幕が開く
扉を抜けた途端、華やかな音楽と喧騒に抱かれた。
巨大なシャンデリアが輝く大広間内は人で溢れ返っていた。グラスを重ねる音、笑い声、ざわめきさえもどこか高貴な響きに聞こえる。優雅な音楽に合わせてパラソルのように翻る貴婦人達の白いドレスの裾が、まるで幻想のようにシェイラの目に映った。
「シヴォーレン候、アズフェルト・ディー・シンクレア様ご到着にございます」
大きく放たれた従者の声に、音楽がぴたりと止んだ。
アズフェルトの前で人波がさっと左右に分かれた。人々が一斉に跪き、表敬の一礼で迎える。
――これの……どこが気楽な集まり?
開かれた道をアズフェルトは進んでいく。場の雰囲気に圧倒され、思わず足が竦む。だが気を引き締め、シェイラは思い切って足を踏み出した。
顎を引き、背筋を伸ばす。足取りは羽毛が舞うように軽やかに。
人々の視線が自分に注がれているのをベール越しに感じる。ぴりぴりとした緊張感に煽られながら一歩、一歩進めていくと、緋毛氈の敷かれた大階段の前でアズフェルトは止まった。
「来たか、アズフェルトよ」
威勢のいいしわがれ声が上から降ってきた。
階段の上には黄金の玉座が三脚並んでいる。中でも一際豪勢な真ん中の玉座から恰幅のいい男が立ち上がった。
「レーヴェン大公閣下」
敬礼をして、アズフェルトが跪く。思わず上を見上げそうになったシェイラも慌ててそれに倣った。
「本日は大公閣下御自らのご招待いただき、まことにありがとうございます。ご尊顔を拝す貴重な機会に預かり、恐悦至極に存じます」
滑らかに口上を述べるアズフェルトを見下ろし、大公は満悦そうに頷いた。
「よう参った。待っておったぞ。さあ、面を上げよ」
はいと返答してアズフェルトが立ち上がる。だがシェイラはそのままの姿勢で待った。
許されるまで決して顔を上げてはいけない。それが王たる者に見える時のしきたり。初見の者はたとえ気付かれず永遠に跪くはめになっても待つのが礼儀だという。
忘れられていたらどうしよう――内心不安になったが、大公はすぐにシェイラの存在に気がついた。
「おや、今夜は連れがおるのか。どなたじゃ?」
――来た。ドクンと心臓の音が飛び跳ねた。
「はい。事前にお伝えはしておりませんでしたが、本日は大公閣下に大事なご報告がございまして、連れてまいりました。――私の婚約者です」
ざわり、と大きく大広間の空気が揺れた。
「婚約者……とな。それは初耳じゃ。これは驚いた」ほう、ほう、と繰り返し大公が頷く。「急なことじゃが朗報じゃ。――彼女を前へ」
差し出されたアズフェルトの手をとって立ち上がり、シェイラは数歩前へ出た。
――しっかりやるのよ。
内側からベールを持ち上げる。
この覆いをとったら、別の自分になる。人形娼婦でも田舎娘でもなく、貴族の令嬢に――。覚悟を決めてベールを落とし、シェイラは深くお辞儀をした。
「シェイラ・アルニーと申します。お目通りを賜り感謝いたします、大公閣下」
透き通った声を響かせ、シェイラはふわりと微笑んだ。 花びらの様にアンダードレスを重ねた純白のドレスの裾を広げるその姿は、まるで一輪の白百合――貴婦人にふさわしい柔らかで美しいその物腰に、広間中からため息が漏れた。
それが批判ではなく感嘆を示す反応だと、シェイラにはわかった。その瞬間ためらいや怖れは遠のき、自信のような感情が自然と芽生えてきた。
「これはこれは、美しいお嬢さんだ」
大公がほう、と白眉に埋もれた双眸を見張った。
――この人が大公閣下。
噂でしか知らない雲上の存在をシェイラは興味を持って見上げた。
真綿のような白髪と白髭にどっしりとした体躯という風采は、かつて“西の獅子”と呼ばれるほどの剣の達人だった頃の勇猛さや気概を感じさせる堂々としたものだ。
若かりし頃は輝くほどの美丈夫で、数年前に他界した大公妃とは大恋愛の末に結婚したという。今も結婚記念日を祝うほど愛妻家で愛娘を溺愛しているとのこと。だが目の前の迫力のある強面からは想像しがたい。
