「平民の嫁は邪魔」と言われたので手を引いたら、伯爵家が回らなくなりました
「エリナ。今日から、お前は家の実務に関わらなくてよい」
義母リディア様が扇で口元を隠しながらそう言い放ったのは、当主である伯爵様が領地視察へ出発した翌日のことだった。
隣には、夫のアシェルが腕を組んで立っている。伯爵家の嫡男であり、いずれこの家を継ぐ男。
そして私は、その妻だ。
「……理由を伺ってもよろしいでしょうか」
私が静かに尋ねると、リディア様は侮蔑の色を隠そうともせずに鼻で笑った。
「平民の嫁が、帳簿や使用人に偉そうに指図するなど見苦しいからです。貴族の妻たるもの、優雅に花でも生けていればよろしい」
アシェルも深く頷く。
「君は少々、家の中で目立ちすぎた。父上は現実主義に過ぎるんだ。この家は由緒ある伯爵家であって、平民の商家ではない。数字と効率ばかりで家を動かされては、体面に関わる」
――なるほど。体面、ですか。
私は平民の商家に生まれ、幼い頃から帳簿の数字と人の流れを見て育った。
伯爵家に嫁いだ理由も、表向きは平民の莫大な持参金目当ての良縁。
けれど実際は、負債で首が回らなくなっていたこの家を、根底から立て直すためだ。
『借金まみれの泥船だが、君の手腕でどうか立て直してやってほしい』
伯爵様は最初から、私に頭を下げてそう言ってくださった。
だから私は、身を粉にして働いた。
無駄を削ぎ落とし、帳簿を整え、滞っていた業務を回した。
だが、彼らにとって私は、家を乗っ取ろうとする目障りな平民の娘でしかないらしい。
「……承知いたしました。では、本日より一切の手を引きます」
私が深く一礼すると、二人は「自分の立場をやっと理解したか」と満足そうに頷いた。
その決断が、自分たちの首をどれほど深く絞めることになるのか。
彼らはまだ、欠片も理解していなかった。
――
三日後。屋敷の中に、小さな歪みが出始めた。
朝食の配膳が遅れる。
来客用の馬車の手配が重なる。
同じ食材の発注が二重に行われる。
私が差配していれば、本来は絶対に起きないミスだった。
役割分担と判断のフローが、完全に消滅してしまったからだ。
「エリナ様……その、確認だけでもお願いできないでしょうか」
困り果てた使用人長のマルタが、分厚い書類を抱えて私の部屋を訪れた。
その目の下には、濃い隈ができている。
「ごめんなさい、マルタ。私は実務に関与しないよう、厳しく命じられていますから」
私が首を振ると、マルタはすべてを悟ったように、黙って深く頭を下げて出て行った。
私は手元にある、自分専用の帳面を開く。
『〇月〇日、馬車の手配ミス。アシェル様が御者に八つ当たり』
『〇月〇日、発注ミスによる無駄な出費。リディア様、確認を怠る』
最初は、ただの状況整理のためだった。
けれど、ペンを走らせるうちに考えが変わった。
(――これは、後で必ず必要になる)
――
一週間後。混乱はついに、屋敷の外へと漏れ出した。
『次回納品停止の警告』
商人から届いたのは、ただの遅延通知ではない。長年かけて私が築き上げた信用の崩壊を意味する催促状だった。
帳簿の控えを見れば、原因は明白。取引条件の更新が、一切反映されていないのだ。
「……エリナ」
執務室に呼び出されると、アシェルが忌々しそうに書類を睨みつけていた。
「はい」
「確認だけだ。この数字が合わないのは何故だ」
プライドが高い彼は、決して「助けてくれ」とは言わない。
だから私も、原因となった箇所だけを冷淡に指差した。
「そちらの項目が漏れているからです。では、私はこれで」
それ以上は何も言わないし、手も貸さない。
アシェルはギリッと奥歯を鳴らしたが、私を引き止めることはできなかった。
――
さらに数日が過ぎた。
使用人同士の連携は途絶え、誰も責任を取ろうとしないため、屋敷の機能は完全に麻痺していた。
そして、ついに領地にまで影響が出始める。
西区画の水路の詰まり。迅速に対処しなければ、畑が水に浸かり、取り返しのつかない被害が出る。
