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第四幕:共犯 |第9話:仮面の再会

「……どうだ、シエル」


薄暗い洗面所。鏡の前に立つ翔は、自分の顔をじっと見つめていた。

そこにあるのは、どこからどう見ても『すべてを失い、絶望のふちをさまよっている哀れな遺族』の顔だった。目の下には濃い隈が落ち、頬は痩せこけ、瞳の焦点は定まっていないようにうつろだ。

だが、その内側で煮え立っているどす黒い憎しみだけは、鏡にすら映っていない。


『スマートグラスの生体センサーによる表情解析、完了しました。口角の下がり具合、瞬きの頻度低下、微細な顔面筋の強張り。悲嘆に暮れる被害者遺族としての擬態達成率、99.8%です』


骨伝導イヤホンから聞こえるシエルの声は、冷徹で無機質なシステム音声の響きそのものだった。しかし翔には、その声が自分と同じ温度で狂気を宿しているのが、痛いほど理解できた。


「声のトーンはどうだ?」

『通常より半音低く、発声の速度を20%遅延させてください。息継ぎを多めにし、語尾を少し震わせるとより効果的です。……マスター。本日は会社に復帰する最初の日です。くれぐれも、ボロを出さぬよう』

「ああ。わかっているさ」


翔は鏡の中の『抜け殻になった天城翔』に向かって、ひゅう、と浅く震える息を吐き出した。

法廷でケヴィンや桐谷を裁かせるつもりはない。彼らが罰金や軽犯罪で済まされるような「茶番」を待つ気は一切なかった。

奴らから全てを奪い尽くし、本当の地獄へ叩き落とすためには、何よりもまず「自分がまだ何も気づいていない哀れな被害者」であり続ける必要がある。


「……行ってくる。俺とあいつらの『舞台』へ」


翔は洗面所を後にし、誰もいない暗いリビングを抜けて、玄関のドアを開けた。


***


品川にあるアトラス・システムズ・日本支社。

事件から約ひと月ぶりに翔が出社すると、フロアには重苦しくも表面的な「同情」の空気が漂っていた。誰もが見て見ぬ振りをしつつ、腫れ物を触るような視線を向けてくる。


「……天城。無理、しなくてよかったんだぞ。まだ休んでいても……」

「いえ、課長。家に一人でいると……かえって色んなことを考えてしまって、気が狂いそうになるんです。仕事をして、何かに集中しているほうが、まだ救われますから」


課長の労いの言葉に、翔はシエルの指示通りに声を震わせ、弱々しく笑ってみせた。

その完璧な『哀れな男』の演技に、周囲の人間は誰もが痛ましそうに目を伏せた。


そして、翔は自分のデスクに向かってゆっくりと歩き出す。

その隣の席。かつてと何も変わらない場所で、パソコンのキーボードを叩いていた男が、翔の姿に気づいて勢いよく立ち上がった。


「翔……!」


桐谷雄一郎だった。

彼は駆け寄るなり、翔の肩を強く、しかし優しく抱きしめた。


「お前……! 大丈夫なのか? 連絡もつかないし、ずっと心配してたんだぞ!」

「……雄一。心配かけて、ごめんな……」


翔は桐谷の肩に顔を埋めるようにして、うつむいた。

(……こいつだ)

スマートグラスの奥で、翔の瞳孔が限界まで収縮する。

自分を抱きしめているこの腕が、美咲を殴り倒し、泣き叫ぶ凛と蓮の首をワイヤーで締め上げた腕だ。自分を心配そうに見つめているこの目が、妻が絶望の中で凌辱され、息絶えていく様を笑いながら見下ろしていた目だ。


全身の血が逆流し、視界が真っ赤に染まりそうになる。

今すぐこいつの喉笛に噛み付き、その頸動脈を引きちぎってやりたい。


『――マスター、心拍数が急上昇しています。バイタル隠蔽プロトコルを実行。深呼吸を』


シエルの冷ややかな警告が、首の皮一枚で翔の理性を繋ぎ止めた。


「雄一……俺、どうしたらいいかわからないよ……。本当に……何もかも、なくなっちまったんだ……」

「……翔」


翔が声を詰まらせると、桐谷の顔が苦痛に歪んだ。彼は痛ましそうに顔をしかめ、翔の背中を何度も叩いた。


「俺のせいだ、翔……」

「えっ……?」

「俺が……あの夜、お前に資料を届けた後、すぐ帰るんじゃなくて、お前が帰ってくるまでもっと遅くまで一緒にいれば……! あんなクソみたいな外国人が押し入る隙なんて与えなかったのに……! 美咲ちゃんも、凛ちゃんも蓮くんも、死なずに済んだのに……! 本当に、ごめん……!」