「そうかそうか、ようやくお主も身を固める覚悟をしたか。しかし、一体いつそのような話がまとまったのじゃ? 皆も驚いておるぞ」
広間内の動揺を見渡して大公が問う。
「実を言うとまだ正式に婚約はしておりません」凛とした声でアズフェルトが答える。
「彼女の父上にご挨拶に伺った後、進めるつもりでおります。ですが私にとって父のような存在でもある閣下には、先立ってご報告申し上げるべきかと」
「――そうか。それは嬉しいが……しかしアルニーという名の貴家には聞き覚えがないの」
大公の関心がシェイラに向く。今日のために叩き込んだ文字が頭の中に広がった。
「王都アデリアから参りました。わたくしの父は王医をしております」
「ほう、お父上は国医であらせられるか。それはご立派じゃな」
王医とは皇帝より承認を受けたもっとも位の高い医師のことだ。貴族ではないが、彼らはそれと同等の身分や名誉を与えられる。王医の肩書を持つ者は数多くいて、彼らは王家の専属医としてだけでなく、国の公認医師として民間治療も行っている。架空の人物が一人いたところで疑われはしないし、『侯爵家の嫁に見合う身分』としても悪くない。それがアズフェルトの用意したシェイラの“肩書”であった。
「以前王都に訪れた時、家人が病になり彼女の父上に診ていただいたことがあったのです。それがきっかけで親しくなりまして……この女性ならば私の力となってくれると」
この上なく優しく、アズフェルトが微笑みかけてくる。
そうして目を細めるだけで簡単に人を夢見心地に誘う至高の美貌。情感に溢れ、真実の響きを纏うその言葉がすべて偽りだと誰が気付くだろう。とんでもない役者だ――はじらうような微笑みで応えながらシェイラが内心呆れていると、豪快な笑い声が響いた。
「ははは! ほれ見ろ、やはりわしの言うとおりじゃったろう」
さっきまで峻厳だったその顔を好々爺のように綻ばせ、大公が笑い出したのだ。
「いやいや、すまぬ。こやつがあまりに色気がないのでな、『お前も必ず運命の出会いをする』と豪語してやったんじゃ。お主は否定したが、わしは間違っていなかったな」
呆気にとられたシェイラに大公が目配せする。アズフェルトを仰げば、困ったように苦笑を浮かべていた。
「そのようです。こうなっては負けを認めるしかありませんね。――正直、初めて彼女を見た瞬間、目が離せなくなりました。一目ぼれだったのでしょうね」
――うわ、この大ウソツキ。
互いに微笑み、見つめあいながら、シェイラはそう罵りたい気持ちをぐっと押さえ込む。そんな葛藤も知らず、皆の羨望を集める貴公子は余裕たっぷりに演技を続ける。
騎士とは国や人を陰から支え守る外壁。守護者の誓いを立てた時から、私はロザリアムの国民の平和と幸福に身を捧げようと決意し、そのために不公平な感情は排除すべきだと考えてきましたが――」
「何を言うとる」呆れたように大公が遮る。
「数々の軍功を誇るシンクレア家の者が日陰の存在であるものか。似合わぬことを申すな。リジオン騎士団は我が国の輝かしい飛躍の象徴じゃ。お主には総長として、さらなる盛名のために力を注いでもらいたいと思うておる」
「閣下、私は……」何か言いかけてためらい、アズフェルトは視線を下げた。そして小さく首を振り、もう一度大公を見上げた。
「……もちろんです、我が主君の仰せのままに」
「うむ、期待しておるぞ。お主が団長に就任して以来、志気が高まりみないっそう使命感に燃えていると聞く。さすがは聖騎士オーリオ・シンクレアの末裔じゃ。その遺志を継ぐにふさわしい。それにめでたく生涯の伴侶も得たしの。みなの者、ともに祝おうではないか! 我が国の花形騎士の新たな門出と、みなで迎えし多幸に満ちたこの夜に!」
大公の掛け声で、楽隊が軽快な舞曲を奏で始め、優雅な喧騒が舞い戻った。




