もう一人の彼ー2
「やめて! 誰があなたお思い通りなんかに……!それにアズフェルトは臆病者じゃないわ!」
抱き寄せられそうになり、シェイラは必死に抵抗する。酷薄な笑みを浮かべたまま、わざとらしく目を瞠り、〈彼〉は「ははっ」と乾いた笑いを吐き捨てた。
「どこが? いつもびくびくして、遠ざけたり諦めて殻にこもるやつのどこが臆病じゃないって? オレだったら欲しいものはどうやってでも手に入れる。呪いだろうが何だろうが、もっと派手に抵抗して戦うぜ」
「彼は……大事な人たちが傷つく姿を見たくないから、どうしたらいいかわからないだけよ。あなたみたいに身勝手じゃない!」
「身勝手?」
「そうよ! 自分のことしか考えてないからそんな風に軽く言えるのよ。アズフェルトはそうじゃない。自分よりも周りのことが大切で大切で、守りたくて、壊されたくないから、じっと耐えているの。逃げてるんじゃないわ、ちゃんと戦おうとしてる。必死に前を向こうとしてるの。言葉にできなくたって、行動に表せなくたって……彼は戦おうとしてるんだから! 彼を侮辱しないで!」
暗闇にかすむ美しい男の顔をシェイラは思い切り睨みつけた。
なんて冷たい表情だろう。氷のように凍てついた瞳は少しも笑ってはいない。これはアズフェルトじゃない。彼であるはずがない。
こんな人に彼は渡さない――強い決意が芽生える。絶対に屈するものかと、ありったけの力で突き飛ばそうとした時、
「――あんた、変なオンナだな」
急に真顔になり、〈彼〉が力を緩めた。
「フツーはどんな性格してようが、この顔一つでたいてい女はなびくのに。何でオレを拒む?」
かわりに顔が近づいてきて、慌ててシェイラは相手の胸を押し退けた。よろめいて数歩下がり、〈彼〉が髪をかき上げる。
「あ、当たり前でしょう。だってあなたはアズフェルトじゃないもの。他の人たちには同じに見えても、私は違うってわかる」
「……同じだろ。顔も声も。少しぐらい中身が違ったって、入れ物が同じものならみんなそのうち受け入れる。どっちだって一緒だ」
「そうね。彼のうわべしか興味のない人たちの間でなら、あなたはアズフェルトになれる。でも彼を愛している人たちにとって、大事なのは『心』なの。同じ顔をしてたって、この世にたった一つしかないアズフェルトの『心』がなければ、見た目なんて何の意味もないのよ!」
小さな明かりの向こうで、〈彼〉の表情が強張ったのがわかった。溢れそうな思いを抑えきれず、シェイラは続けた。
「あなたはアズフェルトにはなれない! 全然似てないもの! どんなに偽ったって彼を大事に思う人なら、すぐに別人だって気が付くわ! 私だって。たとえば――そう! 首がなくなったって、羊とか馬だったって、絶対に見つけるもの!」
少し論点がずれたような気がするが、とにかく思いの限りをぶつけた。
向かい合ったまま黙っていた〈彼〉が、わずかに俯いた。強く否定しすぎただろうか――と少し後悔しかけたが、すぐにそれは杞憂とわかった。
「……ふっ……あははははっ」
突然腹を抱えて笑い出い始めた〈彼〉に、シェイラは目を丸くした。
「な、何よ。何がおかしいの。人がまじめに話してるのに!」
「だって、何でそこまで必死になるんだよ! 首なしって……あははは! あんた本当に変なオンナだな」
怒るシェイラをよそにひとしきり笑い終えて、〈彼〉はようやく顔を上げた。
「あー、おかしかった。ていうかあんたさ、あいつにホレてるわけ?」
「えっ!?なっ、何言ってるのよ! 違うわよ!」
不意打ちの指摘にシェイラは思わずうろたえた。<彼>がにやりと口角を引き上げる。
「だってさっきの、告まるで告白じゃねーか。へーえ……まあ、だからあいつも珍しく執着するのか」
「え?」
「でもバカだよなあ。オレと二人きりにするなんて。何ひとつ決められないクセに、変なとこで思い切がいいよな」
「何? 何の話? ていうか、もう、こっち来ないでよ!」
再び近づこうとする〈彼〉を遠ざけるため、シェイラは窓辺を離れた。ランプの置かれた丸テーブルを間に挟んで距離をとる。