「エリナ様、領民たちが困窮しております……!」
マルタの悲痛な報告を聞き、私は窓の外の冷たい雨を見つめた。
家には関与しない。だが、領民たちの生活は別だ。彼らに罪はない。
「……ロイド殿に連絡を」
付き合いの長い現場のまとめ役への、密かな指示。
これは私の命令ではない。表向きは『伯爵様が以前から計画していた補修工事』として進めるよう手配した。
私は帳面に、その事実を淡々と記録する。
もはやただの記録ではない。
然るべき時に示すための、意図だった。
やがて、自分たちだけではどうにもならない事態に、アシェルとリディア様は焦り始めた。
廊下の陰から、二人のひそひそ声が聞こえる。
「あの女を、すぐに業務に戻すべきでは……!」
「今さら平民に頭を下げるなど、できるわけがありません! 何かあれば、すべてあの女の責任にすればよいのです」
静かで、ひどく愚かな決定だった。
私は自室に戻り、ロイド殿宛てに一通の手紙を書いた。これまでの帳面の写しを添えて。
事実を、正しい場所へ置くための準備は整った。
――
翌日。予定より早く帰還した伯爵様によって、緊急の会議が開かれた。
「エリナ。まず確認する。お前は今も実務を見ていたのか?」
長机の上座で、伯爵様が鋭い視線を向けてくる。
アシェルとリディア様は「ついに平民が罰せられる」と、歪んだ笑みを浮かべていた。
「リディア様とアシェル様のご指示により、数週間前から実務には関与しておりません」
「……誰がその判断を下した」
伯爵様の声の温度が、一気に氷点下まで下がる。
私が答えるより早く、会議室の扉が開き、ロイド殿と領民の代表である村長が入ってきた。
「伯爵様、ご報告申し上げます。商会からの支払い遅延が二件、納品停止警告が一件。すべてアシェル様のお名前で処理が止まっております」
「なっ……!?」
アシェルが立ち上がるが、ロイド殿は構わず続ける。
「また、西区画の水路決壊の危機を救ってくださったのは、エリナ様が事前に残してくださった計画書と手配のおかげです」
「エリナ様がいなければ、村は泥に沈んでおりました!」
村長が深々と頭を下げる。
私は静かに、用意していた分厚い帳面を伯爵様の前に差し出した。
「誰が指示を止め、誰が領地の危機を放置したか。すべてここに記録しております」
会議室に、重苦しい沈黙が落ちた。
伯爵様は帳面に目を通し、やがて氷のように冷たい声で言い放った。
「……リディア。アシェル。貴族の体面とやらを守るために、領民の命と家の信用を天秤にかけ、あまつさえ責任から逃げようとしたな」
「ち、父上! これは誤解で……!」
「言い訳は聞かん!!」
伯爵様の怒声が響き渡る。
それで、すべてが終わった。
――いや。
正しくは、ここから始まったのだ。
――
処分は迅速だった。
リディア様は社交の場から退けられ、当面は離れの館で謹慎。
アシェルは嫡男としての権限を停止され、ロイド殿の監督下で領地実務を一から学ばされることになった。
当主の権限で下された決定に、誰も異を唱えることはできなかった。
「エリナ」
静まり返った執務室で、伯爵様が深くため息をつく。
「すまなかった。……どうかもう一度、この家の統括をしてはくれないか」
私は、静かに頷いた。
――
そして、家は戻った。
いや、違う。ようやく「正しく動き始めた」のだ。
翌朝。
「エリナ、この新しい事業計画について、お前の意見を聞きたい」
朝食の席で、伯爵様が私に書類を差し出す。
私はそれを開き、必要な順で、必要なことだけを的確に説明していく。
気づけば。
すべての決定事項が、私を通るようになっていた。
金も、人も、領地の未来も。
これが家を支配しているということなのか、私にはわからない。
ただ、私という歯車がなければ、この伯爵家が一日たりとも回らないことだけは確かだ。
窓の外では、昨日の雨が嘘のように晴れ渡り、朝日が屋敷を照らしている。
この家は、まだ未完成だ。
ならば、私のやるべき仕事は、まだまだ山のようにある。
――それを、誰も止める者はいない。




