目撃
「――いけませんよ、同調しては」
誰かに聞かれまいとでもするようにエルヴィスが声をひそめた。
「魔に魅入られてしまいますよ。彼女の魂はまだ、この世に残っているかもしれない。狂気を植え付ける清らかで純粋な苗床を探して――ね」
手の中の小さな灯火に、エルヴィスがふっと息を吹きかけた。
明かりが消え、視界が暗闇に落ちる。石室の無機質な冷たさが、急に肌にまとわりつく。
「特に今夜のような不吉な夜は、何が起こるかわかりません」
暗夜と同化した空間に、謎めいた響きが溶ける。その時かすかな光が肌に触れるのを感じて、シェイラは夜空を見上げた。
雲の切れ間から月が顔を出そうとしている。
ぼんやりとかすむ銀色の爪のように細い月。
流れる雲の檻が開かれ、影絵の世界がほんの少し明るくなる。
「うつろう月の魔力に魅せられ、さまざまな思惑や罠が動き出す……ほら兎がやってきた」
じょじょに目が慣れてきた暗闇の中、いつの間にか横に立っていたエルヴィスが窓の外を指さした。
月に向けていた目線をシェイラは下げる。塔の下に生い茂る木々の間を何かが横切って行くのが見えた。
ウサギ?
違う、人間だ。二人いる。あれは――
「ああっ!」
先頭の人影が持つランタンの明りで、一瞬その姿が見えた。
――アズフェルトと、マグノリア姫……!
間違いない。田舎育ちで目はいいのだ。いないと思ったらこんなところに――思わずひくっと口の端が引きつった。
「ちょっと何してるわけ! あの二人!」
急いで靴を履き、シェイラは走り出した。だが階段の前ではたと我に返る。
――ちょっと待って……なんで私追いかけようとしてるの?
別に二人が一緒だからって焦る必要なんてない。人を放り出して逢引してるのは気に食わないけど。ていうかアズフェルトはマグノリアから逃げていたのでは?
「おや? お知り合いですか?」
「知らない。ぜんっぜん知らない! 見間違ったみたいっ」
振り返ってぶんぶんと首を振る。ふうんと呟いてエルヴィスが林の奥へ遠ざかっていくランタンの明かりを見つめる。
「そうですか。でも彼、危険ですねえ」
「え?」
「月に……付き纏われている。強い輝きを内に秘めているのに、闇の呪縛に侵されている。このままじゃ危ないですねえ」
――月? 闇の呪縛?
何のことやら。シェイラは肩をすくめた。
「私にはどうでもいいことよ、見ず知らずの人だし! でもなんだかイライラしてきたから、お菓子でも食べにいくわ。ごきげんよう、座長さん!」
大広間の隣の貴賓室には軽食の準備がしてあった。大公の城だ、きっと見たこともないような豪勢な茶菓が山ほどあることだろう。こうなったら食べてやる。コルセットが弾け飛ぶくらい食べてやる――
「では、私もそろそろ行くとしましょうかね。余興の準備をしなくては――ああ、そうだお嬢さん。彼を追いかけるならこれをお持ちなさい。王子を救う鍵になるかも」
階段へ向かおうとしたシェイラの手をエルヴィスが引き止め、そっと何かを握らせた。
「……お気をつけて。女神のご加護を」
夜気のように涼やかなエルヴィスの声が、耳元をかすめた。
「えっ、何? だからあんな人ぜんぜん知らないって――」
振り返って文句を言おうとして――シェイラは目を疑った。
いない。出口はひとつしかないのに。
男の姿は消え失せていた。だが石窓の縁には、消えたはずの小さな炎が置かれている。
まさかと思って駆け寄り、シェイラは下を覗き込んだ。
「ど、どうなってるの?」
唖然としつつ窓から身を引いて、ふと手の中の感触を思い出す。
そっと指を開いてティティーリアははっとした。
小さなガラスのビン。中には茶色い液体が入っている。
「木蓮の紋章……これ、侯爵のだわ」
――どうしてあの人が?
考えてみるが疑問符しか浮かばない。……とりあえず諦めた。
――まあ……いいか。
とりあえず持っておこう。いざというとき責任追及の際のいい切り札にはなる。でも届けてなんかやらない。持っているだけだ。握りしめ、シェイラは螺旋階段を下った。
「あ、いた! シェイラ!」
アーチをくぐって回廊に戻ってきたところで、慌てた様子のウィルと出くわした。
「よかった、どこにいっちゃったかと思ったよ~。さっきはごめんね、彼女たち強引で断れなくてさあ……て、フィーは? 一緒じゃないの?」
シェイラが一人であるのを見て、ウィルが首を巡らせる。
「知りません。でも探す必要ないと思います」
ぴしゃりと言い放つ。――ああ、猛烈に甘いものが食べたい。
「へ、どういうこと? 何かあった? ――あれ、君が持ってるのって」
シェイラが手にしている小ビンに、ウィルの表情が険しくなる。
「やっぱり! それ、フィーのだよね? 拾ったの? まさかあいつ落として――ねえ、本当に姿を見てない?」
急にそわそわし出したウィルに、「い、いいえ」とシェイラはとっさに否定した。
「ああああ、まったく何やってんだよ! それがないと困るクセに」
頭を抱えウィルが唸る。
「あの、これ、ただのお酒でしょう?」
「う~~そうなんだけど、そうなんだけどあいつには必要なんだよ……あっ――」
困惑した顔を上げたと思うと、今度は回廊の手すりに飛びついた。
「やばい、月が出てる――こりゃまずいぞ」
雲が切れ、夜空が晴れていく。振り返り、ウィルが叫んだ。
「頼む、シェイラ、フィーを見つけるのを手伝って! 一刻も早くそれを渡さないと」
いつもの紳士ぶりはどこへいったのか、力強く肩を掴まれシェイラは狼狽する。
「わ、渡すってこれを? どういうこと?」
「月に酔うんだ!」
「はっ――?」
「だからその前に止めなきゃ――僕はもう一度広間を見てくる! 君はとりあえずこのへんを探して。急いでね!」
「ちょ、ちょっと待って!」
当惑するシェイラを残し、ウィルは走って行ってしまった。
――行かないわよ……私。
ふるふると、小さく首を横に振る。
これ以上巻き込まれたくないし。お菓子食べなきゃだし。
手の中のビンをシェイラはぎゅっと握りしめた。