「なあ、やっぱりあんたオレの女になれよ。あいつにはもったいない」
「い・や・よ! 何度言われても絶対、いや」
「つれないなあ。あんたオレと話したくてあいつをそそのかしたんだろう? 危険だと思わなかったわけ? オレはあいつとは違う。答えはいつも二つに一つ。他人の気持ちを汲んで迷ったりしない。今あんたをどうしたいかだって三秒で決められる」
ぴっと三本たてた指をひとつ、ふたつともう一人のアズフェルトが折っていく。
「……あなたシンクレアの『影』だと言ったわね。彼の心の闇だって」
「そう」
「それって人間なら誰にだって持っているものよね。悪ではなく。魔女がその部分を切り離したのは、魂を奪いやすくするため?」
「まあ、そうだな。心を二つに引き離せば抵抗力が弱まるからな」
「じゃあ……あなたがアズフェルトと手を取り合ってひとつになってくれれば、彼はもっと自分らしく生きられる?」
「はあ?」向かい側からテーブルに両手をつき、〈彼〉が思い切り顔をしかめた。
「あんた、ちゃんと聞いてたか? どこをどうすればオレとあいつが仲良くするって話になるんだ。オレは消えるつもりはこれっぽちっもないぜ」
「消えるじゃないわ。一つになるの。だってもともとあなたたちはそうだったはずでしょう? 一緒になって二人で生きるの」
「あのな、言っただろ? オレは主の命に従って――」
「わかってるわ。でも、それだけちゃんと自我があるなら、自分で考えることだって出来るでしょう?方法は一つじゃない。あなたがアズフェルトと一つになれば、呪いの完成も防げるし、あなたの望みも叶うわ。どう?」
「…………」
我ながらいい考えだと、シェイラは両手のひらを合わせた。顔をしかめたまま、〈彼〉は呆気にとられた様子で嘆息した。
「最初は消えろと言っていたくせに……いいのか? オレに頼っても。一緒になったらとんでもないヤツになるかもしれないぜ。それこそ、手当たり次第に女を口説き始めたり」
「そ、そんなことしないわよ。アズフェルトは紳士だもの!」
「どうだか。紳士の振る舞いなんて、フリだよ、フリ。男をそんなに信用するもんじゃないぜ。あいつにだって人並みに欲望はある。もしあいつが変わってしまったらどうする? それでもあんたは受け入れられるのか?」
挑戦的な問いかけにシェイラはうっと声を詰まらせた。予想図を思い浮かべて慌ててぶるぶると頭を振る。
「だ、大丈夫よ! あなたなんかにアズフェルトは負けないもの。万が一道を踏み外そうとしても……ひっぱたいてでも軌道修正するわ、絶対!」
「ははっ、そうだな。最初に会ったときも一発くらったし。遠慮ないよなあ。――でも、オレたちの問題が片付いたら、あんた自身はどうするんだ?」
「私、って?」
「呪いが成就しなけりゃ、シンクレアの勝ちだ。魔女の脅威はなくなり、偽の婚約者なんて必要ない。あんたも自由になれる。そうしたらどうする?」
――ああ、そっか……。
もしも〈彼〉がアズフェルトの一部に戻れば、魔女の呪いは消える。彼は明るい人生を取り戻して、自分はもうここにいなくてもよくなるのだ。
「確かに……そうなればこの契約は終わりなのよね。借金も返してもらったから、もう娼館に戻る必要もないし。そうね、急に自由って言われるとピンとこないけど……まずハートランドに帰って、お父さんたちに会いにお墓に行くわ。それから……」
――あれ?
チクリ。小さな胸の痛みを覚えた途端、言葉が続かなくなった。
先のことを考えようとすればするほど、拒否反応のように、息苦しさが増していく。言いようのない感覚にシェイラは戸惑った。
――どうして? ちゃんと夢だって、あるじゃない。
いつか故郷に戻って、両親の牧場を買い戻す。他にも色々と思い描いていたはずなのに。
――何でも好きなことが出来るのよ。うれしいでしょ?
ここを離れて。“偽の婚約者”ではなく、本当の自分に戻れるのだ。もうきついコルセットを締めたり、マナーや言葉遣いを気にして上品な振る舞いをしなくてもいい。舞踏会もダンスもお茶会もない。何もかも関係なくなるのだ。
――関係ない……?
