Shall we dance?
「うまい、うまい。その調子」
壁一面がガラス張りになった明るい広間を、優雅なワルツの音楽が満たしている。
幾何学模様を描く寄せ木の床を、ウィルの足が軽やかに滑っていく。何度も繰り返されるその動きをシェイラはぎこちなく、必死に追いかける。だが同じところでまたつまずいて、ウィルの軍靴の先を思い切り踏みつけた。
「あっまた……! ご、ごめんなさい!」
バイオリンの音色が止まる。ウィルが白い歯をのぞかせた。
「平気、平気。気にしなくていいよ。こういうのは慣れだから。ゆっくりでいいから僕に合せて。バランスをくずしても手を放したりしないから」
「は、はい」
一度足を止め、言葉通り丁寧にゆっくりウィルがステップを踏み出す。また足を踏まないように心掛けながら、シェイラは再びつま先に集中力を送った。
よろけそうになったが腰に回されたウィルの腕に助けられ、今度はターンがうまくいった。うれしくなって、シェイラの口元が自然とほころぶ。
「あ、笑った。かわいいなあ。それ、本番でも忘れずにね」
息が降りかかるほどの距離で、ウィルの薄緑色の双眸が微笑む。急に恥ずかしくなり、シェイラは視線を下げた。
さすが貴族の一員だけあって、『特別講師』のウィルのリードは完璧だった。同じステップを繰り返し、シェイラが覚えたら次へ。間違えても立て直し、タイミングを揃えてくれる。開始からまだそれほど時間はたっていないが、すでにシェイラはこつを掴み始めていた。
「シェイラ、君筋がいいよ。これなら明日は教えにこなくてもよさそうだなあ。……ちょっと残念だ。もっと君の笑顔を一人占めしたいのに」
「わっ」
耳たぶに触れた吐息に、シェイラの集中力が切れた。がくっと膝が折れたところをウィルに支えられる。
「あの副総長様? 真剣にやってるんだからふざけないでください!」
「ウィルでいいよ。何が? 僕は真実を口にしたまでだよ。真っ赤になった君もかわいいね」
歯の浮くようなセリフにシェイラの顔が上気する。
さっきから何度、この羽が生えたように軽いふわふわとした言葉に惑わされただろう。
今まで父以外の男性と親しくつきあう機会のなかったシェイラにとって、この愛想の良さは反則だ。からかわれているとわかっていても、不用意にどきどきしてしまう。
「……そうやって、いったい何人のご婦人を口説いてきたんです? 子爵家のお坊ちゃま」
社交界ではアズフェルトと人気を二分するという口説き魔をシェイラは出来る限り睨みつけてやる。
「やだなあ、今は君だけを見ているのに他のご婦人のことなんて。子爵家の息子といったって僕は次男だからね。兄がいる限り家督を継ぐことはないし、自由人なのさ」
「私なんか構っているより、お仕事に行かれたら? また侯爵様に叱られますよ」
抱き寄せようとするウィルの胸を押し返し、シェイラは上着の胸にある薔薇の徽章を指さした。
彼が着ている真っ白なロングコートは、見習いである従騎士や準騎士は着られない、数少ない正騎士だけに許された正装だ。腰に下げているサーベルの柄には、アルベイン子爵家の家紋であるアイリスの意匠が施されている。
「今日はいいんだよ。ダンスの講師が足を怪我したっていうんで僕が代理を仰せつかったんだから。よし、ちょっと休憩にしようか。ちょうどお茶の時間だ」
柱時計がボーンと鳴ったのと同時に、ティーセットを抱えた召使いたちが現れた。テラスへ出る窓辺のテーブルに真っ白なクロスを広げ、手際よくお茶の準備をしていく。
ウィルにエスコートされ、心地の良い陽だまりの中にシェイラは座った。紅茶の注がれたティーカップが置かれ、それに続いて次々とケーキやお菓子が運ばれてきた。
「あの……こんなに食べるんですか?」
クリームののったマフィンにドライフルーツのケーキ、タルトにプディング……ただならぬ量にシェイラは身構えた。あと二刻もすれば昼食になるというのに、これはかなり重い休憩だ。
「この家に来るとこれが楽しみなんだ。毎日レイトンパークにある人気の菓子店から、職人を出張させて作らせてるんだよ。僕のオススメはこのホロヴァ」
おいしいよ、と差し出されたジャムがたっぷりのケーキをシェイラは受け取る。
ホロヴァとは、柑橘系の果実酒をたっぷり染み込ませた甘い焼き菓子だ。その上にアプリコットやレモンのジャムをたっぷりかけて食べる。以前貴族のパーティでつまみ食いしたことがあるが、お酒の味と匂いが強くてシェイラは苦手だった。
「……侯爵って甘党なんですか?」
「あ、いいよ敬語は。気楽に喋って。うん、もう食事がわりだよね。特に最近は書類の決裁ばかりでイライラしてるみたいで、毎日ホロヴァを山ほど届けさせてる。今日は僕がお届け役。来たついでだしね」
おいしそうにホロヴァを頬張りながらウィルが言う。確かに昨日も一昨日もお茶や食事時には一緒にお菓子を出された。でもまさかアズフェルトの好物だったとは思わなかった。
「……でもこんなに甘いものばかり食べるなんて体に悪いわ。少し控えた方が」
「うーん……それは君も同じかもよ? 砂糖入れすぎじゃない?」
ウィルの指摘に、シェイラははっとして自分の手元を見た。
「ご、ごめんなさい、つい」
三杯目をすくうのをやめてポットのふたを閉め、シェイラははにかんだ。
「あはは、君も好きなんじゃない。意外だな、もっと大人っぽいかと思った」
くすくすと笑うウィルの一言がぐさりと突き刺さる。
「よく言われるわ。……見かけ倒しだって」
「違うよ、悪い意味じゃなくて。まあ確かに話に聞く人形娼婦とは印象がだいぶ違うけど、意外性は大事さ。ここでは型通りに生きる人間が多いからねえ」
否定されなかったのが意外でシェイラは目を見張る。なんだかまたどきどきしそうだ。それに、とウィルの形のいい唇が付け加える。
「フィーの相手をつとめるなら、どこにでもいるお嬢様じゃダメだ。あの“魔女”とその取り巻きたちに勝つ何かがないと――ね」
「……魔女? それってこの間言っていた?」
ガードルードの魔女? まさか実は今も存在しているとでも言うのだろうか。
「違うよ、昔話の魔女じゃない。でも同じくらい厄介かもね。――君も気をつけて」
ウィルが意味深な笑みを浮かべる。急に嫌な予感がしてきた。
「今度の晩餐会で会えるよ、記念すべき君の社交界デビューの時にね。ああ、楽しみだ。よし、それまでに完璧にしないとね! では、もう一度お相手願えますか?」
やわらかな日差しのような笑顔で、ウィルはシェイラに手を差し出した。




