黄昏に馳せる思い
「……君は強いな」
独り言のようにアズフェルトが言った。
「強くなんかないわ……何度もくじけそうなったもの。こんなんじゃ牧場を買い戻すなんて無理かなーって」
「牧場? 借金のカタに取られたっていう君の家か?」
「そう。あのね、いつかあの牧場を買い戻すのが私の夢なの。人形娼婦になったのもそのため。一生かかっても無理かもしれないけど……」
アズフェルトに向かってシェイラは破顔した。
「ね、あなたの悩みとはだいぶ違うけど、私だってこんな大きな壁の前にいるのよ。どうしたらいいかなんてわからない。自分に何が出来るのかも。でも諦めないつもりよ。なのにあなたはもう弱腰? それこそ侯爵様の名が泣くわよ」
アズフェルトの鼻先にシェイラは指を突き付けた。
「ていうか、あなた贅沢よ。大公の信頼を独り占めして、頼れる親友もいて、この家の人たちにも本当に好かれてる。さっき自分の持っている物は家名のおかげだって言ったけど、そんなことないわ。みんな本当にあなたが好きなのよ。これでも私、色々大変な目に遭ってきたせいで人を見る目はあるの。もっと自信持ちなさいよ。あなたはそのへんの甘ったれたお坊ちゃんたちとは違うわ。ちゃんと努力すること知ってるもの」
「……君は変わってるな」
ふっとアズフェルトが笑みをこぼした。
「口答えはするし、説教はするし……他の娼婦たちとは違う。君に出会う前、何度かこの仕事を任せられる者を探しに花街へ出向いた。でも俺が貴族だとわかったら、一人残らず色目を使ってきた。正面から遠慮なくぶつかってきたのは君がはじめてだ」
ほめられているのか、けなされているのか。複雑な気持ちでシェイラは肩を震わせるアズフェルトを見た。
「これが私よ。口うるさくてかわいげがなくて……でもエサに釣られたのは私も同じよ」
肩をすくめ、ぺろりと舌を出す。「借金返済の条件に目がくらんだもの」
「……そうだとしても、君は――やさしいよ。それに誠実だ。昨日も立派に婚約者のふりをこなしてくれた。見事だったよ、誰も疑いもしなかった。感謝してる」
「別に」アズフェルトの真摯な眼差しに、シェイラはたちまち決まりが悪くなる。
「あれは……自分のためにやったのよその、あなたを見返してやろうと思って」
「はは、そうか。でもそれでも構わない。ありがとう……さっきの励ましも」
うれしかった、と言われ少し照れる。夕陽が染み込んだようにほんわり胸が温かくなった。
「君にはたくさん借りが出来た。でも俺は……君に取り返しのつかないことを。どうやって償えばいいのかわからないが、出来る限りのことはしたいと思ってる」
「あ、あの。そのことなんだけど――」
シェイラは目を泳がせた。すっかり忘れていたが、言っておかねばなるまい。
「私、感情が高ぶっててだいぶ大げさに言っちゃったみたいなんだけど……あの夜私たちは一線越えたりとかは……してないの」
「……え?」
「その~~、確かにキスはされたけど……それだけだったの。その後私逃げちゃったから。だからなんていうか……おあいこ? 私もあなたを思い切り引っぱたいちゃったから」
ぽかんと口を開けたままアズフェルトが固まる。そして空気が抜けたようにしゃがみ込んだ。
「何も……なかった?」
「まあ、それ以上は」
「……そうか、ああ…………よかった」
項垂れたまま、長い安堵のため息をアズフェルトが吐きだした。
――そりゃ、当然よね……。
間違いはなく、面目を保てたのだから。その反応になんとなくがっかりしていると、
「……君が無事で、本当によかった」
「え?」
しゃがんだまま、アズフェルトが顔を浮かせた。
「君に一生の心の傷を与えてしまったのかと。……君が逃げてくれて本当によかった」
――もしかして、私の心配してたの?
自分のことでなく?
意外な反応に驚いていると、アズフェルトが立ち上がった。
「でも傷つけたことには変わりない。それについてはその、好きに罰してくれていい。煮るなり焼くなり、……出ていくならそれでも」
ぎくしゃくした声で同じ台詞を言われ、シェイラはたまらず笑い声を上げた。
「あなたマジメすぎ……! 大丈夫、引き受けた以上最後までやるわ」
「……たくましいな」
「よく言われる。両親直伝よ。借金返済もかかってるし、頑張るわ。対価は仕事の出来で決まるんでしょう?」
ひとしきり笑って、シェイラはベンチに腰を下ろした。
「それに、あなたが守ってくれるんでしょう。騎士様?」
揺れていたマラウクの目に、確かな意志が戻った。
「……ああ、この命を賭けて」
左胸に右手を置き、アズフェルトが一つゆっくりと首肯する。
まるで永遠なる忠誠の誓いのような、神聖な響き。
なんだかどきどきしてきて、シェイラはとっさに遠くの空を見た。
「夕暮れって不思議ね」
金色から赤へ、そして夜の手前の紫へ。
気まぐれに変わる空の色は、羽化し続ける蝶のように見るたびに美しくなっていく。
「……この時間が一番好きなんだ」
夕陽に染められたアズフェルトの長衣の裾がふわりと翻った。
「今日の出来事も景色も……全部やさしい色に染まって、今だけは許される気がするんだ。
ありのままの自分でいてもいいと――」
眩い天空の瞳が今日の役目を終えて、ゆっくり瞼を閉じるまでのわずかな間だけ。
「――あなたは、あなただわ」
いつだってそうあればいい。
光が消え、世界がゆっくりと閉じていく。
その中で、ひどく寂しげなアズフェルトの笑顔を見た気がした。