そうだ、関係ない。あの美しいバラ園とも、アズフェルトとも。もうこんな風に彼の心配をする必要はなくなる。二度と会うことはなくなるのだから。
――なに? なんなの、これ……。
ズキズキと左胸が痛み出して、シェイラはとっさにその場所を手で押さえた。
自由、という言葉がぐるぐると頭の中を回る。自由、自由、自由――でも繰り返すたびに胸がどんどん締めつけられていく。
……違う。うれしくなんかない。
だって自由になったその時、もうアズフェルトには会うことは許されない。
自分はひとり。
その本当の意味は――『孤独』なのだ。
「どうした?」
はっとしてシェイラは胸元から手を離した。
毎日そばにいるアズフェルトの顔と見つめ合う。今は彼じゃない。けれどもうこの姿も見られなくなるのだと気づいて、目が離せなくなる。
「おい、どうしたんだよ」
――わからない。なぜ急にこんな気持ちになったのか。
だけど、途方もなく寂しかった。体中のすべての感覚が、その一つだけになってしまったかのように。
「……なあ、一つ訊いてもいいか。あんた、こっち側に来る気はあるか?」
視線を繋げたまま、〈彼〉が訊いてきた。意味がわからず「え?」とシェイラは問い返す。
「世の中には優越主義の人間が作り上げてきた悪習という壁がある。砕いて言えば『貴族』と『平民』のような。あんたは、もしもあいつが自分の意志を貫くと決めた時、その壁を越えてくる覚悟があるか?」
「え……何? 壁を越えるって。意志を貫くって何の話?」
「直感で答えてみろよ。もし来てほしいってあいつに言われたら来るか?」
さっきまでのふざけたような感じとは違う、まるでもとのアズフェルトに戻ったような真摯な眼差しが答えを促してくる。質問の意味はよくわからないが、シェイラは言われた通り思ったままを口にした。
「それって、アズフェルトが今後重大な決断をして、私に何らかの協力を求めたらってことよね? ……うん、そうすると思うわ。私に出来るなら」
それがアズフェルトのためになるのなら。
迷うことなく、すぐに答えに行きついた。
自分には何もない。けれど、出来る限り力になってあげたいと思う。彼には自分の人生を生きてほしい。今までの分も、幸せになってもらいた、そう思う。
「――どんなことがあっても? 怖がらずにこいつの手を取って、絶対に離さないって断言出来るか?」
「う、うん。出来ると思うわ。たぶん……ううん、きっと絶対にアズフェルトは私の手を離さない。だから、私もそうするわ。彼を信じて。……って、あなた本当に何の話をしてるの? さっきから」
何のための質問なのか、<彼>の真意が全然わからない。
「ふうん……まあ、いいか。嘘じゃなさそうだし。とりあえず考えといてやるよ」
「もう、だから何の話かさっぱり――」
「何のって、さっきのあんたの提案だろ。考えてやってもいいって言ってんだ」
「え?」
シェイラは目をぱちくりさせた。
さっきの提案というと、自分が言った『二人が手を取り合って一つになる』のこと、だろう。
そう気付いて驚きを抑えきれなくなった。
「ええええっ! 本当に? 本当に考えてくれるの!?」
「……どういう反応だよ。自分で言ったくせに」
「だ、だってあなた、素直に聞いてくれなそうな感じだし……。アズフェルトのこと、嫌ってるみたいだし」
「ああ、嫌いだね」間髪入れずに<彼>がきっぱりと言う。
「こんなうじうじしたやつ。それに女の手を借りてオレを説得しようとするあたりもいけ好かねえ」
「違うわ。あなたに会わせてって言ったのは私で――。それに会いたくたってアズフェルトはあなたに会えないわけだし」
「まあ、確かにあんた相当お節介で小うるさそうだもんな。……でも悪くない。お行儀のいい貴族の女たちには飽き飽きしてたところだし、付き合ってやるよ。――オレを口説き落としてみな」
耳元で<彼>が囁いた。
耳たぶに触れた吐息に、不本意にも胸がどきっとする。それを否定するために何か言おうとしていると、<彼>の手がすっと伸びてきた。
「そしたらあんたの言うこと聞いてやる。また会いに来いよ。待ってる」
シェイラの頬を指先ですっと撫で、<彼>はシェイラの足元で屈み、絨毯の上に転がっていた小瓶を拾い上げた。
そして親指で蓋を弾くと――中身を一気に飲み干した。




