落し物
廊下に出て、シェイラは大広間の裏にある応接室へ向かった。
貴族のパーティは主に談話を楽しむ場なので、食事は出されないことが多い。かわりに応接室にはお菓子や軽食が用意され、客たちは好きな時にそれを取りにいくのだ。
余興の間はみんな広間に出ているはず。召使いたちもこの間ばかりは休憩を許されているはずだから、今が絶好のチャンスだ。
娼館ではお菓子など与えてはもらえない。客が口にするのを眺めているだけだ。そうでなくても高価な砂糖やクリームは下層の者に手が届く代物ではない。だからこうしてこっそりつまみ食いするのが、貴族のパーティでの唯一の楽しみだった。
――見つからないうちに急ごう。
勝手にうろついているところを使用人たちに見つかるのは気まずい。密告したりはしないだろうが、軽蔑の目で見られるに決まっている。同じ下層階級の中でも花街の者は卑しいと蔑まれる存在なのだ。誰も好き好んで身を置いているわけではないのに、そこにいるというだけで差別されてしまう。
前後に気を配りながら小走りに急ぐ。だが角を曲ろうとしたところで、飛び出してきた人影と思い切りぶつかった。
「きゃっ!」
「うわっ……!」
衝撃によろめいたシェイラの腕を、ぶつかった相手が素早く掴んだ。
「すまない! 大丈夫か?」
ひどく慌てた男の声。上を向けば、息を呑むほど整った青年の顔が目に飛び込んだ。
「すまない、急いでいて……けがはないか?」
二十歳くらいだろうか。黒髪に、吸い込まれそうな深い青の双眸。一目で上等とわかる白の三つ揃いをきっちりと着こなしている。
はっと我に返って頷くと、青年は「よかった。それじゃあ」と落ち着かない様子で言い置いて、シェイラの横を通り抜けた。
――びっくりした……パーティのお客、よね。
装いや雰囲気からして、招待客の一人だろう。探し物なのか青年は足元をきょろきょろ見回しながら遠ざかっていく。
――何してるんだろ……ま、いっか。
べつに気にする理由もない。気をとりなおしてさっと角を曲がり周囲に誰もいないのを確認すると、シェイラは応接室に忍び込んだ。だが中にはすでに先客がいた。
「あっ!」
お菓子が並ぶ中央のテーブルの向こうで、十歳くらいの少年がシェイラに驚いて飛び上がった。
素早く両手を後ろに隠す。だが慌てたせいで、持っていた大きなマフィンを取り落とした。
「あなた……どこから入ったの?」
転がってきたマフィンを拾い上げて、シェイラは少年を見た。
着古した服に、頭にはぺちゃんこのキャスケット。どう見ても伯爵家の子供ではない。
「お、おいら果物の配達にきたんだ。でもあんまりでけえお屋敷なんで見てみたくって……」
もごもごと言い訳して、少年が気まずそうに下を向く。
下町特有の訛り。青果市場で働く子供だろう。シェイラは笑った。
「大丈夫よ、怒ったりしないから。私もね、どろぼうに来たの」
目配せしてマフィンを差し出す。少年がおずおずと視線を上げた。
「ね、誰も来ないうちに一緒にもらっちゃおう」
大広間に通じる扉がしっかり閉まっているのを一瞥して、小声で少年に囁く。目を輝かせ、少年が「うん!」と大きく頭をたてに振った。
クロスのかかったテーブルの上には、銀の器に盛られたサンドイッチやクリームたっぷりのケーキ、ビスケットなどが並んでいる。ナフキンを取り、シェイラはその中にビスケットやマフィンを包んで少年に渡した。
「はい。見つからないように帰るのよ。……ん? ねえ、それなあに?」
少年の胸ポケットに入っているものにシェイラは目を留めた。
「さっき中庭の近くで拾ったんだ。きれいだから母ちゃんに持っていこうと思って」
少年が取り出したのはガラスで出来た小ビンだった。小さいが精巧な作りだ。中には琥珀色の液体が入っている。
「これ……お酒だわ」
ふたをとると、芳醇だがつんと鼻を刺す香りがした。かなり強い火酒に違いない。
「あら? 花の模様がある……紋章かな」
ビンのふたの部分に、小さな模様が彫られているのにシェイラは気づいた。
木蓮の花だ。それでふと思い出す。
確か貴族は象徴花というものを持ち、それを家紋にしている。招待客の持ち物に違いない。
落とし主は血眼になって探しているだろう。家紋入りの持ち物ならなおさら。
その時、さきほどぶつかった青年のことを思い出した。
そういえば彼は何かを探しているようだった。かなり焦っていた。もしかして――
「ねえ、きみ」
ビスケットをおいしそうに頬張る少年を、澄んだ空色の瞳でシェイラは覗き込んだ。
「これ私に譲ってくれない?」




