心の影
「はい、どうぞ」
食べやすいように包み直したほかほかのヌーフをシェイラはアズフェルトに差し出した。
どこか座れる静かな場所はないかとシェイラはアズフェルトを連れ賑やかな市場通りから路地に入った。
その途中小さな廃屋の庭にちょうどよい木陰とベンチがあったので、そこでおやつ休憩をとることにした。
「うーん、これこれ! 表がサクっで中がふわっとしてて……やっぱりヌーフは揚げたてが一番おいしい」
一口かじってシェイラは思わずにんまりと頬を押さえた。ヌーフを食べたのはいつぶりだろう。思い出に残っているままの素朴な味に心がほっこりと温かくなっていく。
「――本当だ、うまい。初めての食感だけど……いくつも食べたくなる気持ちがわかるな」
「でしょ? このじゅわーっと口で溶ける甘さが幸せなの。あ、砂糖気をつけて」
ハンカチを取り出しシェイラはアズフェルトの襟もとにかかった砂糖をささっと払うように拭いた。
仕立てのいい服だから汚れたら大変だ。するとすぐ近くからくすりと笑う声が落ちてきた。
「なんだか母親みたいだな」
少し目線を上げるとアズフェルトの整った顔が間近――シェイラは慌てて体を離した。
「ご、ごめんなさい、つい! お、大人なんだから自分でふけるわよね、あはは……」
心臓が飛び出しそうなのを笑って誤魔化し、シェイラは狭い木のベンチの端へささっとずれた。
――やだ、なんで急に意識してるんだか。
ヌーフをかじりながらちらっと横目でアズフェルトを盗み見る。
重なり合いそうなほどの距離にどきっとしてしまった。
アズフェルトがふいに見せる笑顔は――毒だ。危険だ。そんな風に思う。
今まで見た目に騙されて言い寄って来た男たちは何人かいたけれど、にっこり笑われても触れられても何とも思わなかったのに。
この人だけどうして違うんだろう?
――さすが魔女に気に入られるだけのことはあるのかも。
きっとシンクレア家の当主には、あらゆるものを引きつける引力のような特殊な何かが備わっているのだ。
妙に納得してしまって小さくうんうんと頷いていると、
「……こんな風にのんびりするのは久しぶりだ」
樹冠のすき間からのぞく空を見上げながら、アズフェルトがふっと微笑んだ。「いや、今まで一度もなかったかもしれない」
「一度も?」
「うん。物心ついた頃から、次期当主としての勉強や社交界での作法の習得に忙しかったからな。朝昼晩家庭教師がつきっきりだった」
「そんなに小さい時から!? 友達と遊んだりとかしなかったの?」
「しなかったな。でも同じ階級の子供たちはみんなそうだったから、疑問は感じなかった」
「そうなの……」呆気にとられてシェイラは目を瞬いた。
何だか想像するだけで息がつまりそうな生活だ「普通だった」なんて信じられない。
その頃の自分といえば、野ウサギを追いまわしたり近所の子供たちと遊んだり、とにかく動き回っていた覚えがある。「もう少し女の子らしくしなさい!」と母に何度言われたことか……。
「でも家族と過ごす時間くらいはあったんでしょう? どんな風だった?」
「……家族、か」細められたアズフェルトの目元がふっと翳った。
「正直、父や母との思い出は……何もないんだ」
「――え?」
「小さい頃から母とは離れて暮らしていたし、父も政務で家を空けることがほとんどだった。……父と母はあまりうまくいっていなくて、たまに三人で顔を合わせても静かに食事をとるくらいで、会話らしい会話もしたことがなかった」
「そんな――」
まさかそんな答えが返ってくるとは思わなくて、シェイラは言葉に困った。いけないことを訊いてしまったのかもしれない。微笑みの消えたアズフェルトの横顔に焦りを覚える。
「だから君のように温かい家族の記憶は俺にはないんだ。未だに母とは疎遠だしね」
――ああ、だから――。
スミッティが持ってきた手紙をアズフェルトは読まなかったのだ。
「お母様のこと……嫌いなの?」
たったひとりの母親なのに。
いったい何があったのだろう。気になって遠慮がちに尋ねると、
「……人をうまく愛せないのは、宿命なんだ。シンクレアの家に生まれた者の」
アズフェルトの青く澄んだ瞳がこちらを見た。
ふわりと吹いてきた風に梢が揺れた。
その影がうつろうアズフェルトの表情は、ひどく落ち着いて確信に満ちているように見えた。
「誰かを大切と思えば失うかもしれない。だから、なるべく関わらないよう避けて生きる。父も祖父もみなそうしてきた。その分持てるすべてをこの国のために捧げてきたんだ。……俺もそうやって生きようと思う」
――だから、結婚しないって言ったの?
