最悪な出会い
「いないなあ……」
広大な中庭を見渡して、シェイラは呟いた。
夜の庭園は冬の名残を思わせるひんやりとした外気に包まれていた。
空には手が届きそうなほど巨大な満月。柔らかな光が、シェイラの佇む回廊を青白く染めている。
辺りに人気はなかった。広間の音楽や笑い声がかすかに聞こえてくる以外は、噴水が水を噴き上げる涼やかな音と夜風の囁きしか聞こえない。
少年に裏口の場所を教えて、シェイラは小ビンの落とし主探しを開始した。
少年が拾ったと言っていた中庭にいるのではと思って来てみたのだが、姿はない。やっぱり屋敷の中だろうか。
――別に……いいんだけどね。わざわざ探さなくても。
足を止め、手のひらのガラスビンをシェイラは見つめた。
貴族のことなんて、放っておくべきだ。届けたってきっと感謝はされない。むしろ盗んだと思われるかも。金持ち連中はいつだって横柄で高慢で、自分のことばかり。こうして関わるようになってから心底そう思う。きっと嫌な思いをするだけだ。
――それにあの人が本当に落としたかどうかもわからないし……。
もうすぐ劇も終盤だ。次に拍手が聞こえたらまた客たちのところへ戻らねばならない。遅れたら他の二人にも迷惑がかかってしまう。
――でも……
ふう、と小さくシェイラは息をついた。
「このままっていうのも後味悪いのよね。……もう少しだけ探してみよう」
『何事も簡単にあきらめちゃだめ。いいことも悪いこともあなたの大切な一部になるの』
亡くなった母の言葉を思い出す。そうだ、一度決めたのだから出来る限りやってみよう。
そう決めて屋敷の方へ方向転換する。だがそこへ、男が二人歩いてきた。
「おや、こんなところでどうしました? お嬢さん」
広間にいた客だ。金の房飾りや羽のついたその派手で悪趣味ないでたちには見覚えがある。ヴィクトリアには二種類の貴族がいる。領地と爵位を持つ正当な貴族と、商売で成功し富と地位を築いた、“都市貴族”と呼ばれる成金たちだ。彼らはその後者であろう。
彼らはロザリアムの財源を支える重要層だけに貴族層と繋がりが深い。だが悪質な商売をする者も多く評判はよくない。
絡まれると厄介だ。気付かれる前に去ろうと、俯きがちに礼をして通り過ごそうとする。だが男の一人に行く手を遮られた。
「よかったら我々と少しお話でも……ほお、これは美人だ」
シェイラの顔を覗き込んで、男が感嘆の声をもらした。
人形娼婦のお決まりであるレースのヘッドドレスと白いフリルのエプロンを外しているので、どこかの令嬢だと思ったのだろう。だが、もう一人の男がおや、と声を上げた。
「おや、どこかで見たような……ああ、伯爵が呼んだ人形娼婦じゃないか。そうだろう!」
とっさに俯きそのまま「……急いでいるので」と通り過ぎようとする。だがが、肩を掴まれ振り向かされた。
「ああ――あの二人の後ろにいた……見覚えがあるぞ。へえ、さすが安宿の女とは違って品があるな。言われなきゃ売婦だなんて気付かないくらいだ」
“売婦”、その言葉が突き刺さる。何度言われても慣れることがない痛みだった。
「ここで何してる? もしかして誰かと逢引か? 楽しそうだな」
男たちに挟まれシェイラは小さく震えた。髪を触られ「やめて!」と思わず叫ぶ。
「ははっ、なんだよ純情ぶって。娼婦だろ? 金が欲しいのならあとでやるよ」
「何するのよ! 離してっ!」
払いのけた手を掴まれ、回廊の外の暗がりへと引っ張られる。両足を踏ん張ってシェイラは抵抗した。
「――待てよ」
すぐそばで声が上がった。
ゴブレット型の噴水の向こう側から、男が一人歩いてくる。天空から降り注ぐ銀の光が映し出す、芸術品のような美貌。シェイラは目を瞠った。それはさっき廊下でぶつかった青年だった。
「悪いけどそれ、オレの女だから」
「はあ?」男の一人が怪訝な表情で前に出た。
「なんだよ、あんた」