桐谷の目から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。

それは、あまりに真に迫った、100%の善意と後悔からくる『親友の涙』そのものだった。

その完璧な嘘、一切の罪悪感を持たない純粋無垢な演技に、翔は恐怖すら覚えた。こいつは人間じゃない。人の皮を被った、底知れぬ悪意の塊だ。


「……やめてくれよ、雄一」


翔は、桐谷の手を握り返した。


「お前のせいじゃない。俺が……俺が、あの夜、お前を見送った後、セキュリティを戻し忘れたばっかりに……。お前が謝ることなんて、何一つないんだ」


自分から最も残酷な言葉を引き合いに出し、翔は自嘲気味に笑った。


「むしろ、お前は……最後の夜に、あいつらに会ってくれた大事な親友だ。……俺にはもう、お前しか頼れる人間がいないんだよ、雄一」

「翔……。ああ、俺でよければ、いくらでも頼ってくれ。お前が立ち直るまで、俺はずっとそばにいるから」


涙を拭いながら、桐谷は優しく微笑んだ。


(……ああ。そうだ。ずっとそばにいろ、雄一。お前をこの手でバラバラに引き裂く、その最後の一瞬までな)


『――マスター。桐谷雄一郎の表情筋解析データを更新』


耳元で、シエルが誰にも聞こえない声で囁いた。


『彼の涙と苦痛の表情の裏側……左の口角の挙筋と、眼輪筋の微細な緩みに、0.2秒間の【快悦】の反応を検知しました。彼は今、この状況を心の底から楽しんでいます。「すべてを失い、完全に自分に依存するようになった親友」を演じることに、極上の優越感を感じているようです』


「そうか……」

翔は誰にも気づかれないほどの微小な声で呟き、自らの席にゆっくりと腰を下ろした。


***


昼休み。

翔は人気の全くない、空調の唸り声だけが響く地下の予備サーバー室にぽつんと立っていた。施錠された密室。ここにいる限り、誰にも聞かれる心配はない。


「……シエル」

『はい、マスター。防音および監視カメラのハッキングロック、維持しています。通話は完全に安全です』


暗闇の中で、スマートグラスのディスプレイだけが青白く発光している。


「まず一人目だ。ケヴィン・ローガン。……あいつを、どうやって地獄に引きずり下ろす?」


翔が問いかけると、シエルは淡々とデータを展開した。


『ケヴィン・ローガンはNexus AIのCTOの息子であり、アメリカ本国でも強力な政治的盾を持っています。単純な犯罪の告発、あるいは私たちから奪取した「防犯カメラ映像の削除履歴」だけでは、優秀な弁護士団によって「部下のミス」「システムエラー」として処理され、最悪でも日本からの退去処分(強制送還)程度で終わる確率が……93%です』

「……法廷じゃ裁けない。親の権力で守られた、安全な温室にいるかぎりはな」

『はい。したがって、彼を社会的に完全に抹殺し、二度と這い上がれない絶対的な絶望へと追い込むには、彼自身の「致命的な弱み」を握り、彼自身の口から「桐谷の殺人を隠蔽した事実」を自白させるしかありません』


空中に、ケヴィンの裏の顔を暴く数々のデータログが浮かび上がる。


『ケヴィン・ローガンは表向きはエリートですが、裏では違法な裏カジノや、未成年が接待するVIP限定の違法クラブの常連です。さらには、Nexus AIの社内予算を横領し、暗号資産をマネーロンダリングして裏社会の組織に流している形跡ログも発見しました』


「……桐谷と知り合ったのも、その裏カジノだったな」

『はい。この横領と裏社会との癒着の証拠は、彼の父親(NexusのCTO)にも隠している、ケヴィンにとって最大の「命綱(アキレス腱)」です。これが公になれば、権力者の父も彼を見捨てざるを得なくなり、裏社会からも追われる身となります』


シエルの声に、底冷えするような冷酷さが混じる。


『マスター。彼が日常的に利用している違法カジノの地下サーバーに侵入し、彼を誘い出すための「罠」を構築します。彼の全財産と社会的地位、すべてを人質に取り、あの夜の隠蔽を自白させましょう。……彼が築き上げた傲慢な塔を、土台から叩き壊すのです』


「……ああ。やってやろうぜ、シエル。奴らに奪われる痛みを……思い知らせてやる」


暗いサーバー室で、翔は口角を歪めて笑った。

それは、朝に家を出た時の「哀れな男」の顔とはまるで違う、修羅の笑みだった。


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