彼女の提案
「……あっ!」
大事なことを思い出す。今は夕暮れ、夕暮れといえば、夕暮れといえば――
「ちょ、ちょっと待ってっ! もしかして“変化”!? 気つけを飲み忘れたの!?」
また襲われる!! 身の危険を感じて慌てて相手の胸を押し返す。だが二秒とたたないうちにまた抱きすくめられた。
「――違う」
重なり合う体温が、強くなる。
「あいつじゃない――これは俺だ」
耳に降りかかる吐息に、一瞬めまいがした。
「……君がうなされている間、生きた心地がしなかった」
苦しげにアズフェルトが声を押し出した。
「頭から離れなくて、仕事も手につかなくて……。君の呼吸が止まったら、君の頬が冷たくなったらどうすればいいか、そればかり考えてた。こんなこと今まで一度もなかったのに」
シェイラの肩に顔を埋めアズフェルトが身を硬くした。まるで傷ついた子猫のように。
「君を失うかもしれないと思ったら、怖くてたまらなくなったんだ」
アズフェルトの額にシェイラはそっと頬を寄せた。
本当はいけないことかもしれない。振りほどかなければいけないのかもしれない。でも出来なくて――夕色に染まる黒髪をそっと撫でる。そして強張った背中に手を添えた。
「……ここにいるわ」
ぬくもりが溶けあっていく。そして感じた。
アズフェルトが抱えてきた闇の在り処を。寂しさや――悲しみの宿る場所を。
このひとは優しくて真っ直ぐすぎる。だからうまく生きられない。貴族らしく、もっと傲慢に自分勝手になれれば、心を痛めて損をすることもないのに。
「大丈夫、あなたは一人じゃない。……私がいるわ」
そばにいてあげたい――強くて優しくて、でも時に脆いこの人のそばに。
迷った時、つまずいた時、やすらげる場所になりたい。
唯一彼が自分でいられる、この夕暮れの庭園のように。
でも、それは――……
叶わないその思いに、胸がチクンと痛んだ。
でも今だけは、手の届くところにあるこのぬくもりを感じていたかった。
「治るまではこれからは絶対に部屋から出しませんから! いいですね!?」
翌日、また熱を出したシェイラにサラは怒りの形相で言い放った。
まかれたことがよっぽど悔しかったのか、それまでほんわりと優しい妹のようだったサラは急に厳しい母親に豹変。看護を口実に片時も離れようとはせず、シェイラがベッドを抜け出さないように監視している。おかげで窮屈で仕方がなかったが、心配をかけた手前文句も言えず……シェイラは大人しく従うことにした。
けれど一日に一度だけサラの目が甘くなる時があった。アズフェルトが部屋を訪ねてくる時だ。
日が落ちる前にアズフェルトは顔を見せに来てくれるようになった。今日もお決まりの時刻に主人が現れると、サラは不気味なほどの満面の笑顔を浮かべてそそくさと部屋を出て行った。
「……別に急いで出て行くことないのに」
「ああ、気をきかせてくれてるんだろ」
いつものようにベッドサイドの椅子にアズフェルトが腰を下ろした。「よかった。今日は昨日より顔色がいいな」
「ええ、そうなの。熱も下がったし、もうすぐにでも動けるくらい元気よ」
ほら、と両腕を振ったり回したりしてみせると、アズフェルトが苦笑した。
「それはまだ同意できないな。もう少し様子を見た方がいい。急に動いたりして何かあったら――」
「もう心配性なんだから。大丈夫よ、都のご令嬢と違って田舎育ちで本来は体は丈夫だしっ」
「だめだ。重症だったのは事実なんだから、せめてもう一日は休んだ方がいい。それで何事もなければベッドを出ることを許可しよう」
「えーーっ、なんであなたの許可がないとダメなのよ!」
「それは――」
アズフェルトが言葉を詰まらせた。ひた、と二つの視線が間近で結ばれ、まともに見つめ合う。
「……と、とにかく、あと一日様子を見たほうがいい」
「う、うん。わかったわ」
はっとして目線を下に向ける。どちらともなく、そのまま沈黙した。
開いている窓から夕暮れの風がそっと吹き込んでくる。空はすっかり赤色に馴染み、夜幕を引く時を待っているようだった。
――もう、なんでいちいち反応するの。
鼓動の音がうるさい。聞こえてしまうような気がして、シェイラは慌てて話題を探した。
「きょ、今日はもう終わり? それともまたこれから騎舎に戻るの?」
「ああ――今日も戻るよ。まだ片付かない仕事があるんだ」
すまない、とアズフェルトが付け加える。
いつもほんの少ししか見舞えないことを気にしているのだ。「そんなことないわ」とシェイラは首を振った。
他愛もない話をして一緒に笑って。この小さな時間がくるのをシェイラはひそかに楽しみにしていた。
だから、じゃあとアズフェルトが立ち上がる時、ふっと気持ちが沈むのを感じる。
この時がもっと続けばいいのに――なんて思う自分がいる。
けれどそんなこと言えるわけがない。もっと一緒にいたい、なんて。
きっと困る。きっと戸惑う。でもアズフェルトは優しいから、無理をしてお願いを聞いてくれるのだろう。
「そんなに忙しくして大丈夫? あなたの方が倒れてしまいそう」
「はは、そんなにヤワじゃない。一応訓練もしているからな。それに今は多少は無理をしても、出来ることはやっておきたいんだ。それで少しでも、前へ進めるなら」
生き生きとしたアズフェルトの表情をシェイラは見つめた。
――なんか、ふっきれたみたいね。
最近のアズフェルトは前よりも一段と眩しく見える。迷いや不安などの曇りが消えて本来の輝きを取り戻したみたいに。
数日前の夕暮れの出来事がふと脳裏をよぎった。
きっと彼は自分の心の闇と向き合う覚悟をしたのだ。まとわりつく宿縁と、もう一人の“自分”と――。
あの時、自分は少しでもでも力になれたのだろうか。そうであったらうれしいと思う。
けれど、向かうべき未来を追いかける希望に満ちたその瞳を見ていると、複雑な気持ちにも駆られる。
やはり、住む世界が違うのだと――。
「ああ、こんな時間か。じゃあ、そろそろ行くよ。今夜は少し風が冷たくなりそうだから、窓を閉めておくよ」
懐中時計を確認し、アズフェルトが立ち上がった。
だけど、失ってほしくないと思う。
前を向いていてほしいと思う。自分自身のために。
「……アズフェルト」
「なんだ?」
窓辺からアズフェルトが振り返った。
「あのね、試してみたいことがあるの」
そのために、出来ることが一つある。
「私に、もう一人のあなたと話をさせてほしいの」




