試練のはじまり
翌日からシェイラにとって過酷な日々が幕を開けた。
アズフェルトの用意した家庭教師たちによる調教が始まったのである。
娼館で礼儀作法は学んでいたので、それほど苦ではないだろうと思っていたが甘かった。
話し方や挨拶は当然のこと、歩き方、食べ方、笑い方、首を傾げる角度にいたるまでみっちり指導され、朝から晩まで気が抜けない状態。四日目の朝にはへとへとだった。
「うう、苦しい……もう少しゆるく出来ないの、これ……」
侍女二人がかりで締めつけられたコルセットの息苦しさに、シェイラは呻いた。
「我慢してください。我慢はおしゃれの基本です」
ぐったりと椅子に座るシェイラの髪をとかしながら、侍女のサラが鏡越しにくすくすと笑った。
「……冗談。これ以上きつくしたら、死ぬわ。これでダンスの練習なんて地獄よ……」
貴族の婦人たちはこんな状態で、いったいどうやって平静を装っているのだろう。
人形娼婦の衣装でもコルセットは必需品だったが、こんなに息が詰まるほど締めたりはしなかった。初めの日は悲鳴を上げたほどだ。だが着付け係の二人の侍女には「こんなのは序の口ですよ」と笑われる始末。叫ぼうがもがこうが完全無視で手加減してくれない。
「大丈夫! お嬢様ならすぐに慣れて本物の貴婦人のようになれますよ」
その中でサラだけが唯一きさくに接してくれる。今年十六歳になるという彼女は、いつもにこにこと愛想がよく明るい少女だ。
侍女たちはシェイラが花街から来たことも、にせの婚約者であることも知っている。だから皆世話は焼いてくれるが必要以上に関わろうとはしない。だがサラは違った。
「こんなにお人形みたいにきれいで、髪だって絹糸のようで……あたし断っ然応援してますから、頑張ってください!」
「そ、そうなの。ありがとう……」
――ニセモノなんだけどね……。
目を輝かせて力説するサラに、シェイラは苦笑した。
結局シェイラは婚約者役を引き受けることにした。いや正確には、仕事に行ったきりアズフェルトが戻らなかったためそうするしかなかったのだが。
「旦那様からの贈り物のドレスだってほら、こんなにお似合いで。うらやましいです」
梳き終わった髪からブラシを抜いて、サラがほうと息をつく。鏡に映った自分の姿をシェイラは見つめた。
今日のドレスは胸元にレースのリボンのあしらわれた空色。シェイラの瞳と同じで、陽射しのように明るい金の髪にもよく合う色だ。
朝がくるたびに『旦那様』ことアズフェルトの指示で部屋に届けられるドレスは、どれも肌触りのいい最高級の絹で出来た、下層の人間にはとても手が出ない代物ばかりだ。
――もので釣ろうってわけ?
確かに女の子なら誰だってきれいなものは好きだ。こんな今まで見たこともないような上等で高価なドレスや宝石ならなおさら。
「……侯爵は今日もいないの?」
「はい。昨夜も遅くにお戻りで、今朝も早くからお出かけに。総長に就任されてからお忙しいようで、ここのところずっと騎舎にこもりきりだそうです」
――昨日も一昨日もその前も、同じ答え。いい加減食傷気味だ。
お飾り騎士団の何が忙しいのか。逃げているに違いない。だがサラの見解は違っている。
「旦那様は大公様やロザリアムのために、騎士団をよくしようと頑張っていらっしゃるんです。とてもご立派ですわ。まだお若いですが……ご聡明で誠実で正義感に溢れる、素晴らしいご当主様だとわたしは思います。このお屋敷にお仕えしてまだ二年ですが、あたしたちのような下々の者にもとってもおやさしくて」
サラがふっくらと柔らかそうな頬をほんのり赤く染めた。
――おやさしい? 私にはだいぶ横柄な口のきき方でしたけど?