「――聞こえなかったのか。それはオレのオンナ。その汚ねえ手をさっさとどけろ」
だるそうに髪を掻きあげながら、青年が男を見下ろす。紳士の象徴とされているクラヴァットはほどけ、襟元はだいぶ乱れている。初め見た時のきっちりした印象とはだいぶ違い、どこか退廃的な雰囲気だった。
「なんだと? 何様だよあんた――」
「お、おい!」
もう一人の男が怯えた様子で前に出た男の袖を引いた。
「やめろよ! お前知らないのか、この方はシヴォーレン候の――」
「シヴォーレン……て、まさか……シ、シンクレア卿――!」
男の声色が一変した。シェイラから離れ、二人はおどおどと後ずさる。
「――失せろ」青年の静かな恫喝に男たちは飛び上がり、
「ももも申し訳ありませんでした~!!」
叫びながら、一目散に屋敷の方へ走り去った。
「あ、ありがとうございました。助けていただいて――」
青年に向かってシェイラは頭を下げた。だがほっと緩んだ顔を上げた途端、目の前に大きな影が覆いかぶさってきた。
「へえ、美人。オレ好みだ」
魅惑的な美貌が間近。その顔を洗練された微笑みで包むと、青年はおもむろにシェイラの手を取り――口づけた。
「あっ、あああのっ!」突然の行動に驚いて、シェイラは慌てて手を引いた。
「さ、さきほど廊下でお会いしましたよね。角でぶつかって……。あの時はごめんなさい。それで私、あなたを探していて」
「オレを? ――へえ、そう」
甘い囁きが降りかかってくる。見つめられてどきまぎしつつ、その時シェイラは彼の瞳が不思議な色をしているのに気がついた。
――金色……?
まるで空に浮かぶ満月のような。確か廊下でぶつかった時は青い目だったような気がする。月光が反射してそう見えるのだろうか。魅惑的な虹彩から目が離せなくなっていると、端整なその顔がさらに近付いてきた。
「オレが忘れられなかった? 大人しそうなカオして、けっこう大胆なんだな。オレはそういうの嫌いじゃないけど」
「え、えーとあの……そうじゃなくて」
あまりの近さに直視できなくなって、シェイラは目を泳がせた。
――これって……口説かれてる?
出会ったばかりなのに、なんて軽薄なんだろう。
上層界の男たちにとって恋愛は狩りと同じ一種の遊戯。だから口説かれても絶対本気にしてはいけないと仲間の娼婦たちがよく言っている。
ときめいたら相手の思うつぼ。暇つぶしの遊び道具にされるだけだ。惑わされるものかと気を引き締めて、シェイラは営業用の笑顔を引っ張りだした。
「いやですわ、ご冗談を。私はこれを届けたくてあなたを探していたんです」
握っていた小ビンを突き出し、さりげなく距離をとる。それを見て、青年がかすかに目を見張った。
「ああ、君が拾ってくれたのか。ありがとう」
ひょいと指でつまみあげ、上着のポケットに落とす。その間にシェイラはさらに一歩下がった。
「いいえ。よかったですわ、お渡しできて。じゃあ私はこれで失礼します」
腰を落として優雅に一礼し、シェイラは踵を返した。さっさと逃げよう。仕事で媚を売るのはなんとか慣れてきたけれど、こういう状況は苦手だ。それに大広間の方から拍手が聞こえてくる。きっと舞台が終わったのだ、早く戻らなくては――
「待てよ」
だが回廊に上がりかけたところで、手首を掴まれた。
振り返ったシェイラの頬に青年の手が伸びてくる。後ろに下がろうとしたが柱に背が当たり、逃げ場をなくした。
「お礼もさせてくれないのか? もう少しいいだろ」
「ちょ……あの! 私お礼なんて別に」
いらない――そう言いかけた時、ぐいと腰を引き寄せられた。
彫刻のような美貌が迫る。魔性を宿した瞳が煌めいたのを見た瞬間、唇に温かく柔らかい感触が押し当てられた。
「……!?」
月影が溶け込んだ噴水の水が夜空にむかって大きく噴き上がる。
その向こうで大きな金色の満月が煌々と輝いていた。




