豹変
木の陰からティティーリアは勢いよく飛び出した。
アズフェルトが驚いた様子でグラスを口から離す。マグノリアが振り向いた。
「あなた――」
迫力ある美貌が憤怒の形相になる。
――やややや、やっちゃった……!
血の気が一気に引いた。でももう後戻りは出来ない。
「……シェイラ」
グラスを置き、青ざめた顔でマラウクが立ち上がった。「……心配して来てくれたのか。すまない、何も言わずにいなくなって」
アズフェルトが目配せしてくる。その意味に気付き、シェイラは言葉を合わせる。
「え、ええ、そうなの。姿が見えなくなって心配で……。でもまさか公女様とご一緒とは思いませんでしたわ。取り乱して大変失礼をいたしました」
マグノリアに向かって丁寧に頭を下げる。葉っぱや土で汚れたドレスの裾が目に入った。
「マグノリア姫」あずまやを降り、アズフェルトがシェイラのところまでやってくる。
「私は彼女を愛している。だから貴女の気持ちには答えられない。……申し訳ありません」
力強く肩を引き寄せられ、弾みでシェイラはアズフェルトの胸に突っ伏した。苦しげな息遣いと早鐘のような心音が耳から伝わってくる。
「……そう」
静かにマグノリアが言った。「その方が大切なのね。わかりました」
顔を上げた時、去ろうとするマグノリアと目が合った。
「でも、わたくしは……わたくしは諦めませんわ! ええ絶対に、絶対によ!!」
大広間で見た時と同じ、燃える炎のような眼差しだった。
熟れたリンゴのような赤い唇を噛みしめ、黒衣の女王は踵を返す。そして闇の向こうへ足早に去って行った。
「……い、いっちゃった……」
とたんに気が抜けて、シェイラはへなへなとその場に座り込んだ。
恨まれてる。
絶対に恨まれてる。
やっぱりあの時睨まれたのは間違いではなかったのだ。とんでもないことに巻き込まれたのだと、シェイラはようやくはっきりと悟った。
「ど、どうしよう。ぜったい怒らせたわよね、公女様。わ、私不敬罪で首をきられちゃうんじゃ!? あああやっぱり助けなきゃよか……えっ、ちょっ!?」
どさりと乗りかかってきた重みに、シェイラは慌てふためいた。
「すまない……たすかっ……」
ぜいぜいと苦しげな呼吸を繰り返し、アズフェルトがもたれかかってくる。服の上からでもわかるほどその体は熱い。
「ちょっ、ちょっとどうしたの!? きゃーっ、倒れてこないでっっ!」
支えきれず、シェイラはアズフェルトの体を地面に転がした。
草むらに仰向けに倒れ、アズフェルトが目を開く。ちょうどその時月にかかっていたかすみが晴れ、澄んだ銀色の光が地上を照らし出した。
「う……っ」
小さく呻き、アズフェルトの体がびくんと痙攣した。
陶器のような肌に玉のような汗が浮かんでいる。尋常ではないと察し声をかけようとして、シェイラは――見た。
アズフェルトの瞳に、月光が吸い込まれていく。空から降りる砂のような銀色の微粒子が、きらきら光りながら落ちていく。
――瞳の色が――
青から金に変わっていく。
あの時の目だ、伯爵邸で見た時の――。
シェイラの前で、ゆっくりとマラウクが起き上がる。野性的に光る金色の目がシェイラを捕えた。
「……キスしたい」
「はっ?」
熱に浮かされたようなうつろな表情。危機感を感じて身構えようとしたが遅かった。仰向けに押し倒され両手を草の上に押し付けられる。手の中から小ビンが転がり落ちた。
「きゃーーっ! なにすんのっ!?」
「……しー、静かに。恥ずかしがるなよ、いい子だから」
「え、ちょっ……!?」
目が怖いんですけど――!?
強く抱きすくめられ目の前に火花が散った。
全身が心臓になったようにドクドクと脈打ち始める。アズフェルトの手が首筋から鎖骨へと降りていくのに気付いて、あらん限りの声でシェイラは叫んだ。
「い、いやーーーーぁっ! お嫁にいけなくなったらどうすんのよーーっ!」
「シェイラ!?」
その時、茂みの中から走り出てきたのはウィルだった。
「あ~もう! このバカがっ!」
アズフェルトに掴みかかり、地面へと引き倒す。そして馬乗りになるとシェイラに向かって手を伸ばした。
「シェイラ! あのビンは!?」
「えっ、あ……は、はい!」
草むらを見回す。すぐそばに落ちていたのを慌てて拾いウィルに渡した。
「まったく、世話がやける侯爵様だよ!」
親指でビンのふたを弾き、ウィルは親友とは思えない乱暴な手つきでアズフェルトの襟首を掴んで引き起こす。そして顎を押さえると、口の中に小ビンの中身を流し込んだ。
「かはっ……!」
飲み干して数秒後、アズフェルトが目を見開いた。ウィルの手を振り払い激しくむせ返る。
「ウィ、ウィル様さすがに乱暴じゃあ……」
悶え苦しむアズフェルト。だがウィルはまったく気にすることなく、立ちあがって礼服の汚れを落とし始めた。
「大丈夫だよ、ほら」
ちらりと一瞥を投げた先で、がばっとアズフェルトが起き上がった。
「ウィル……! お前――」
「なに? 言っとくけど、僕は悪くないからね。君が理性を失いかけたところをまた救ってあげたんだから。謝るのは君だ、よっ!!」
ほら! とウィルがアズフェルトの背中を肘で押す。草むらに呆然と座り込んだまま、シェイラはた
だただ目を丸くするしかなかった。
「……どういうことなの?」
乱れた髪から木の葉がぱらりと落ちた。それを見て、アズフェルトがはっと口元を押さえた。
「あ……まさか、また俺は君に――」
その目はもとの青色だった。顔つきも声も、いつものアズフェルトに戻っている。
「……あなた……いったいどうなってるの?」
あれは誰? 姿は同じなのに、まるで違っていた。別の人格が乗り移ったような――。
「――これが……“呪い”だよ」
混乱するシェイラに向かって、力なくアズフェルトが呟いた。
「シンクレア家当主に代々受け継がれている……魔女の呪いさ」