誰かを愛することが弱みになってしまうから?
口に出そうとしたけれど、それを避けるようにアズフェルトはシェイラから視線を外してしまった。
――でもそんなのって。
寂しすぎる気がする。
大切な人がいるというのはとても幸せなことだ。たとえ側にいなくても、記憶や心の中だけの思い出になってしまったとしても――生きていくための大きな支えになってくれる。シェイラはそう思っていた。
すっかり冷めてしまったヌーフの包みを膝の上で握りしめ、シェイラはぽつりと言った。
「……ほんとにそれでいいのかな」
大切な人がいるというのはとても幸せなことだ。たとえ側にいなくても、記憶や心の中だけの思い出になってしまったとしても――生きていくための大きな支えになってくれる。希望になってくれる。シェイラはそう思っている。
「ずっとそうだったからって……でもあなたがお父様たちと同じように生きる必要はないでしょう?“宿命”なんて言葉で割り切っちゃっていいの? 私は大切なものや人がいるから人は強くなれるんだと思う。だって――」
そこまで言ってしまって、はっと口を押さえた。
――いけない、私偉そうに――。
つい口が滑ってしまった。アズフェルトの気持ちも考えず――。
呪いのことで彼が苦悩していることを知っているのに、これじゃまるで説教をしているように聞こえてしまう。
「あ、あの私――」
弁解しなきゃとシェイラは焦る。
アズフェルトは――人から愛される人だ。たぶん、そうあるべき人だ。彼のことを話す屋敷の人たちやミト、そしてさっき会った従騎士たちの顔を見ればよくわかる。だからそんな風に悲観的にならないでほしかった。そう伝えたかった。
見えない過去と、見えすぎる現実に惑わされずに。
「悪いな、暗い話して」だがシェイラが続きを言うより早く、アズフェルトはほがらかに話を打ち切った。
「食べ終わったらいこうか。せっかくだから色々見てみたいんだ。今日は案内してくれるんだろ?」
「あ……う、うん、そうね」
残りのヌーフを急いで食べ終え笑顔を返したが、もやもやした気持ちが残った。
お節介だと思われたかな。呆れられたかな。
そう心配になったけれど、たぶんもう何も言わない方がいいのだろう。
アズフェルトは穏やかな表情をしているけれど、唐突に話が終わった時、目の前でぴしゃりと扉を閉められたような気がした。それ以上踏み込んでくるな――そう言われたように。
廃屋を後にして、二人は市場通りに戻った。
さっきのことは気になったが、詮索はしないことにした。アズフェルトもことのほか市場に興味を示しているようだし、せっかくの楽しい外出を暗い気分で台無しにしたくはない。
「そういえば……今日はちゃんと“気付け”は持ってるの?」
ふと大事なことを思い出し、シェイラはアズフェルトを見上げた。昼になったばかりで夕暮れまではまだまだだが、これだけは確認必須の重要事項だ。
「心配しなくてもちゃんと持ってるよ。これからまた満月がくるから」
上着を軽く開き、ベストのポケットに入ったガラスビンをアズフェルトが見せた。
「月の満ち欠けで症状に差が出るんだ。満月に近付くほど変化が起こりやすく、新月に近付くほど軽くなる」
「へえ、そんな違いがあるの?」
「新月には浄化の力があるんだ。だから呪いが抑制される。ここ数日は体が軽かった」
「じゃあ昨日のはなんだったわけ?」
「……だから油断したんだ。弱まってもなくなるわけじゃない。予防は必要だ」
「やっぱりあなた……抜けてるわよね」
悪かったって、とばつが悪そうに苦笑を見せたアズフェルトに少しほっとした時、
「わあ。あれ、すっごいキレイ!」
色とりどりのガラスのアクセサリーが並ぶ露店が目に入り、シェイラは駆け寄った。
「ねえ、アズフェルトも見てみて……あれ?」
虹色に輝くブローチを手に後ろを振り返り、シェイラは首を傾げた。
そこにアズフェルトの姿はなかった。




