月影の道化師
「ふう」
大理石の柱の陰から周りに誰もいないのを確認して、シェイラは胸を撫で下ろした。
一曲目がすんでアズフェルトが戻ったのも束の間、今度は人々の挨拶攻めにあった。
伯爵だの男爵だのその妻だのと何人も紹介され混乱寸前のところに、今度は女性たちに囲まれ――。アズフェルトはアズフェルトで騎士団の関係者や交流のある貴族たちに捕まり、頼みのウィルはダンスの相手をせがむ取り巻きの令嬢たちに連れていかれてしまった。
そして婚約に興味津々の女たちに根掘り葉掘り訊かれ、やっと終わったと思ったら今度はアズフェルトの姿がない。もう我慢できず広間を抜け出してきてしまった。
――いったいどこへ行ったわけ?
よろよろと、柱に手をつきながらシェイラは回廊を歩き出した。
守るとかいったくせに、なんて無責任な。苛立ちを噛みつぶしていると、
「……笛の音?」
風の音かと思ったが違う。この先から聞こえてくる。
支柱の並ぶ回廊を進み、アーチ型の入口をくぐり抜ける。その先は細長い塔の中だった。
炎を宿した大きなランタンが上から長い鎖でつり下げられている。石造りの壁に沿って螺旋階段が上下に伸びている。
――この上からだ。
小川のせせらぎのような美しい音色にひかれて、シェイラは階段を上っていった。
階段の途切れた先は小さな石室になっていた。石壁を大きくくり抜いた窓からは外の景色が見渡せる。そこに一人の男が座っていた。
「――おや、夜陰にまぎれて天使がお見えになった」
石床に置かれた小さな燭台の炎が夜風になびく。笛をおろし斜めに被った羽根つき帽子の縁を、男は会釈代わりに少し下げた。
「あなたは……」
薄暗いのと、長い前髪に左半分が隠されていて顔はよく見えない。だが年は二十代半ばほどだろう。くたびれたシャツにリボンタイ、そしてたてじま模様の吊りズボンという出で立ちには見覚えがあった。
「コールリッジ伯爵邸のパーティにいた……?」
寸劇をした旅一座の役者だ。幕の陰から広間を覗いた時に見た気がする。
「おや、お嬢様もあのお屋敷に? 覚えていただいていたとは光栄です。しがない旅一座の座長、エルヴィスと申します」
長い足をするりと窓から下ろして立ち上がると、エルヴィスは帽子を取り芝居じみたお辞儀をした。道化師のようなおどけた雰囲気に気分が和む。
「こんばんは、座長さん。私はシェイラよ。さっきの曲はあなたが?」
「はい、ティン・フルートという古い楽器です。お気に召しましたか?」
手に持つ細い銀色のたて笛を、エルヴィスが見せた。
「ええ、すごく素敵な音色、春のそよ風みたいで。思わず追いかけてきちゃったの。でも、どうしてこんなところに?」
「怖れ多くも本日は大公閣下よりお招きに預かりまして、芝居を披露させていただくことになっております。ですがわたくしどものような端の者が、このような大役を仰せつかることなど未曾有の事態。落ち着かず、一曲奏して気を鎮めておりました」
上がり症でして、とそうは思えない落ち着き払った声で言う。
「さっきの曲は、あなたが作ったの?」
「いいえ、とんでもない。神々の伝説や神話をもとに作られた『聖曲』と呼ばれるものの一つです。我々は各地に伝わる伝説や神話を題材に、即興詩や芝居を行っておりまして」
「伯爵邸でやった『ガードルードの魔女』みたいな?」
「そうです。本日も大公様のご所望で同じ演目を。この間はいかがでしたか」
そう訊かれて、シェイラは言葉をためらった。
「……ごめんなさい、実は見ていないの。私は招待客じゃなかったから」
別にこの男に話したところで害はないだろう。正直に告げる。
「本当はお嬢様でもないの。ふりをしているだけだから。でも疲れちゃって、逃げてきたところ。やっぱり慣れないことって難しくて」
エルヴィスの座っていた石窓に座り、シェイラはヒールのついた靴を脱ぎ落した。
「ふり、ですか」
「そう、とっても複雑なの」慣れない靴のせいでじんじんする足先を冷たい石床に下ろし、シェイラは肩をすくめた。
「でも魔女の話は知ってる。有名だもの。人間の男の魂が好物の魔女を伝説の騎士が滅ぼす、英雄物語でしょう?」
「そうですね、見ようによっては。でも本当は、悲しく純粋な恋の物語なんですよ。“魔女”と呼ばれて恐れられてしまった、一人の憐れな女性のね」
「女性? 魔女は人間だったの?」
シェイラは目を瞬く。笛をズボンに差し、小さな火の灯るろうそくをエルヴィスがそっと持ち上げた。
「そう。彼女は最初は魔力など微塵も持たない人間だったのです。だが一人の男を愛し手に入れたいと思うあまり、本当に魔性に魅入られてしまった」
揺らめく赤い炎の向こうで、エルヴィスが不思議な虹彩を放つ右目を細めた。
「愛しすぎて、おかしくなってしまったってこと?」
「恋は盲目、と申しますでしょう――? 時に美しいはずの感情はどす黒い狂気となり、人を傷つける刃となる……。身分違いの恋に苦しみ、女は禁じられた魔術に手を出した。そして狂気にとり憑かれ魔女となった。無差別に人々を襲い傷つけ……その代償に処刑された。長い歴史の中で物語は都合よく作り変えられてしまいましたが」
「……初めて聞いたわ、そんな話。じゃあ本当は神秘的なおとぎ話なんかじゃないのね」
「今では立派な伝説ですよ。人々が信じれば、それは嘘ではない。人の世では嘘と真実はつねに隣り合わせですから」
「そうかもしれないけど、でも――」
石壁にもたれ、雲がさまよう夜空をシェイラは見上げた
「本当は悲しい話なのね。愛しすぎた結末っていうか……。でもきっと苦しくて怖かっただろうな。それほど人を好きになるのは」
自分にはそんな経験はないけれど、もしもそうなったらどうするだろう?
絶望に支配され誰かを傷つけてもいいと思ってしまうかもしれない。




