踏みにじられた花
近くで怒声が響いた。
広場の噴水のそばで、貴族らしき身なりの男が手に持つステッキを振り回している。
――あ……!
杖先が傍にいた少女の頬を弾いた。少女が石畳に倒れる。彼女の手から花かごが離れ、白い小さな花が辺りに舞い散った。
「そんな雑草なんていらんわ! 薄汚い売婦め! ここはお前のようなドブネズミが来ていい場所じゃない。さっさと消えろ!」
聖堂を行き来する人々や馬車の往来があるのにも関わらず、男はわざと人目を引きつけるように大声で怒鳴りつけている。そしてさらに力の差を誇示するかのように、落ちている花を次々と踏み潰し始めた。
「ひどい……何よ、あの男……!」
全身がかっと熱くなるのをシェイラは感じた。
「いやだわ、見て。あれ私娼街の花売りよ。薄汚い格好」
「それって花を売りながら客を娼館に引いていくっていうあれ? あんなに小さいのに卑しいこと」
周囲でひそひそと囁く声が聞こえる。
誰も止めようとしない。皆見ないふりをして、蔑むような目で蹲る少女を一瞥して、非情にも通り過ぎて行く。
――許せない……!
あの花一つが、彼女にとって生きるためにどれほど大切なものか――ぎゅっと手を握りしめシェイラが石段を駆け降りようとすると、
「――君はここにいてくれ」
やんわりと片手でそれを止め、アズフェルトは聖堂の石段を降りた。そしてまっすぐに男の元へ行くと、凛とした声を響かせた。
「その足をどけろ」
周囲のざわめきが変わった。
男がなんだ?というようにアズフェルトを見た。
流行りの服や装飾品で全身を飾り立てた出で立ちは、新興貴族の特徴そのものでなんとも悪趣味だ。
それに引き換え控え目な装いのアズフェルトを格下と見たらしく、男は尊大な態度に出た。
「なんだお前……今このおれに命令したのか?」
「そうだ。ここは女神を奉る神聖なる場所だ。その前で無法な振る舞いは謹んで頂こう」
「なんだと? 貴様偉そうに、何様のつもりだっ!」
男がアズフェルトにステッキの先を突きつけた。その先端部を――アズフェルトは瞬き一つせず、瞬時に片手で掴んだ。
「女神の御心に従い、民に忠義を尽くす誓いを立てた者だ。――ここはすべての民に等しく開かれた祈りの場。だが暴虐な行為で聖域を汚す者に足を踏み入れる資格はない。立ち去るのは彼女ではない――貴殿の方だ」
男を見据えたまま、アズフェルトは強い信念を帯びた声音で迫る。
ぐぐぐ、と杖の先が押し下げられていく。その気迫に圧され、男が一歩後ろに下がった。
「な、なんだよ……このガキが汚れた手で服を――ちっ……!」
気まずそうに舌打ちをして男はその場を立ち去った。
シェイラは急いで階段を降り、アズフェルトに駆け寄った。
「大丈夫!?」
遠巻きに眺めていた人の群れが分裂していく。何事もなかったように往来が動き出した。
「ああ、俺は平気だ。――大丈夫かい?」
その場にすっと膝を折り、花をかき集めていた少女にアズフェルトが声をかけた。
びくっと肩を震わせ、少女が恐る恐る顔を上げる。まだ十一二歳ほどの幼い少女だった。
痩せこけた顔は青白く、健康的とは言い難い。アズフェルトをとらえたガラス玉のような大きな薄青の瞳が怯えて揺らいだのに気付いて、シェイラは少女の隣にしゃがみ込んだ。
「あーあ……せっかくのかわいい花が台無しになっちゃったわね」
にっこりと微笑みかけ、踏まれて首の折れた花をそっと拾い上げる。
「……女神様にあげるお花を摘んできたのよね?」
はい、と差し出され少女がかすかに目を見張った。
彼女のような”花売り”は白昼堂々、このような目立つ大通りで客引きはしない。取り締まりの警邏の目を避け、夕暮れ頃から花街の路地裏にひっそりと立つのが常だ。きっと勇気を振り絞ってやってきたに違いない。
「中に入らないの? 女神様にお祈りに来たんでしょう」
シェイラの問いかけに、少女は頭巾で覆った頭をぶんぶんと横に振った。
「あ、あたしなんか……あんなきれいな場所に入れないから……ふさわしくないから、いいんです」
カゴを持って立ち上がり、少女はシェイラにおずおずと花を差し出した。
「あの、これ……もらってください。目立たないけど、“祝福”っていう名前の花なんです」
そしてアズフェルトを見上げ、気恥しそうに小さく笑った。
「き、騎士様……ありがとうございました」
お礼と一緒にちょこんと膝を折ると、少女はぱっと走り去った。
「……彼女は」
人混みの中に消えて行くその姿を見つめたまま、アズフェルトが呟く。シェイラは立ち上がった。
「あの子は“花売り”よ。花街には一人や二人は必ずいるわ。花を買ったお客を娼館に連れて行くのが仕事だけど……時には相手をしなきゃならないこともある」
「あんなに幼い子が? ……体を売るというのか」
「そうよ、生きていくために」
手の中の小さな花にシェイラは視線を落とした。
――生きていくため、貧しい者は時には自分自身を犠牲にしなければならない。それが唯一の持ち物だから。
「あなたやお金持ちの人にはわからないかもしれないけど……そうやって自分のために自分を削らなければならない人はたくさんいるの。この美しい都の片隅に――この国のあちこちに」
そっと、背後に聳え立つ大聖堂を振り仰ぐ。自由と平等を掲げた白亜の殿堂――本当の意味でその加護を受け取ることの出来る者がほんの一握りであることを、女神はご存じなのだろうか。
「……そうか。俺は、何も知らないな」
「え?」
アズフェルトの呟きが聞こえた時、広場に再び鐘の音が鳴り響いた。
鮮やかさを増していく青空から、澄んだ音色が降り注いでくる。陽射しにきらめく噴水が一際高く噴き上がり、ダイヤのようにきらきらと水が弾けた。
「きっとまだ……何も見えていないのかもしれない」
同じ方向を見つめたままのアズフェルトの横顔は、大きな衝撃を受けた後のように悄然としていた。憂いに沈むその青い瞳が何を求めているか――シェイラは直感的に閃いた。
「ねえ、じゃあ――見に行く?」
アズフェルトの鼻先を小さな花でちょんと突き、にっこりと笑う。
「見に行く? あなたがまだ見えていないものを」




