会わない理由
――熱い。
燃え上がる紅蓮と黒の炎の中をシェイラは彷徨っていた。
焼けつくような痛みが全身を支配している。口を開けて空気を呼びこんでも、呼吸が楽にならない。まるで熱風を吸いこんでいるように灼熱が喉を焼き、気道が塞がれていく。
「……ぱり、……べきだよ」
赤黒い炎が迫ってくる。生き物のように蠢き渦を巻き、獣のように咆哮を上げる。
「……めに関係を……べきだ。彼女……めにも、君の……にも」
誰かの声が反響している。でも揺らめきたつ陽炎のようにぼんやりして姿は見えない。
体が熱い、腕が――足が――引きちぎれそうに痛い。
でも逃げなきゃいけない。火の獣が追ってくる。真紅の目を見開き、裂け上がった口を広げ飲み込もうとする。
「……もこのままに…………ない」
業火の先に小さな白い光が見えた。その中に誰かの顔がぼんやりと浮かぶ。
冷たく澄んだ水のような――青い……瞳。
お願い、助けて――
がむしゃらにシェイラは手を伸ばした。
「シェイラ!」
掴まれた指先の感触に意識が覚醒した。
閉じそうになる瞼を何度も押し上げ、視覚を動かす。すぐ真上から、若草色の瞳をした白い制服姿の青年が心配そうにこちらを見下ろしていた。
「よかった、目が覚めて! 大丈夫? 三日間もうなされていたんだよ」
三日間――ぼんやりとかすむ頭の中で繰り返す。どうやら――夢を見ていたらしい。だが悪夢から解放されたはずなのに、ずきずきとした痛みがあちこちにある。息苦しさと体の熱もいまだ消えていなかった。
「ウィル様……? 私……どうしたの? ここは」
寝台のそばに跪いて自分の手を握るウィルを見、シェイラは周りの景色をうつろな目に映した。
「ここはシンクレア邸だよ。君はサー・ハウスでのお茶会の途中で犬に襲われたんだ。ずっと意識不明だったんだよ。覚えてる?」
そう訊かれ記憶がよみがえる。そうだ、お茶会の途中でゲームが始まり、迷路に入って。襲いかかってきた狂犬の血だまり色の目を思い出し、シェイラは身を捩った。
「痛っ……!」
鋭い痛みを右肩に感じ、顔を歪める。違和感がして右腕の夜着の袖をめくれば、白い包帯がぐるぐると巻かれていた。
「無理しないで。肩と腕を噛まれてひどい出血だったんだ。そのせいで高熱を出してね。一時はどうなるかと思ったんだよ。目が覚めて本当によかった」
シェイラの左手を両手で握ったまま、ウィルが深い安堵の息をもらした。
「君を襲ったのは大公のかわいがってる猟犬の一匹らしい。でもなぜ中庭にいたのか……いつ檻から逃げ出したのか、騒ぎがあるまで誰も気付かなかったそうだ。それに普段は大人しくて、人を襲うことなんて今まで一度もなかったって……いったい何があったの?」
何が、あったのか――?
仰向けの体勢に戻り、シェイラは陽射しの破片が戯れる白い天井を見上げた。
あの犬の姿を見た途端、何かがおかしいと思った。
怖かった。あの赤い目が忘れられない。殺戮しか知らずに生まれてきた狂気の塊のような、異常な目だった。殺される、そう思った。
「……ごめんなさい、よく覚えてなくて」
痛みとだるさに耐えられず、シェイラは思考を手放した。
「いや、いいんだ。…ごめんね、今聞くことじゃなかったね。今は傷を癒す方が先決だ」
小さく首を横に振り、ウィルが安心感を誘う笑顔を見せた。
「……ありがとう、ウィル様。もしかしてずっといてくれたの?」
「当然だよ。愛しい君に何かあったらと思うと、心配で心配で離れられなくて……と言いたいところだけど、さっき来たところ。ずっと君に付き添ってたのはフィーさ」
「……アズフェルトが?」
それで気付く。
目が覚める前に聞こえた声はウィルとアズフェルトだったのだと。そして光の中に見えた青い二つの宝石、あれは……きっとアズフェルトの瞳。
「さっき出ていっちゃったんだけどね。……ちょっと怒らせちゃって」
「ウィル様が? どうして?」
何かあったのかと見つめれば、同じようにじっと見返し、ウィルは小さく苦笑した。
「……ごめんね」
明るい緑の双眸を伏せ、シェイラの手を離す。そして立ち上がった。
「サラに知らせてくるよ、目を覚ましたって。君はゆっくり休んでて。何も心配ないから」
安心してと今度はいつもの笑顔で言って、ウィルは寝台を離れた。
それから二日してようやくシェイラの熱は下がった。
怪我の痛みもだいぶ引いて、体調もよくなってきた。
寝込んでいる間は満足に食事も摂れなかったが、シェイラの体調に合わせてコックたちは毎日食事を工夫してくれた。おかげで体力も戻り、さらにその数日後にはベッドから出られるまでに回復した。
だがその間、アズフェルトは一度も姿を見せなかった。
毎日本やお菓子などの差し入れは届くのに、本人は現れない。シェイラがすっかり回復してもちらりとも見かけることがなく、さすがにおかしいと気付いた。
――わざと……会うのを避けてるんだわ。
それにどういうわけかウィルも顔を見せない。以前は呆れるほど頻繁に来ていたのに。
『ごめんね』
その意味もわからず終いで、ずっと胸に引っかかっている。
「シェイラ様! マグノリア姫様からまたお見舞いの品が届きましたよ」
仏頂面で籐椅子に揺られていると、大きな花かごを抱えてサラが部屋に入って来た。
かごにぎっしりと盛られた純白のユリを見て、シェイラはまたかとため息をついた。
昨日はバラ、今日はユリ……日に日に室内は甘く華やかな芳香で満たされていく。
事件のあった日からかかさずマグノリアから謝罪の品が届いている。おかげで部屋の中は見渡す限り、花、花、花。さすがにもう辟易していた。
「公女様は思いやり深いお方なんですね! あ、またお手紙がありましたよ」
つんと澄ました白い貴婦人たちを窓辺のテーブルに置き、サラが黒い封筒を持ってきた。
『一日も早く回復されますように。心からの祈りとともに。――あなたの友人より』
黒いカードの表面に浮かぶ流麗な白い文字。
――彼女は本当に無関係なの……?
突然あのゲームを始めたこと、誰一人姿が見えなかったこと、いるはずのない猟犬が現れたこと……。予期せぬ不幸にひどく心を痛めていると手紙には書かれているが、どうも偶然にしては出来すぎていたようにも思える。だからいろいろ話したいのに、どうしてアズフェルトは来ないのだ!!
――なんで来ないのよ。
気になって気になって、いらいらする。
そんなに顔を合わせるのが気まずいの?
それともどうでもいいの?
どうして避けられているのか、理由ばかり考えて気落ちして、ここのところ毎日それの繰り返しだ。
でもサラによれば家にはちゃんと帰ってきているらしい。ただ、近頃帰宅するとしばらくどこかに姿を消すらしい。その後は部屋にこもりきりのようだ。
――いる場所はわかっている。あそこだわ。
「……ねえサラ」
もうすぐ夕暮れ。
広大な中庭の向こうを見据え、シェイラは椅子から立ちあがった。
「ちょっと庭に散歩に出てもいい?」




