開門Ⅰ
ヴィクトリアに夜の気配が迫る。
豊穣の女神ティアナを奉る大聖堂の鐘の音が今日の終わりを告げれば、街灯の明かりが波紋のように広がり、都は昼から夜の顔へと変化していく。クレ・マリアでは花街の灯が色づき、セント・エリスでは窓明かりが灯る――今宵も華麗なる夜会の始まりだ。
「――緊張してるのか?」
走る馬車の中でアズフェルトが訊いてくる。膝の上で握りしめた両手はそのままに、シェイラはげっそりと顔を上げた。
「……おかげさまで。今にも吐きそうよ」
アズフェルトの整った眉がかすかに歪む。薔薇色の口紅をひいた唇を曲げてシェイラはふんと顔を逸らした。
過酷な教練期間を終え、大公主催の舞踏会の夜がやってきた。
今日は昼過ぎから目の回る忙しさだった。礼儀作法やダンスの最終確認、着替えに化粧にと引きずり回され……気づいたら出発の時間。しかも侍女たちがいつも以上に気合いを入れてコルセットを締めてくれたおかげと緊張で、胃がキリキリしっぱなしだった。
「別に難しいことはないよ。君は俺の隣で微笑んで、適当に相槌を打ってくれればいい」
白い手袋をはめながらアズフェルトが軽い調子で言う。上等な白の三つ揃いが嫌味なほど似合う完璧な居姿を、シェイラは横目に映した。
大公主催の夜会では、招待客たちは白を着る決まりがあるそうだ。色を身に着けていいのは大公一家だけ。これは大公に対する『変わらぬ忠誠心』を意味するらしく、守らぬと不実の臣として罰せられるのだという。シェイラも今夜は腰にサテンのリボンのついた純白のドレスと白い長手袋をしている。
「簡単に言わないで。笑うのだって難しいの。歯を見せるなとか声をたてるなとか、唇の開き具合にも決まりがあるのよ。今日は鏡を見られないから、どうなるかわからない」
とげとげしく言い返し目が合う寸前で視線をはずす。アズフェルトが息をついた。
「……ずいぶんつっかかるな。怒ってるのか?」
「当たり前でしょ!」
反らしていた首をシェイラはもとの位置に振り戻した。
涙型の真珠の耳飾りが揺れる。
みるみるうちに全身に血の気が戻ってくるのを感じた。
「人に大変なことを頼んでおいて、一度も顔を見せないっていうのはどういうことよ。言いたいことだって山ほどあったのに!」
結局アズフェルトとはこの一週間、今日まで一度も顔を合せなかった。
どんなに遅くてもいいから取り次いでくれと、ずっと待っていたのに。
「……それについては申し訳なかった。でも仕事が立て込んで休む暇もなく――」
「だからって無責任よ! 仮にも婚約者になれっていうのにほったらかしなんて」
ふんぞり返るようにシェイラは両腕を組んだ。
「でもそうよね、私は卑しい花街の女だもの。あなたにとってはどうでもいい存在よね!」
「……いや、そんな風には思っていないが」
「うそ! 絶対思ってる。この一週間私がどれだけ大変だったか……! それも知らずに黙って笑えですって? 悪いけど、私はそんなに聞き分けよくありませんから!」
強気に言い放ちきっと睨みつける。アズフェルトが面食らった顔になる。
「……気が強いな。上層界のご婦人方は男に向かってそんな風に言い返したりしないぞ」
「当たり前でしょ、私はお嬢様じゃないんだから! 批難したいならすればいいわ」
むうと口をへの字に曲げると、アズフェルトが吹き出した。




