懺悔の花
「君が邪魔になったわけじゃない。むしろ逆だ。君にとって俺が害のある存在なんだ」
「いいわよ、本当のことだもの。私が傷ついたって誰も困らない。でも……あなたに迷惑はかかる」
だから早めに災いの芽は摘み取っておけとウィルは言ったのだ。
当然だ。きっと自分だって同じ立場だったら親友にそう助言するだろう。その判断は正しい。でも頭では素直に理解できても、なぜかシェイラの心はひどく傷ついていた。
「あなたは偉い貴族で大公のお気に入り。いつも注目を集めてる。私が何かミスをしたら、私のことに誰かがほんの少しでも疑問を抱いたら、あなたの名誉は台無しになる。そんなことになったら、あなたは何もかも失ってしまう。だからいいのよ、気を使わなくて――」
「違う、名誉のためじゃない!」
鋭い一声に、シェイラはびくりと震えた。
「もうそれしか……君を守る方法が思いつかないからだ」
ふらりと後ろに下がり、アズフェルトが項垂れた。
金色の風が二人の間を吹き抜け、アズフェルトの背後にある植え込みがざわめいた。枝先についた小さなピンクのバラがフリルのような花びらをひらめかせている。
「このままじゃ……同じことになる。俺たち一族は、やっぱり人を不幸にしか出来ない。でも俺は……父や祖父のように後悔だけはしたくない!」
握りしめた拳でアズフェルトは力任せにバラの植え込みを殴りつけた。枝が折れ、無数の花弁が無残に夕映えの空に飛び散った。
「なにしてるの、やめて! これはお父様がお母様の名前をつけたバラでしょう!? 大切なものなんじゃないの!?」
「大切? ――そんなんじゃない」
花びらとともに地面に落ちた小さな蕾を、アズフェルトの足が踏みつけた。
「父は母を愛してなんかいなかった……だから名前をつけたんだ!」
「え?」
悲痛な叫びに驚いて、シェイラは押さえつけていた腕から手を離した。アズフェルトの体が崩れ落ちる。植え込みの陰に座り込み、両手で顔を覆う。その肩は震えていた。
「父も、祖父も……添い遂げた相手を愛することが出来なかった。だから贖罪のためにバラに名前をつけた。愛しているふりをするために」
「どういうこと……?」
ガウンの裾を集めてシェイラは同じように地面にしゃがんだ。
「父や祖父には……昔大切に想う人がいた。心から愛する人が。……だが失った。“魔女”のせいで――。でもシンクレアの血を絶やさぬために、望まない結婚をするしかなかった」
心など必要としない。ただ義務的に使命を果たすために。それが変わらぬ貴族の定め。
「……心に深い傷を負ったまま母と結婚し俺が生まれて……父もそこに安らぎを見出そうとした。でも、出来なかった。だから母を置いて家を出たんだ。愛する者を失った悲しみや絶望を忘れられずに、同じ過ちを犯したくないという怖れから……逃げたんだ」
そしてバラに名を与えた。せめてもの償いに、愛することの代わりに。
罪の意識が生まれるたびに、この庭にはバラが増えていく。そして春がくるたび後悔の記憶が咲き、悲しみの香りが漂う。
「母はそんな父のために必死で努力していた。振り向いてもらおうと、愛してもらおうと……いい妻を演じ続けた。そして心を病んだ。……俺のことも憎み始めた」
「あなたを? どうして、何の罪もないのに――」
両手のひらに埋めていた顔をゆっくりとシェイラが上げた。青白い横顔に寂しげな微笑が刻まれる。
「……当然だろ。裏切られた男とその子供がまったく同じ顔をしているんだから。見分けがつかなくなるくらい、あの頃母は我を失っていた。だから父は俺を連れて屋敷を出た」
後悔の記憶を、噛みしめるようにアズフェルトが言葉にしていく。
