……貴族が最悪なんて、今に始まったことじゃないじゃない」
ふと、抑揚のない冷めた声音が部屋の隅からあがった。
壁にもたれて座っている少女が、水タバコのパイプを唇から離しふうーと煙を吐いた。
「みんな大公の犬よ。飼い主の命令に言いなりの。議会を開くふりをして贅沢三昧。あたしら雑草が重税や労働で苦しもうが見向きもしない……」
ひとすじの白い煙はゆるやかに伸びあがり、やがて天井で霧散した。
ロザリアムでは人々は上層階級と下層階級の二つに分けられる。
上層階級とは古くから大公家に仕える貴族と、他国との貿易や商業で財を築き地位を得た都市貴族を指す。そして下層階級は、いわゆる街や村で暮らす庶民や労働者のことである。
国政は貴族の中から選ばれた三人の参事が取り仕切っている。そして他の貴族たちは年に数ヶ月議官として法律改正やさまざまな決議を行う議会に参席する義務が課せられている。だが実際は形だけで、ほとんどの議官が参会せず社交に明け暮れていることは周知の事実だ。
「大金は落としてくれるけど、だーれも期待なんかしてない……得るだけの人間には、失うばかりの人間の気持ちはわからないのよ……ねえ、そうでしょ」
うつろな目で部屋の中を見回し、少女は薄く微笑んだ。
アンドレアは貴族を憎んでいる。
彼女はロザリアム北部のトレンカという雪深い街から来た。そこは悪質な貴族が治める土地で、年々引き上がる年貢が払えずこうして売られる娘が多いという。
「……アンドレア、もう少し控えたら? 体に悪いわ」
テーブルを離れ、シェイラは再びパイプをくわえた少女のそばへ座った。
ハーブの香気を吸う水タバコは医療に使用されることもあるが、それでも過剰摂取すれば毒だ。シェイラと同じ十七歳であるアンドレアは、その中毒でだいぶやつれ生気のない顔をしている。
「いいのよ……あたし壊れたいんだから」
ふふ、とやけに赤く艶めかしい唇を歪め、アンドレアは影のように長く黒い巻き毛を指に絡めた。
人形娼婦たちの中には、生きるために現実を受け入れ気丈に生きる少女たちもいる。だが現実から逃れるためにつかの間の幻想に溺れる者も多くいた。
「なんてこと言うのよ」
絶望の中に漂う彼女たちを見るたび、シェイラはたまらなく悲しくなる。自分だって望んでここにいるわけではない。だが希望は捨ててはいけないと、必死に思っている。いつかこの場所を出て自由になれる日がくると……
「もしも……白馬の騎士様でも助けにきてくれたら」
天窓から差し込む夕日が陶器のように青白いアンドレアの顔に降り注ぐ。その光にこのまま連れ去られてしまいそうな気がして、シェイラは冷たいその手をぎゅっと握った。
「……なんて夢みても無駄よね。あたしたちはどこへいっても人形だもの」
遠くで鐘が鳴り始める。商業区オーレーンの中心部にある大聖堂の鐘の音だ。
豊穣の女神を称える鐘は、夜を迎える報せ。花街の扉が開く刻。憂いも、弱さも、涙も、本当の自分も忘れて夜の蝶たちが一斉に闇の中に舞う――
「アンドレア」ふらりと立ち上がった少女を引き留めようとシェイラは手を伸ばす。
「シェイラ! いるかい?」
その時ドアが開き、館の女主人が現れた。
「お前に客だよ。さっさと用意しな」