ここ三日、アズフェルトの話題に触れるたび侍女たちは同じように彼を褒め称える。
大公様のお気に入りで、狩りや晩餐会には必ず招かれること。王国軍より誘いが来るほど有能な騎士であること。何かすると笑顔で必ず『ありがとう』と言ってくれること、などなど。そして最後は決まってサラのように頬を赤らめるのだ。
「……あれならさぞおモテになるんでしょうね。たいした美男子だもの」
「はい、それはもう!」
皮肉っぽく言ったつもりだったが、サラはその含意に気付かず元気に答えた。
「式典などで凱旋した後は、礼服にレースのハンカチーフが何枚も入っていたり、お手紙が山のように。でも旦那様はすべてお断りしているようで」
「……それは呪いのせいだとか?」
え? と訊き返され、なんでもないとシェイラはその言葉を取り消した。
あんな冗談を真に受けるなんてどうかしてる。使用人たちはいっさいそんな話口にしないし、からかわれたに決まっている。いいや、それより問題なのは。
――私は本人と話がしたいのよ!
結局、その後アズフェルトとは一度も話が出来ていないままだ。それなのに毎日ぎゅうぎゅうにウエストを締めあげられ、しごかれるのは納得できない。お金で買ったものならどう扱ってもいいと思っているのかもしれないが、こっちだって感情のある人間なのだ。
――引き受けたからにはちゃんとやるけど。
昔から一度始めた事はどんなことがあろうと最後までやりとげたい性分である。投げ出したりはしないが、でも働く分はきっちり報酬をもらわなくては。
望む額を与えると、アズフェルトはそう言った。それが本当なら借金が返せる。シェイラはこれを絶好のチャンスととらえることにした。だからその約束がきちんと履行されるよう、きっちりと話はつけたい。
――完璧にこなして、あっと言わせてやるわよ。
誰もが納得する貴婦人になって、アズフェルトを見返してやる。
サラが用意してくれた紅茶をシェイラはぐいっと飲み干した。
「あ……おいしい」
まろやかな味わいと鼻を抜けた優雅な花の香りに思わず声を漏らす。
「本当ですか? よかった。そのお茶はシヴォーレンの特産なんですよ。先日領主館にある工房から届いたんです。今年はとても出来がいいそうで、旦那様もお喜びです」
シヴォーレンは薔薇の産地として有名で、香水や紅茶などの生産が盛んだ。領主であるシンクレア家はいくつもの工房や農園を持っているのだと執事が言っていた。
「領主館って、侯爵の本邸よね?」
「ええ、そうです。お屋敷には工房があって、年に三回ある出荷前にはご当主様が品質の確認をなさいます。大公様にはもちろん、ロザリアムの名産として国王陛下にも献上される品ですから。ですがご当主様はご公務で都に留まることが多いので、普段は大奥様が管理を」
「大奥様?」
「旦那様のお母上です。お身体が弱く、長くシヴォーレンでご療養を。幼い頃に旦那様は先代様とグロウ・ヒースに移られ、ずっと離れて暮らしていらっしゃいます。シヴォーレンはとても素晴らしいところなんですよ。年に何度か手伝いで行くんですが、時期になるとどこもかしこも薔薇の香りに包まれて……。ガードルードの森やミレン湖など自然の美しさにもいつも感動します。それに豊穣の女神ティアナにまつわる伝説もあるんですよ。黄金色に染まった広葉樹の森と青く澄んだ湖から、女神は大天使シリエル様をおつくりになったとか。シリエル様が生まれたとされる湖のほとりには古い聖殿もあります」
リーン王国では豊穣の女神ティアナの信仰が盛んだが、厳しい信教規制はない。地方によっては女神の使いである大天使を崇拝するところも多く、各地に礼拝堂や聖殿がある。
「それにシヴォーレンの本邸は夢のように美しいんですよ。――はい、できた!」
鏡に映るシェイラを見て、サラが満足げに頷いた。
「では、今日もお嬢様修行頑張ってください! 今日のダンス講師は特別ゲストですから!」
それを聞いてがっくりとシェイラは肩を落とした。