「俺は何も出来なかった。母が声を殺して泣く姿を毎晩見ていても、慰めることも父に意見することもしなかった。『そういう運命なんだ』と片付けた父に反感を持ちながらも、どこかで納得してしまっていた。俺が守るべきだったのに、そうしなかった。――だから毎月母から手紙が送られてきても……一度も開けたことはない」
――手紙。
孤児院に行った日の朝食の席で、スミッティが持ってきたのを覚えている。シヴォーレンからだと言った。でもアズフェルトは読もうとしなかった。
「それで……ずっと遠ざけてるの?」
「今さら母に歩み寄る資格は俺にはない。その方がいいんだ。俺がそばにいれば母は父を思い出す。辛い思いをするだけだ。……俺たちは誰かと深く関わってはいけないんだ。誰かを愛したり、大切に思っては――」
きっと不幸にしてしまうから。立てた片膝を抱え、シェイラは顔を伏せた。
「本当にそうなの?」
潰れたバラの蕾をシェイラはそっと地面から拾い上げた。
「それは言い訳だわ、逃げるための。傷つけたくないから、避ければいいの? 見えないようにすればいいの? それじゃ結局あなたもお父さんと同じことをしてるだけじゃない」
アズフェルトの肩がわずかに動いた。
「確かにお父さんは深い絶望を味わったのかもしれない。でもいくらでも抜け出せる道はあったはず。再び幸福を見つけられたはず。だけど何もせず目を逸らした。だから傷つけたのよ。呪いや魔女のせいだけじゃないわ。自分で立ち向かおうとしなかったから」
「君に何がわかる! 俺たちの苦しみも知らないで勝手なことを言うな!」
顔を上げアズフェルトが叫んだ。
「ええ、私にはわからないわ! でもあなたは大事なことを忘れてる!」
蕾を握りしめ、シェイラはもう片方の手でアズフェルトの手を掴んだ。
「私もお母さんもここにいる。あなたの前に、あなたの手の届くところに! あなたはまだ何も失ってないのよ!」
掴んだ手をぐいと引き寄せ自分の頬に押し当てる。見開かれた青い目がすぐそばに近づく。
「目の前にあるものから逃げようとしないで。あなたには未来を変えられる可能性も力もあるのに、何もしないうちからどうしてあきらめるの? 守りたいものがあるなら、守ろうとして!……失ってからじゃ遅いのよ」
重ねた手にぐっと力をこめる。それと同時に熱いものが込み上げた。
「私はお父さんとお母さんを守れなかった。事故だったけど、もっと自分に力があったらって……そう思った。そうでなくてもせめてあの時一緒にいたらって」
ずっと閉じ込めていた寂寥感がよみがえる。両目がじんわりと熱くなった。
「でも私は立ち止まろうとは思わなかった。二人が残してくれた物を守りたかったから。二人はもういないけど、あきらめたくなかったから」
大切な場所だけは失いたくないから。だから前を向いて生きようと決めた。取り戻そうと決めた。
「出来るか出来ないかなんて、やってみなくちゃわからないじゃない。だめだったとしても何もしないで悔やむよりずっといい。一人で頑張るのは怖いけど……ずっと孤独じゃない」
手を離し、シェイラは潤んだ瞳をまっすぐアズフェルトに向けた。
「……あなたが命を賭けて守ると言ってくれた時、うれしかった。こんな私でも思いやってくれる人がいるんだって。だから私もがんばろうって思えたのよ。不幸になんてなってない。本当に久しぶりに笑えたの」
家族がいた頃みたいに。目からこぼれた小さな雫を、シェイラは指で拭った。
「それなのにばかみたいじゃない……信じてもいいかななんて思ったのに。なんで泣かなきゃいけないのよ! ずっと我慢してきたのに。よりによってあなたみたいな弱虫の前で――」
思い切りぶつけてやろうと思っていた文句はそこで途切れた。
アズフェルトの腕がシェイラの細い体を引き寄せ、抱きしめた。
熱い胸に目の前が塞がれる。握っていた蕾が手の中からぽろりと落ちた。
重なる体温に動揺して、シェイラは身じろいだ。その時赤みを帯びた空が目に飛び込んだ。




